第三十三話

アントンとナジは馬車ではなく、徒歩でサラエボを歩いていた。目立たないように、帝国軍管区の制服ではなく、地元の民と大差ない外套姿である。


「殿下、護衛もつけずにこのような…」


「自分の目で飾りのない、この街の素顔を見てみたかったのだ」


アントンはそう言いながら、赤茶けた石造りの建物と、その合間を縫うように流れるミリャツカ川を見下ろしていた。


市場には早くも野菜を積んだ荷車や、パンを売る子供たちの声が響いている。

平和な朝の光景。しかし、アントンの胸には、微かに何かが引っかかっていた。


その時だった。視線の先、建物の陰。細い路地の奥に、ひとりの青年が立っていた。


黒いシャツ、浅黒い頬。痩せた輪郭の中に、研ぎ澄まされた意志だけが浮かび上がっていた。


アントンと目が合う。


その眼にアントンは、何か不思議な感覚を感じた。


「…ナジ氏、彼に見覚えは?」


ナジは小さく首を振った。


「数日前の顔ぶれにはおりませんでした。ですが…こちらを見ていました」


青年は何も言わず、路地の奥へと姿を消した。


アントンはそれを追おうとはしなかった。ただ静かに言った。


「彼のことは忘れないようにしておいた方がよさそうだ。何故かこの帝国の未来に深く関わる気がする」


ナジはその意味を量りかねていた。


しかし、アントンは奇妙な予感を持っていた。彼はわざわざ皇族である自分を見る為だけに、この街を練り歩いていたのであると。


————


宿へ戻ると、ウィーンからの伝令が到着していた。

封蝋には、皇帝フランツ・ヨーゼフの私印が押されている。


アントンは眉をひそめ、封を切る。


手紙にはこうあった。



殿下におかれては、速やかな帰還ののち、ホーフブルク内私室にて非公式の政策協議にご同席いただきたく。

同席者はフランツ・フェルディナント殿下、陸軍相フランツ・フォン・シュリッタ閣下、参謀総長フリードリヒ・フォン・ベック=ラモンツァ伯、および首相マックス・フォン・ベック伯。

諸事情につき、討議内容は極秘とする。



アントンは顔を引き攣らせながら、ナジにその手紙を見せる。


ナジが驚きの声をあげる。


「非公式とはいえ、閣僚級の討議に殿下をお呼びするとは…」


アントンは手紙を黙読したまま、ゆっくりと立ち上がる。


「殿下?」


「この数日で私が何を聞き、何を考えたか。その報告をこのような形でさせるのか。しかし、些か急過ぎる…」


視線を窓の外に向ける。サラエボの街は、今日も変わらず人々の生活に満ちていた。


アントンは思う。


(滞在の予定はまだ数日残っている。しかし、この急な呼び出しは一体なんだ?)


彼は振り返り、ナジに告げた。


「支度を。急ぎ帝都へ戻ります。風向きが変わる前に、打つべき手を整えねば」


ナジはその言葉に頷き、速やかに支度を始めた。


——————


手紙を読んでから2時間もしないうちに、アントン達は列車に乗り込んでいた。


流れて行く窓の外の風景を見つめながら、アントンはこの地で掴んだ、衝撃による帝国の改革を考え続けていた。


ウィーンに着くまでその調子で考え続けていたが、その思考に進展は一つしかなかった。


それは、世界大戦による衝撃が有効なのは、国民国家の概念が薄い時代だけであること。そして、サラエボ事件によって始まる世界大戦こそが、最初にして最後のチャンスであるということであった。


それはつまり、兄であるフランツの事を助ける事は出来ない。暗殺事件を止めてはいけないという事でもあった。


(まだ考えが足りていないだけだ。兄上を見捨てることは、家族としてあってはならない裏切りだ。だが、帝国の未来を守るには、情よりも理を選ばねばならないとしたら?その時、私はどうすれば良いのだろうか…)


どれだけ思考を巡らせても、アントンにはサラエボ事件以上に戦争の大義となるものを思いつくことはできなかった。

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