第9話 約束の火
風が止んでいた。
夜の森は静かで、焚き火のぱちぱちと弾ける音だけが、時間の流れを刻んでいる。
ユリシアは、イリスの眠る背中にそっと目を落とした。
丸めた上着を枕代わりに、彼女は浅い呼吸で寝息を立てている。
けれど、その胸の奥に宿る“代償”の気配だけは、目を閉じても消えてはくれなかった。
(……本当に、僕の力は……彼女の命で動いてるのか?)
水晶に映った光景。
ネルが告げた言葉。
イリス自身は何も知らずに、ただ微笑んで、支えてくれている。
その優しさが、いまは刺さる。
ユリシアは拳を握りしめた。
力が、うずいた。
この手に宿った“祝福”が、どれほどのものかは、もうわかっている。
けれどそれが、誰かの命と引き換えだと知ってなお、振るう資格が自分にあるのか――
「……僕は、君を守るために強くなったんだ。けど……」
声にならない独白が、胸の内に渦巻く。
答えなんて、すぐには出ない。
それでも、イリスの体温を守れる距離にいる限り、手放すわけにはいかない。
「たとえ、全部を背負うことになっても……君には、笑っててほしい」
夜空を仰いだ。
星がひとつ、流れていった。
朝露が、森の葉に光を帯びはじめる。
淡い陽射しが差し込む頃、ユリシアはそっと立ち上がった。
「……行こう、イリス」
彼女はまだ眠たげに目をこすりながらも、いつものように微笑んで頷いた。
その表情が、ユリシアにはまぶしすぎた。
旅の道は、前よりも少し険しくなっていた。
けれど、ふたりは歩いた。黙ったまま。
それでも――その沈黙の中に、確かな決意が宿っていた。
「昨日……変な夢を見たの」
ぽつりとイリスが呟いた。
「あなたが、すごく悲しそうな顔で……私に“もう来ないで”って言ったの」
「……そうか」
ユリシアは、うまく言葉を返せなかった。
どんな顔をしていたか、彼自身にはわからない。
ただ、夢の中の自分が“本音”だった気がしてならなかった。
「でも、目が覚めたら、あなたが隣にいて……それで、安心しちゃった」
「イリス……」
ユリシアは足を止めた。
そして、ゆっくりと向き直る。
「もし……僕が何か隠してても、それでも君は、僕のそばにいるって言ってくれるのか?」
「うん。私は“全部”知らなくてもいい。あなたが私を信じてくれるなら、それだけで、私はここにいられるから」
その言葉が、胸に刺さった。
彼女は、どこまでも優しい。
それが苦しいくらいに、強い。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
でもそれは、たしかな気持ちだった。
森を抜けた先に、小さな集落があった。
正確には「かつて集落だった場所」だ。
建物はほとんど朽ちていて、倒れた柱や黒く焼け焦げた壁だけが風に晒されていた。
風が吹くたびに、木の扉がギイィ……と軋んでいる。
「……ここ、誰もいないの?」
セイルが、ぽつりと声を漏らした。
旅の途中で地図に載っていたこの集落に立ち寄ったのは、水と食糧を補給するためだったが、どう見ても人の気配がない。
「……焼かれてるわね」
イリスが低い声で呟いた。「魔力の残滓がまだ、ほんのりと漂ってる」
ユリシアは、焼け残った家屋の壁に手を当て、わずかな魔素を感じ取ろうと目を閉じた。
(これは……“灼熱属性”……しかも、かなりの高位魔法の痕跡だ)
「襲撃を受けたのか……?」
「たぶん、最近の話じゃない。でも……おかしいの」
イリスの声に含まれた微かな違和感に、ユリシアは顔を向けた。
「焼け落ちた家と、草の生え方。時間の経過と自然の回復が一致してない。誰かが……“時間を止めていた”ような、そんな違和感がある」
「時間を……?」
セイルが首をかしげる。
「それって、どういうこと……?」
「つまり、この場所はただ朽ち果てたんじゃない。誰かが“干渉”した形跡があるってことよ」
その言葉を受けて、ユリシアの中に妙な緊張が走る。
(……干渉? それって、まさか……)
彼の脳裏に、ネルの姿がよぎる。
【“観測”しているだけだから】
そう言っていた彼女の声が、なぜか今、耳元に蘇った。
「ユリシア、どうかした?」
「……いや、なんでもない」
この場で話すべきことではない。
彼は無理に笑って、二人を安心させる。
そんなとき――
「っ……!」
突如として、イリスが胸を押さえて膝をついた。
「イリス!?」
ユリシアが駆け寄る。
イリスは息を詰め、額に汗を滲ませていた。
明らかに、体の奥で何かが悲鳴を上げている。
「だいじょうぶ……大丈夫よ……っ」
言葉とは裏腹に、その顔は蒼白だった。
セイルも顔を青くしてイリスを支える。
「やっぱり無理してるんだよ……! 昨日から、ずっと……!」
「……ごめん、ほんの少し、力を使いすぎただけ……」
イリスの声がかすれた。
その瞬間、ユリシアの中で何かが音を立てて崩れた。
(まただ。僕のせいで……)
自分が強くなるほど、彼女は削れていく。
その現実が、皮肉のように目の前に現れるたび、彼の心は深く蝕まれていく。
「……少し、休もう。今ここで、しっかり休んでから進もう」
「でも、こんな場所じゃ――」
「ここでいいんだ。誰も来ないし……イリスの魔力も、回復しやすい」
それは、言い訳だった。
彼女にこれ以上、無理をさせたくなかった。ただ、それだけだった。
やがて、木々の隙間から夕陽が差し込み、焼け落ちた家々の影が長く伸びていく。
誰もいないはずの集落で、彼らは火を起こし、静かに身を寄せ合った。
炎が、静かに揺れていた。
焼け落ちた建物の残骸の中から拾い集めた木片で、ユリシアが火を起こしていた。
魔法ではなく、自らの手で。火打石を使って、何度も火花を散らせ、ようやく灯ったその火は、どこか脆く、けれど温かかった。
「……よく、火を起こせたね」
セイルが驚いたように言った。
「前の世界でね、サバイバル番組ばっかり見てた時期があったんだ」
ユリシアは苦笑しながら薪を組み直す。
イリスは横になり、まだ顔色は優れないままだったが、少しずつ呼吸は落ち着いてきていた。
セイルがそっと毛布をかける。
「……さっき、ごめんね」
イリスが小さな声で呟いた。
「なんで謝るのさ」
セイルが苦笑する。「イリスは悪くないよ。無理させちゃった僕たちのせいだよ」
「ちがうの」
イリスが、目を伏せて続ける。「……私、自分の体のこと……気づいてないふり、してた」
ユリシアは、思わず手を止めた。
「……?」
「なんとなく……わかってたの。私の命が……君の力の源になってるって」
イリスの声はかすれていたが、その響きはまっすぐだった。
「でも、怖かった。気づいてしまったら、君が苦しむって思った。
だから……知らないふりをしてた」
沈黙が、焚き火の音と共に落ちる。
ユリシアは、言葉を見つけられなかった。
「それでもいいって思ってた。君が笑ってくれるなら、それでよかったの。……けど、今日、倒れて、思ったの」
イリスがそっと、火の揺らめきを見つめる。
「君が私のために、泣くようなことは……してほしくないなって」
その言葉に、ユリシアは胸の奥を突かれるような感覚を覚えた。
思い返せば、ずっとそうだった。イリスは、自分のことよりも彼のことを優先していた。
「……イリス」
彼は小さく呟いた。
「ありがとう。言ってくれて、ありがとう」
目を伏せたまま、彼は手を握った。「……これからは、ちゃんと向き合うよ」
イリスは、微かに笑った。
「うん……私も、もう逃げない」
火は、彼らの影を照らしていた。
壊れかけた家屋の中、誰もいない集落で、三人だけの夜が、静かに更けていった。
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