老人と絵本

実験的ツジハシ

子供のいなくなった町



私が暮らすこの町には、子供がいない。

いつからそうなってしまったのか、正確に思い出せる者はもう少ないだろう。町の経済が傾き、働き口が減り、若い世帯が少しずつ町を離れていった。そんな中、隣町に行政主導で最新鋭の教育設備を備えた「学園都市」ができた。全寮制で、質の高い教育が受けられるという触れ込みだった。町の大人たちは、子供たちの未来のためだと自分たちを納得させ、次々と我が子をそこへ送り出した。


最初は週末ごとに帰省する子供もいたが、やがてそれも途絶えた。私たちはそれについて話し合ったわけではない。ただ、誰もがその静けさを、どこかで受け入れてしまったのだ。子供たちの甲高い声が消えた商店街は赤さび、町はまるで息を止めたように、しんと静まりかえった。


そんな町で、私は一人、絵本を描いている。毎朝、なじみの喫茶店のテラスで画用紙を広げ、兎や熊を描く。それも、できるだけ楽しげな表情で。その姿は、この町では奇異に映るらしかった。


「また描いてるの。誰も見ないのにねぇ」


向かいの魚屋のおかみさんが、水を撒きながら言った。その声には棘もなければ、同情もない。ただ、そこにある事実を口にしただけだ。


「ええ、まあ……癖みたいなものですから」


私は曖昧に笑って、筆先に神経を集中させる。おかみさんは腑に落ちない顔で一つ頷くと、濡れたコンクリートの匂いを残して店の薄暗い中に戻っていった。彼女の息子も、もう何年も帰ってきていない。



かつて、町に一つだけあった保育園に絵本を卸していた頃は、騒々しかった。私の拙い絵本を、子供たちが奪い合うように読んでくれた。汚れを知らぬ小さな指が絵をなぞり、時には興奮のあまり、ページを破いてしまうこともあった。そのたびに私は眉をひそめていたことを、今なら正直に告白できる。


それなのに、どうしてだろう。失って初めて、あの喧騒が、壊れるほどの生命力が、どうしようもなく恋しくなる。


保育園はとうに取り壊され、今は老人ホームが建っている。私の絵本は、今やこの町の誰からも必要とされていない。先日、完成した一冊を図書館に寄贈しようと持っていった。カウンターにいた若い司書は私を見ると、いかにも申し訳なさそうに、それでいて、どこか無感動な表情でこう言った。


「申し訳ありません。児童書の棚は、書庫に移管しました。他に必要な本がありますから」


「……そう、ですか」

その事務的な言葉が、かえって胸に重くのしかかった。私は何も言えず、絵本を小脇に抱えて図書館を出る。腕の中の絵本が、ずしりと重みを増したように感じた。



机には描きかけの絵が広がっている。大きな木の根元で、一匹のりすがぽつんと座ってお弁当を食べている絵。その絵の下に、いつものように鉛筆で言葉を添えようとして、手が止まった。


「ひとりでも、おべんとうは、おいしいね」


そんな嘘を、もう自分にさえつけなかった。子供たちの不在は、私たちが選んだ未来なのだ。「綺麗な青空のもと、おいしい食事を食べているのだから、幸せなはずだ」と、誰に言い聞かせているのか。


私は、りすの隣の空白を、しばらく見つめていた。そこには、もう一匹の動物を描こうとして、消しゴムで何度も消した跡が、うっすらと残っていた。



夕暮れのシャッター街は、影ばかりが長い。

私は、この虚しい儀式をいつまで続けるのだろう。描いている間だけ、まだここに子供たちがいるような錯覚に陥る。それは慰めであると同時に、静かな自傷行為にも似ていた。


この静寂に、私たちは満足しているのだろうか。魚屋のおかみさんも、喫茶店のマスターも、誰も子供たちの話をしない。まるで、初めから存在しなかったかのように振る舞う。忘れることで、あるいは忘れようと努めることで、皆、自分を守っているのかもしれない。


ならば、忘れずに描き続ける私は、愚か者なのだろうか。許しを乞う相手もいないのに、届くはずのない手紙を書き続けるように。



その夜、新しい絵本が完成した。表紙には、一匹のりすが一人で空を見上げている絵。タイトルは、『きみがいなくても』。


私はコートを羽織り、その一冊を大事に抱えて、図書館へと向かった。深夜の図書館に忍び込む勇気はなく、結局、翌日の昼、開館と同時にそこへ足を踏み入れた。


カウンターに座る司書の無機質な視線を感じながら、まっすぐに奥へと進む。かつて児童書が並んでいた場所。今は隙間なくビジネス書で埋め尽くされた棚の、一番下の段。大人の膝よりも低い、誰の目にも留まらぬであろうその端に、私はそっと絵本を押し込んだ。


罪を埋めるように。この静かな町に、たったひとつの「異物」を隠すように。

それで終わりのはずだった。



数週間が過ぎた。風が少しだけ冷たさを帯びてきた午後。いつもの喫茶店のテラスで、私は新しい画用紙を広げていた。


「あの……」


顔を上げると、図書館の、あの若い司書が立っていた。少し緊張した、硬い表情で。私の向かいの椅子に、彼は無言で腰を下ろした。そして、まるで禁制品を扱うかのように、カバンから何かを取り出す。それは、私が隠したはずの絵本だった。


見つかってしまった。私は無意識に身構えた。


「先日、書庫の整理をしていたら、これを見つけました」

彼はそう言ったきり、視線を落としたまま黙り込んでいる。私は彼の次の言葉を待った。叱責か、あるいは無関心な忠告か。


長い沈黙の後、彼は私の絵本をテーブルに置き、代わりに、別のものを取り出した。それは、一冊のひどく古びた絵本だった。表紙は色褪せ、角は擦り切れている。


「僕はこの町の出身じゃないんです」彼は視線を落としたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。「だから、この町の流れに任せよう。それが、ここでうまくやっていく方法だと思っていました」


彼はそこで一度言葉を切り、古い絵本の表紙を指でそっと撫でた。


「でも、あなたの本を読んで……書庫の奥を探してしまった。そしたら、これが見つかって。多分、僕が子供の頃に、親に読んでもらった本です」


彼は顔を上げ、初めてまっすぐに私を見た。その瞳には、以前のような無機質な光はない。戸惑いと、かすかな痛みの色が浮かんでいた。


彼は立ち上がると、二冊の絵本を手に取り、カウンターへと戻っていった。私はただ、その背中を見つめることしかできなかった。


しばらくして、彼は再び私のテーブルに戻ってきた。手には何も持っていない。


「あなたの本も、あちらの本も、貸出カードを再作成しました」

彼はそれだけを、小さな声で告げた。

「正式な手続きに則って、配架します。児童書、という分類で」


それでなにかが変わるわけじゃない。この町の幸福な静寂が終わったわけでもない。

子供たちも、未来への約束もない。けれど、たった今、この町の図書館の片隅で、忘れられていたはずの物語が、もう一度、その息を吹き返したのだ。


空は高く、どこまでも静かだ。

それでも、その青さの下で、美しく朽ちていくこの町に、小さな、新しい物語が生まれる、その産声を聞いた気がした。


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老人と絵本 実験的ツジハシ @mushadon

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