第2話 祈りの墓標と、君の名を呼ぶ声
朝の市場は、まるで春の花が咲き乱れるような賑やかさだった。
ユリシアは、セイルの後をのんびりとついて歩いていた。活気に満ちた通りには、色とりどりの果物や焼きたてのパン、干したハーブの香りが溶け合って、どこか懐かしいような空気を作っていた。
「こっちこっち、ユリシア! この店の蜂蜜パン、めちゃくちゃおいしいんだよ!」
「もう、そんなに急がなくても逃げないってば……」
笑いながら言いつつも、彼の勢いに負けて小走りになる。セイルの背中は、まるで小さな太陽みたいに、無邪気で、あたたかくて、ついていきたくなる不思議な力があった。
「おじさーん、いつものふたつください!」
「はいはい、毎度ありがとよ、セイル坊や。そちらのお嬢さんは……?」
「ボクの友達! すっごく強くて、やさしいんだ!」
店主が目を丸くして笑った。
「へぇ、そりゃ頼もしいな。あんた、あの不思議な光の森で魔獣を追い払ったって噂、あれホントかい?」
「え、あ……まあ、ちょっとだけ……」
ごまかすように笑うと、セイルが得意げにうなずいた。
「本当だよ! ユリシア、あのときすごかったんだよ! バチューンって光ってさ、魔獣がわぁーって逃げて!」
「バチューン……って……そんな演出してたっけ……」
苦笑しつつパンを受け取り、ふたりで街路の端の噴水のそばに腰掛ける。焼きたての甘い香りが、じんわりと手のひらに広がった。
「……あのさ、セイル」
「ん?」
「もし、願いがひとつだけ叶うなら、何を願う?」
またそれか、と自分でも思った。でも、どうしても聞きたかった。何気ないセイルの答えに、心が揺さぶられる気がして。
「うーん……ユリシアとずっと一緒にいたい、ってのはナシ?」
「な、なにそれ……」
顔が熱くなる。だけど、彼はまるでそれが自然な願いであるかのように、屈託なく笑った。
「だって、君がいたら、何があってもなんとかなる気がするんだ」
(……そんなふうに思われてるのか、私は)
胸が、少しだけ痛む。
「……ありがと」
噴水の水がきらめいていた。どこまでも平和で、あたたかい時間。それが、このまま永遠に続けばいいのに——そう願いたくなるほどに。
けれど、心の片隅では知っている。この穏やかさが、長くは続かないことを。
そして、彼の願いすら、いずれは──
風が、甘いパンの香りをどこかへ連れて行った。
昼下がりの陽射しは、町を金色に染めていた。
セイルと別れたあと、ユリシアはひとり、町外れの小道を歩いていた。道の両脇には風に揺れる白い小花が咲き乱れ、その中心にぽつんと、小さな教会のような建物が建っていた。
——「祈りの庭」と呼ばれる場所。
戦いや事故、病気で亡くなった人々の名もなき墓標が並び、訪れる者の多くが静かに手を合わせていく。
ユリシアは、そっとその門を押し開けた。
中は、驚くほど静かだった。街の喧騒がまるで別世界のことのようで、風の音と、遠くの鳥の声だけが耳に届く。
「……誰か、眠ってるの?」
ふとつぶやくと、教会の奥、木陰に埋もれるようにひとつだけ、花束の新しい墓があった。刻まれた名前はない。ただ、淡い青いリボンだけが風に揺れていた。
(あの“星涙花”の色に、似てる)
昨日、セイルと一緒に摘んだあの蒼い花。願いを叶えると言われる伝説の花。その花に似たリボンを見た瞬間、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。
「……イリス」
彼女の名が、思わず口をついて出た。
ユリシアの記憶の中、彼女——イリスは常に光と影をまとっていた。
出会い、導き、支え、そして黙って“何か”を背負っている。
(私のチカラは……本当に、彼女の命を削ってる?)
昨日の夜、夢の中で見た光景。血のにじんだローブ、白い手が震える様子、誰にも見せたことのない、彼女の涙。
夢じゃない。直感的にそう思った。
「どうすれば……守れるんだろう」
ぽつりとつぶやいた声は、風にかき消された。
そのとき——
「ユリシア様?」
振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。黒髪に灰色の目、年は自分より少し上くらいか。
「……誰?」
「すみません、驚かせてしまって。私は神殿付きの書記官、ノアと申します」
彼は丁寧に一礼した。身なりは質素だが、その瞳の奥には、どこか鋭いものがある。
「実は、あなたにお見せしたい書物があります。イリス様から預かっておりまして」
「イリスから……?」
「はい。“あなたが真実に触れるときが来たら”と、そう言って——」
その言葉に、背筋がすうっと冷たくなる感覚が走った。
ノアが差し出したのは、革の表紙に金の装飾が施された古びた書物だった。装飾の中央には、小さく“L.S.”というイニシャルが刻まれている。
「これは……?」
「“契約者の記録”と呼ばれるものです。イリス様が命と引き換えに守っている真実——それが、ここに記されています」
震える手で、それを受け取った。
ページを開くのが、怖かった。
けれど、その重みは、もう避けられない現実だった。
(セイルにも、まだ何も言えてないのに……)
どこかで鐘の音が鳴った。
静かな午後の陽が、ページの文字を照らしていた。
午後の陽が傾きはじめたころ、村の広場には小さな賑わいがあった。
「見てユリシア、ほら、パン屋さんの前に人だかり!」
セイルが興奮気味に手を引いてくる。彼の視線の先には、焼きたてのパンを並べる屋台と、それを囲む子どもたちの笑顔があった。ふわりと香ばしい香りが風に乗って漂い、空腹でなくても思わず立ち止まりたくなる。
「ほかほかのハチミツパン、今日は村長の奢りだってさ!」
「へえ、そんな日もあるんだ」
ユリシアは、どこか気の抜けた声で応えた。セイルにはそれが不機嫌に聞こえたのか、心配そうに覗き込む。
「……疲れてる?」
「いや、大丈夫。ただ、ちょっと考えごと」
「イリスのこと?」
不意にそう言われて、ユリシアの動きが止まった。
「……なんでそう思うの?」
「だってさ、朝からずっと変だった。あの花を見ても笑わなかったし、パンの匂いにも反応しないし。何かあったんだろ?」
そう言ってセイルは、真っすぐにユリシアを見つめた。その瞳の奥には、純粋な気遣いと少しの不安があった。
ユリシアは小さくため息をつき、視線をそらす。
「イリスは……僕にとって、ちょっと特別な存在なんだ」
「うん、知ってる。最初にこの世界で出会った人なんだよね?」
「それだけじゃない。彼女がいなかったら、僕は——いや、なんでもない」
言葉が喉元で絡まる。言えない。言ってしまえば、すべてが崩れる気がした。
「……ユリシア?」
セイルが問いかける。
けれどそのとき、風がふわりと吹いて、空に小さな紙片が舞った。
「……あれ?」
一枚の紙が、彼の頬にひらりと触れ、地面に落ちた。
セイルが拾い上げると、それは古びた紙片だった。インクがにじんでいて、文字は半分消えかけていたが、かろうじてこう読めた。
『“祝福の器”に宿るは、代償の理。願いを叶えるたび、その灯火は削がれていく——』
ユリシアの目が見開かれる。
「どこで……これを?」
「え? 風に乗ってきたんだよ、さっき」
「それ、見せて」
手のひらに紙を受け取り、じっと見つめる。間違いない。これは、昨日見た“文字のない本”と同じ手によるものだ。ならば、この紙がここに現れたのも、偶然ではない。
「ユリシア……?」
セイルが心配そうに覗き込む。
だがユリシアは、何も言わず、ただ紙をそっと胸元にしまった。
(何かが動いてる。僕の知らないところで——)
胸の奥に、嫌な予感がわだかまる。だけど、それを今セイルに伝えることはできなかった。
「……ごめん。やっぱり、少し一人になりたい。先に帰ってて」
「え、でも——」
「大丈夫。後で、ちゃんと話すから」
そう言って、ユリシアは広場を離れ、路地裏へと消えていった。
セイルは立ち尽くしたまま、遠ざかるその背中を見つめるしかなかった。
***
人気のない小道に入ったところで、ユリシアは立ち止まった。
風が静かに流れ、どこからか鳥のさえずりが響いてくる。
ふと、前方に白い影が見えた。
「……イリス?」
ローブのフードをかぶった少女が、石畳の端に腰かけていた。手には小さな花が一輪。星涙花だ。
「君……ずっと見てたのか?」
「ええ。あなたの隣にいると決めたときから、ずっと」
イリスはそう言って微笑んだ。だけどその笑顔の奥には、やはり疲れの色がにじんでいた。
「力の代償……本当なの?」
ユリシアの問いに、イリスは答えなかった。ただ、持っていた花をそっと地面に置いた。
「この花は願いを叶える。でも、代償を支払うのは誰かなんて、誰も気にしない」
「じゃあ……君が?」
「言ったでしょう、少しだけ払ったって。でもそれは、あなたに生きてほしかったから」
その声は静かで、どこまでもやさしかった。けれどユリシアの心には、重く刺さる。
「君の命を削ってまで、僕に生きろって?」
「違うの。ただ……あなたの命が繋がったことで、私は意味を持てた。それだけで、よかったの」
その言葉に、ユリシアは返す言葉を失った。
遠く、広場の鐘が鳴る。
夕暮れが、ゆっくりと村を包み込みはじめていた。
「ユリシア。今日はどんな冒険になるかな!」
町の門を抜けてすぐ、セイルはわくわくした表情で言った。白い石畳が草原へと変わり、開けた丘に続いていく。朝の光は柔らかく、風は心地よい。空にはいくつもの飛行船が小さく浮かんでいて、空想の絵本のような景色が広がっていた。
僕──ユリシアは、そんなセイルの横顔を見つめながら、自然と頬が緩むのを感じていた。
「どうしたの? 笑ってるよ」
「ううん。君がうれしそうだから、なんとなく」
「そう? へへ、だって今日はユリシアとふたりでおでかけだもん」
セイルの言葉は、あまりにも真っ直ぐで、あたたかくて。
僕は、あの夜に見た夢のことを、しばらく黙って心の奥に押し込んだ。
(今日は、今日だけは……ただ楽しくいよう)
セイルにだけは、何も知らずにいてほしい。
この世界の不条理や、僕の力の真実や、イリスのことも——
まだ、口に出すには早すぎる。
僕たちは緩やかな丘を越え、森を抜け、やがて小さな湖のほとりにたどり着いた。湖面は鏡のように空を映し、光の粒が水面で跳ねている。
セイルは荷物から布を広げ、パンや果物を並べていく。
「ピクニックって、ちょっと憧れてたんだ。家族でも友達でもない誰かと、こんなふうに過ごすの」
「……友達じゃ、ダメなの?」
そう問い返すと、セイルは少し困ったように笑った。
「ううん、そういう意味じゃなくて……なんていうか、“特別”な感じ? 君とは、うまく言えないけど、そういう関係になれたらいいなって」
その言葉に、僕は一瞬だけ息をのんだ。
胸の奥で、なにかが静かに揺れた。
(もし、僕が普通の人間だったなら。何の“代償”も背負っていない存在だったなら)
彼の想いに、まっすぐ応えることができただろうか。
でも、今の僕は——
「ありがとう、セイル」
そう言って笑った僕の声は、少しだけかすれていたかもしれない。
食事が終わる頃、湖の向こうに小さな影が現れた。
それは白い小舟だった。
誰も漕いでいないのに、まるで風に導かれるように、こちらに近づいてくる。
「……誰か、乗ってる?」
僕とセイルは目を凝らす。
やがて見えてきたのは、白いフードの人物だった。湖の向こうから、まっすぐに、こちらを見つめている。
「……イリス?」
そう口にしたとき、セイルが驚いたように振り返った。
「ユリシア、知り合い?」
「……うん。ちょっと、大事な人」
言葉を選びながら、僕は立ち上がった。
小舟はやがて岸に着き、イリスは静かに立ち上がった。
「……逢いに来たわ、ユリシア。話さなければならないことがあるの」
彼女の声は、風に溶け込むように静かだったけれど、その響きには、いつになく強い決意がにじんでいた。
セイルは少しだけ不安そうな顔をしていたが、黙って僕の背中を見送った。
「……行ってきて。あとで話してね」
「うん」
僕はイリスのもとへと歩み出す。
その一歩一歩が、胸の奥の重さを少しずつ引きずるようだった。
(きっと、もう逃げられない。僕は……この“祝福の代償”と向き合う時が来たんだ)
イリスの瞳に映る僕は、いま、何を選ぼうとしているんだろう。
湖のほとりに立つイリスの横顔は、ほんの少しだけ緊張を滲ませていた。
「……来てくれて、ありがとう」
その声は、どこか張りつめていて。
僕は彼女の隣に立ちながら、小さく息を吐いた。
「話って、何?」
「……ユリシア。あなたは、この世界の“祝福”を持っている。けれど——」
イリスは一瞬、言葉を飲み込むようにして、視線を湖面に落とした。
「……本当の“代償”は、まだ語っていないの」
僕は静かに頷いた。
彼女が何かを隠していることは、薄々気づいていたから。
「僕の力は……君の命を削ってる。そうなんだよね?」
イリスは、はっとして僕を見た。
驚きと……少しの安堵と、そして、ほんのわずかな涙がその瞳に浮かんでいた。
「……知っていたの?」
「昨日、夢を見た。何かに見せられたのかもしれない。答え合わせがしたかった」
そう言うと、彼女は静かにうなずいた。
「正確には……“命そのもの”じゃないの。私の“時”よ」
「時?」
「うん。あなたが“祝福”を使うたびに、私の時間が削られていくの。年齢ではなく……存在としての寿命、みたいなもの」
……存在の寿命。
それは“命”よりも曖昧で、けれど確実に終わりに向かっていくもの。
「なんで……そんなことを?」
「あなたが“選ばれた”から」
彼女は言った。
「この世界は、もう限界だった。瘴気に満ち、古の祝福も失われて。だから、“外”から力を持った魂を招いたの。私たち……“祈導者”と呼ばれる存在が」
僕は、言葉を失った。
イリスは続けた。
「あなたは、何も知らずにこの世界に来た。だけど、あなたの存在そのものが、“癒し”と“再生”の鍵になる。だから……私の時を代価にして、あなたの力がこの世界に根付いている」
僕は拳を握った。
「それ、君が決めたの?」
「……ええ。私の意思で、誰にも相談せずに。だから、誰を責めないで」
「責めるわけないじゃん……」
僕は思わず叫びそうになった。
「じゃあ僕の力は、君の命……君の時を削って、成り立ってるってわかってて……それで僕は、英雄ヅラしていればいいの?」
彼女は小さく首を振った。
「違う。あなたは“器”なの。私の“祈り”が、あなたという器を通して、この世界に届いている。だからこそ——私たちがふたりで存在することに意味がある」
その言葉には、悲しみでも犠牲でもない、確かな“希望”の色があった。
僕は、何も言えずに立ち尽くしていた。
でも、ほんの少しだけ、涙がこぼれた。
「……君がいなくなったら、僕、どうしたらいいの」
「いなくならないよ」
彼女はそっと微笑んだ。
「まだ、たくさん一緒にいたい。セイルとも、君とも。笑って過ごしたい。それが……私の願い」
僕は、そっとイリスの手を握った。
その温もりは、かすかに震えていたけれど、確かに“生きている”と感じた。
「ありがとう、ユリシア」
「……それは、僕のセリフだよ」
そのとき、ふわりと風が吹いた。
湖の面が揺れ、小舟がまた静かに流れ始める。
空には、いつの間にか虹がかかっていた。
その景色の中、僕たちはただ、手をつないで立っていた。
何も言わず、何も急がず。
ほんの一瞬だけ、永遠に続くかのような静かな時間が流れていた。
でもきっと、これは序章にすぎない。
——次に待つのは、もっと大きな選択だ。
それでも、今は。
この温もりだけを、信じていたかった。
──第二話 終わり。
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