第2話 小さなリスのヤロスラーヴ
すべてが真っ黒の城の中、ヤナはずんずんと前に進みます。
閉じていた門はひとりでに開き、壁にかかった燭台はまるで進む先を示すように黒い炎を宿していきました。
そのたびに、なにやら色のついたものがちょろちょろと動く様子がヤナには見えたのですが、それはいつも声をかける前にいなくなってしまうのでした。
とにもかくにも、ヤナは中庭と廊下と螺旋階段を経て、細かい竜の細工が施された大きな扉の前にたどり着きます。
中にはきっと王様か、それに近い何かがいるのでしょう。
誰に声をかけられることもなく奥まで通されたのですから、そこにいるものは城のあるじに違いありません。
「入りたまえ」
重く、低い声が扉の奥から響きます。
普通の人ならば、地の底から響くようなその声に恐ろしさを覚えたことでしょう。
けれどヤナは声に誘われるまま、少しだけ
「ようこそ。人の子よ。気分はいかがかな」
中にはとても大きい、黒いもやのようなものが部屋の奥いっぱいに漂っていました。
「ありがとう。わたしはなんだかとってもいい気分。あなたはいかが?」
ヤナは小さい頃に読んだ本のように、スカートのすそを両手でつまみながら挨拶をします。
これはヤナができる精いっぱいの丁寧な挨拶でしたが、人ならざる黒いもやと相対するにしては少し場違いだったかもしれません。
少なくとも黒いもやにはそうだったのでしょう。
「ははははは! 初対面でわしの気分をたずねた者はおまえが初めてだ。わしが怖くないのかね?」
「ちっとも! だってあなたはこんなに大きいのだもの」
「ふむ。この闇に呑まれるとは思わないと?」
黒いもやはヤナの問いに質問を重ねます。
だって大きなからだは強さの証。
その気になればぺろりと一呑み。歯牙にもかからないに違いないのですから。
けれどヤナは答えます。
「ええ。いっぱい食べないと大きくはなれないでしょう? そして、お腹がいっぱいならみんな優しいもの。こんなにも大きなあなたはとっても優しいに決まっているわ」
「ははは。面白い意見だ、人の子よ。ならば陽気なおまえもやはり満腹であるのかね? 食事を用意させたが不要だったかな?」
「まあ、たいへん! そういえばわたし、とってもお腹が空いていたわ!」
「そうかそうか。では、食堂に案内させよう。ヤロスラーヴ、いるかね?」
黒いもやが声を上げると、ぎいい、と扉が開いてリスのぬいぐるみが入ってきました。さっき持っていたシンバルは、背中に紐でくくりつけられています。
「まあ、あなた! わたしを最初に起こしてくれたリスさんじゃない」
ヤナが声を上げると、ヤロスラーヴは困ったように黒いもやへと顔を向けました。
「客人を食堂まで連れて行ってくれたまえ。その後は好きにしてくれて構わないのでな。ああ、
ヤロスラーヴは黒いもやの言葉に対して何度も頷くと、背を向けて走り出しました。
「あっ、待って、リスさん! それではごきげんよう、おうさま!」
ヤナも慌ててヤロスラーヴを追いかけます。
とたとたと、足音は遠ざかっていきました。
あとには黒いもやだけが残されます。
「ごきげんよう、客人よ。すべてはすべて。おまえたちの望むがままに」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉が城の黒に溶けてもなお、黒いもやはそこにただ一人漂い続けるのでした。
ー◇ー
食堂でヤナの前にまず並べられたのは透き通った琥珀色のスープでした。
お肉とお野菜から出汁だけ取った贅沢な一品です。
「わぁ……! おいしい!」
湯気がまったく出ないほどに冷めていても、ヤナには十分すぎるほどにご馳走でした。
最初はお上品にスプーンでスープを飲んでいたヤナでしたが、最後の方はもどかしく、お皿を手で持って直接飲んでしまいます。
そして、ご馳走はそれだけではありません。
次に運ばれつきたものはソースがかかったマス料理。その次には子羊のハンバーグ。そして最後にはたくさんの小さいケーキが並べられました。
いずれも冬の寒さをともがらにするように冷めてしまっていましたが、そんなことは関係ありません。
ヤナは今まで生きてきた中のどんなときよりも、お腹いっぱいになりました。
とても幸せな気持ちになったのです。
そのとき、ふっと。
小さな体でご飯を運んできてくれたヤロスラーヴのことが気になりました。
自分より小さい者のご飯のことを心配する気持ちが胸によぎったのです。
「リスさんリスさん! あなたはご飯を食べないの?」
ヤナは、カーテンのそばから自分の方を見ていたヤロスラーヴに声をかけました。
ヤロスラーヴはふるふると首を横に振ります。
けれど、そんな姿がヤナには不満でした。
「もう! だめよ遠慮しちゃ。ねえ、わたしクルミのかけらを持っているの。どうかしら、とってもおいしいのよ?」
そう言ってヤナはエプロンから小さなかけらを取り出します。それは先ほどの料理と比べるとまるで
「ね? ね?」
ヤナは小さくしゃがみながらヤロスラーヴのいるカーテンへと近づきます。
そしてそうっとクルミのかけらをそうっとヤロスラーヴの口元に差し出しました。
ヤロスラーヴはキョロキョロと辺りを見渡していましたが、やがて観念したようにクルミのかけらを口に含みます。
するとどうでしょう。
布と綿で出来たヤロスラーヴの口によってクルミはカリカリと砕け、ごくん、と飲み込まれていったのでした。
「まあまあまあまあ! どう? 美味しいかしら? 美味しいかしら?」
ヤナはとっても嬉しそうに尋ねます。
けれど、ヤロスラーヴはクルミを口にしたきり、じいっと動かなくなってしまいました。
つるつると磨き上げられた木の瞳がヤナをじいっと見つめ、そして。
「キミはボクを捨てたりしない?」
言葉を口にしました。
ヤナは少しだけびっくりしました。ヤロスラーヴが歌うことは知っていても、おしゃべりができるとは思っていなかったからです。
けれど、見つめる瞳に嘘をついてはいけないと思いました。
「捨てることはできないわ。だってあなた、私のものではないじゃない」
正直に答えたのです。
ただ、それはヤロスラーヴが聞きたかった質問の答えとは少しずれているようでした。
「う、うーん……。そういうことではないんだけれど。きみ、名前は?」
「わたし? わたしの名前はヤナ。よろしくね」
「よろしく。ボクはヤロスラーヴ。他のみんなにきみを紹介するよ。着いておいで」
ヤロスラーヴはぴょんぴょんと踊るように飛び跳ねながら歩き始めます。
きっと、ヤナの言葉に嘘がないと分かったからでしょう。それは質問の答えに正しく答えることよりも重要だったのかもしれません。
しゃんしゃん! こつこつ。
しゃんしゃん! こつこつ。
真っ黒のお城のなか、今度は二つ。
歩く音が並んで響いていくのでした。
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