第8話

 夢珠が我を取り戻した時そこにあったのは、なぜか笑顔を硬直させた五娘と、呆れの果てに無の境地へ旅立った延寿の姿だった。それを見て夢珠はすぐに自分が何かやらかしてしまったのだと察するも、いろいろと怖くて詳細を聞くことができなかった。


 気まずい空気の中、養永殿を後にした夢珠はその足で翠九歌昭儀の宮・燕景宮へと向かったのだが――。


 ――あら、意外ね。もっと金銀財宝で溢あふれているものだと思っていたけれど。


 燕景宮は風通りがよく、すっきりとした居処だった。

 想像していたものと大きく違う光景に、夢珠は目を丸くする。寵妃ともなれば取り入りたい下級妃の実家や昇格を狙う宦官、朝廷の官吏たちからの貢ぎ物が集まるゆえ、宮殿内は眩しいほどに煌びやかになるのが通例だ。


 なのに宮への来訪者を通すこの応接室には金の置物や名匠の焼いた壺、翡翠や珊瑚の装飾などの豪奢な美術品がほとんど置かれていない。あるのは古びて見える調度品や、丹精込めて育てられた花の植木の数々。まるで寵妃の宮と思えない。


 もしかして彼女は、ああ見えて実は倹約家なのか。ふとそんな考えに至ったが、先日、椿の前で会った九歌は、贅を尽くした絢爛な衣装を身に纏っていた。


 ――もしや質素を装って陛下から同情を買おうとしているとか?


 皇帝に愛されるためなら、なんでもやるのが後宮妃。そして突飛な愛情表現に翻弄され絆されるのが、今の大誉の皇帝だ。なんら不思議でもない。などと考えていると、前回同様に華やかで美しい衣を身に纏った九歌が、夢珠の待つ応接室へと姿を現した。


「お待たせしてしまい申し訳ありません、皇后様。支度に手惑いまして」

「いいのよ、前触れなく訪ねたのはこちらのほうだし」

 養永殿を辞した後、夢珠は善は急げとその足でここへと直行したため、多少待たされるのも承知済みだった。


「ご挨拶申し上げます、皇后様。それで……今日はどのようなご用向きでこちらへ?」

「貴女と少し話したくて。いいかしら?」

 問うと同時にちらりと視線を九歌の女官へと向ける。するとすぐにそれが人払いの意と分かった九歌が、怪訝に眉を寄せた。

「大丈夫よ、貴女を害そうなんて思ってないから」

 戸惑う九歌に、作り上げた完璧な笑顔を見せる。そして、それ以上何も言わない。

 これぞ別名、圧力である。


「…………皆は下がって」

 いくら寵妃でも皇后の『お願い』を退けるほどの胆力はなかったようだ。九歌は不満をありありと見せながらも諦めを見せ、傍に控える女官たちを下がらせた。

 部屋から出て行く女官らの背を見届け、夢珠も延寿たちを下がらせる。


「さて、では本題に入りましょうか」

 広い部屋に二人きりとなったところで、夢珠は改めて九歌を見据える。

 そういえば彼女とじっくり対峙するのは初めてだ。

 これが寵妃か、としみじみ感じ入る。


 彼女の美しさは元より知っていたが、改めて目にした白く透き通る柔肌に、健康そうな肉体と豊満な胸元は女から見ても十分魅力的だ。九歌の優美な巴旦杏型の瞳に見つめられたら。艶然の微笑みを向けられたら。世間知らずの雲寧などいちころだろう。


 だが今は寵妃の色香を分析している時ではない。自分は九歌に奇策を仕掛けにきたのだと思い出し、夢珠はおもむろに切り出した。


「ねぇ、翠昭儀。貴女――皇后になりたくはない?」


 しばしの沈黙が、両者の間に降りかかる。

 その間も夢珠は笑顔を忘れない。

「……はぁ?」

 当然の反応である。予想どおりの顔が見られた夢珠は、心の内でほくそ笑んだ。


「だから、貴女皇后になりたい? と聞いているのよ」

「お……仰ることがよく分かりませんが」

 九歌は「何言ってるんだ、この人」の表情のまま、強い動揺を浮かべる。手に持っていた茶器があからさまに震え、中身が零こぼれそうになっていた。

 ――あらあら、この程度で尻込むなんて可愛いわね。

 皇后に喧嘩を売るぐらいだから、もっと図太い性格だと思っていた。


「貴女は陛下の一番の寵妃で、他の妃嬪たちからの信頼も厚いと聞いてます。そして、そんな方々から『翠昭儀のほうが皇后にふさわしい』と称賛されていることも」

「も、もしそうだったらどうだというのです。不敬の罪で私を裁くおつもりですか?」

「そんなことはしないし、それぐらいでは不敬を問えないわ。ただ貴女が本当に望むのなら、一度その機会を作ってみようと思ってね。……ということで、今からの提案は他言無用でお願いしたいのだけれど、いいかしら?」

 再びの笑顔、という名の圧力。


 極度の緊張に固まる九歌だったが、少し待ってみても反論の素振りは見られない。つまり話自体には興味があるということだ。そう判断して夢珠は話を続ける。

「何も言わないなら、了承したと見做すわ。では早速だけど明日から十日間、私に伴って職務を手伝ってもらえるかしら?」

「皇后様の職務を?」

「ええ、貴女が皇后にふさわしいかを試すには、実際の力量を見定めるのが一番でしょ。だから十日を過ごしてみて、貴女に私の代わりが務まると分かったら――――」


 夢珠は少しだけ考える素振りを見せてから、もう一度九歌と向き合う。


「私から陛下に廃后を申し出ましょう。どう? 試してみない?」


 まるで新作の甘味を勧めるかのように軽く尋ねると、衝撃のあまり呆然としていた九歌がハッと我を取り戻し、肩を揺らした。

「私をからかっておいでですか? でしたらなんと質の悪い……」

「本気の申し出よ」

「だ、だとしても、そのような裏の読めない提案を喜ぶほど私は無能ではありません」


 夢珠の話には謀計がある。そう読んで警戒を露わにする九歌を見て、夢珠は逆に感心した。皇帝の寵愛がすべてだと思っている愚かな妃嬪なら、これは好機と疑うことなく頷いたはず。どうやら彼女は美点ともいえる用心深さを有しているようだ。

「思惑がないといったら噓になるわ。けど、それは貴女を陥れるものでは決してないわ。それは天に誓ってもいい」

 夢珠は天に向かって三本指を立てて見せる。と、九歌は目を丸くしてから、続けてばつが悪そうに眉根を寄せた。

 天と地と人に誓いを立てるこの行為は皇帝の勅書のような力はないものの、皇后がすれば意味は重くなり、臣下や後宮妃は無条件で信じなければならない、とされる。その代わり皇后が宣言した誓いを破れば信用を失墜し、権威も失うことになるが。


「別に嫌なら断ってくれてもいいのよ」

 夢珠は挑発的な笑みを浮かべる。

「……断れば私に度胸がなかったと、お笑いになるおつもりで?」

「笑わないわ。貴女が首を横に振っても、皇后の名で同じことを命じるだけだから」

 つまり抵抗したところで九歌に断る道はない。何がどうあっても、夢珠の出した提案という名の試練に挑まなければならないのである。


 これが権力。これが後宮。無慈悲に突きつけた理不尽に、九歌の眉間の皺はさらに深くなった。


「自分の意志で高みを目指すか、私の命に従うか。好きなほうを選んでちょうだい」

 夢珠は九歌の自尊心に問いかける。そうしてそのまま返事を待ちながら、もし九歌があとで雲寧に「皇后に無理難題をふっかけられた」と泣きついたらどうすべきか、とも考えた。が、おそらく相談したところであの脳天気皇帝は「そなたが皇后になるなんて、よい話ではないか!」と諸手をあげて喜び、彼女をさらに追い詰めるだろうから、心配する必要もないとの結論に至った。


「もし皇后様の御期待に沿えなかった時は、私を後宮から追い出すおつもりですか?」

「あら最初から弱腰なんて、破竹の勢いと噂の翠昭儀らしくないわね。でも安心してちょうだい、貴女の力が及ばなかったとしても咎とがめはしないわ」

 今回の勝負は夢珠が持ちかけたものなので九歌が負けても罰など与えないし、吹聴して回ることもしない。もし露見したとしても少しの間肩身の狭い思いをするぐらいで、寵妃ならすぐに元どおりになるはずだ。おそらくそれは彼女自身も分かっている。


「……分かりました、皇后様のご提案、謹んでお受けさせていただきます」

 顔に悔しさを滲ませながらも、九歌が頭を下げる。

 よし、これで舞台と役者は揃った。

「今のこの話は、さっきも言ったとおり他言無用で。口が堅く信頼の置ける者になら話ても構わないけれど、万が一、貴女側から子細が漏れて後宮が混乱に陥った場合はその時点で貴女の負け、とさせてもらうわ」


 皇后と寵妃が後宮の長の座をかけて勝負をするなんて、前代未聞だ。後宮内が少々ざわつくだけなら問題はないが、騒動が起因となって先の皇位争いのような大騒動に発展したら厄介だ。説明すると九歌は納得した表情を見せ、頷いた。

 どうやら彼女も無駄な犠牲は好まないらしい。


「では明日、寅の刻(午前四時)に私の宮まで来てちょうだい。長丁場になるから朝餉 も済ませてきてね」

「と、寅の刻っ?」

 まだ夜も明けていない時刻だ。今は空席だが四夫人とされる妃嬪でも、その時間は寝台の中だろうから驚くのも当然である。


 しかし、皇后は違う。

「これが普通よ。今のうちに慣れておくといいわ」

 微笑みながら椅子から立ち上がった夢珠は、茫然自失の九歌の見送りを断って宮殿を後にしたのだった。

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