第4話『それでも続く教室』

 朝の教室には、独特のざわめきがあった。


 始業のチャイムが鳴るまでの数分間、生徒たちの間を行き交う言葉や笑い声が、それぞれの空気を放っている。


 誰かが軽口を叩き、誰かがノートを忘れたことを悔やみ、誰かが前日のテレビ番組について話している。


 まるで、何も変わっていないような世界。


 


 でも、西島鳴海には違って見えた。


 すべての色彩が、ほんの少しだけ鈍っていた。


 


 ──透音が、いない。


 


 昨日、隣にいたはずの彼女の席は空っぽだった。


 担任からの説明もなく、連絡もなかった。


 


 何かあったのか──それとも、もともと“いなかった”のか。


 ふとそんな疑念が、鳴海の心に浮かぶ。


 彼女と過ごしたあの放課後は、夢だったのかもしれないと。


 


 それでも、机の上に置かれた鉛筆の跡。


 椅子のわずかなズレ。


 そして、自分の中に残る感触。


 彼女の手の、あの冷たくて確かな温度。


 


 ──すべてが、確かにあった。


 


 それだけが、今の鳴海の“現実”だった。


 


 


 授業が始まり、先生が板書をする。


 教室の時計が針を進める。


 窓の外では風が木を揺らしている。


 


 けれど、どれもが鳴海には通り過ぎていくだけだった。


 教科書の文字が視界に入っても、内容は頭に残らない。


 ノートに手を動かしても、思考は追いつかない。


 


 すぐ隣に、彼女がいない。


 ただ、それだけのことで、世界がこんなにも空虚に感じるとは。


 


 


 昼休み。


 鳴海は、自分の席に座ったまま、弁当を開けた。


 食欲はなかったが、何も食べないと周囲の目が気になる。


 そうやって「普通のふり」をすることに、もう慣れてしまっていた。


 


 「鳴海〜、購買行かね?」


 相馬が声をかけてくる。


 「……ごめん、今日はやめとく」


 「そか」


 


 相馬はそれ以上、何も言わなかった。


 たぶん、鳴海の様子がおかしいことには気づいている。


 けれど、彼はいつも、“必要な時だけ”近づいてくれる。


 その距離感が、鳴海にはありがたかった。


 


 


 午後の授業中。


 何気なく、隣の机に目をやる。


 その上に、ひとつの小さな折り紙が置かれていた。


 


 ──白。


 透音が前日、何気なく折っていた鶴だ。


 


 あれを、彼女は置いていったのか?


 それとも、鳴海の記憶が作り出した幻影なのか?


 


 それはわからなかった。


 でも、確かなことがひとつだけあった。


 


 ──自分の中に、彼女はいる。


 


 彼女の言葉、目線、手の感触、息のリズム。


 それらすべてが、今の鳴海を形作っていた。


 


 


 放課後。


 校舎の裏手に向かう。


 昨日、ふたりで話したあの場所。


 ベンチの上には、落ち葉が一枚、そっと乗っていた。


 


 ──透音さん。


 


 心の中で呼びかける。


 


 風が木々を揺らし、落ち葉が一枚、音もなく地面に落ちた。


 それがまるで、返事のように感じられた。


 


 


 その夜。


 鳴海は久しぶりに、ノートを開いた。


 


 ──今日、彼女は来なかった。


 ──でも、確かに“彼女の不在”を僕は感じた。


 ──存在は、目に見えるものだけじゃない。


 ──見えなくても、そこにあると思えるなら、それはきっと存在している。


 


 そう書いたあと、ペンを止めた。


 


 窓の外には、星がひとつだけ見えていた。

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