傘という名の君に晴れ

よなぞろ

出会った雨粒


 今年も栗の花が落ちる頃に、あの日々の思い出が甦る。

 雨の匂い、ぼやけた虹、湿った足音、傘をさしたあなたの遠さ。

 泣き出してしまいそうな空の下を歩いていると、あなたに見つめられているような気がする。無意識のうちにいつの間にか、あなたの面影を探している。悲しくなってしまうのは、わかっているけれど。

 あの日一緒に虹を見た人を。その虹より遥かに綺麗だったあの人を。

 俺は忘れたくない。忘れられない。


「あ゛ーーっ!!間に合わなかった!!」

 ほとんど生徒が下校してしまった後のガラガラの玄関で、鈴木叶は大声で叫んでその場に崩れ落ちた。叶の視線の先、校舎の屋根で隔てられた世界では、大粒の雨が降り注いでいる。

 ついさっき陸上部の練習を終えて片付けを光の速さで済ませてきたけど、神様はせっかちなのか叶を待ってはくれなかった。一緒に練習していた先輩たちは、というと、後輩に仕事を覚えてもらうため、とか理由づけしてそそくさ逃げていった。

 残されたのは、傘は持っていないけど偏頭痛なら持っている叶ひとり。

 走って帰れなくもない。駅前のバス停までは、全力で走れば五分くらい。けれど、さっきから定期的に鈍く痛む頭が、その一歩を渋らせる。

 ──傘、持ってくればよかった。

 そんな当たり前の後悔を噛みしめて、叶は小さくため息をついた。

 そのときだった。


「───傘、貸してあげよっか?」


 ふいに背後からかけられた声は、雨音よりも静かで、それでいて確かに耳に届いた。

 振り返ると、白く細い指が黒い折りたたみ傘を差し出していた。

 差し出す主は、陶器のように白い肌と長い黒髪を持った少女。その黒髪はしっとりと濡れていて、けれど乱れていない。淡いグレーに青を混ぜたような瞳が、真っ直ぐこちらを見つめていた。

「え……」

 驚いて言葉を失う叶に、少女は少しだけ目を細めた。

「ほら。ないんでしょ? 傘。今日、夜までずっと雨らしいよ。帰れないよ?」

「あ……ありがとうございます……」

 少し遠慮がちに手を伸ばし、傘を受け取った。

 ほんの少し冷たい布地の感触が、肌の温度と対比してはっきりと記憶に刻まれる。

 少女は自分のために残ったもう一本の傘──水色で子供っぽい柄の傘を開く。

 そして言った。

「名前、なんていうの? 一年生?」

「え、あ、はい。一年の……鈴木叶、です。」

「叶くん、ね。私は二年。中村杏。……駅まで行く?」

「あ、はい。バス停が駅の前にあって、そこまでです。」

「ちょうどよかった。私も迎え来てもらうから、駅まで一緒に帰ろ?」

 そう言って杏が先に一歩を踏み出す。

 雨に包まれた世界へ、躊躇なく。

 叶は慌てて借りた傘を開き、その背を追いかけた。


 歩き始めてしばらく、ぽつぽつと傘に当たる雨音だけが響く。

「──叶くん、部活は何やってるの?」

 杏の声が、不意に傘の向こうから届いた。「陸上部です。短距離ですけど、100メートルとか。」

「へぇ、走るの、得意なんだ。」

「……走るのが得意っていうより、外で運動するの好きなんです。」

「えー、いいね。私そういうの超苦手なの。」

 体力とか全然ないし、と杏が口元を押さえて微笑む。口の隙間から漏らした笑い声は、雨の音にかき消されてしまいそうなほど小さく、けれどなぜか耳に残った。

 二人で並んで十分程度歩くと、目的の駅が見えてきた。杏は、叶が向かおうとしているバス停と別方向を指さして言った。

「叶くんバス停って言ってたよね。私あっちで親が待ってるから。」

「わかりました。この傘は乾かして返しますね。」

「うん、それが助かる。ばいばい、また話そうね!」

「はい、ありがとうございました!」

 杏はこちらに小さく手を振りながら指をさした方向へ消えていった。

 叶はそれを見届けると、バスを待つ列に並びながら借りた折りたたみ傘をたたんだ。受け取るときは驚いていて全く気づかなかったけど、その傘には薄い色でゆるいイカの絵が描いてある。

 ─────イカ、好きなんですか?

 次話すときは、そう訊いてみよう。先輩はどんな返事をするんだろう。それに対して俺は、なんて返そう。なんて返したらまた、笑ってくれるんだろう。

 そう考えていると、叶は無意識のうちに優しく微笑んでいた。

 

 ちょっとだけ、楽しみだった。


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