充実

「どうして、ここにいるんだろう…。」

 目を覚ました桜はそう呟く事しか出来ない。

 桜が目を覚ますのは決まって、目覚まし時計が鳴る三十分前である。これは小学校に上がってから身に付いた習慣だ。この目覚まし時計は念の為にセットしているに過ぎない。三十分前に目を覚ましても、桜の中に二度寝という考えはない。正確に言えば、二度寝をしようとしても、寝付けないのだ。目を覚ました時から、桜の胸を嫌悪と恐怖が圧迫し始める。或いは、それらの存在が桜を現実へと誘うのかもしれない。目覚まし時計の音が鳴るまでの間、桜は虚ろな目で白い天井を見つめている。そして目覚まし時計の一度目のピピッという電子音が鳴るとすぐに時計のボタンを押す。

 桜は体を起こすとカーテンを開け、外の空模様を確かめる。今日は曇りだった。

 確認を終えると桜は扉の前まで行き、取手を握った。そこで、その状態のまま目を瞑り、耳を澄ます。部屋の外では父親と母親の声が聞こえる。声の調子から楽しそうな雰囲気は桜にも伝わる。しかし、桜が部屋から出たのは、その声が玄関の扉の開閉音と共に外へと消えた後だ。

 桜は水滴が飛び散らない様に洗顔と歯磨きを済ませる。

 桜が小学一年生の頃に一度、洗面台の棚に置いてある化粧水の瓶に、ほんの少し水滴が掛かった事があった。その時は顔を洗っている最中だった為、桜はその事に気付かなかった。気付いたのは近くで、洗濯物をカゴに入れている母親だった。母親は桜が顔を上げた瞬間、低く冷たい声で言った。

「それ。」

 母親は視線で水滴の付いた瓶を指した。しかし、いきなりの事だったので桜は混乱し、母親を見ながら固まる事しか出来なかった。その様子が更に母親の怒りを買ってしまい、母親はより乱暴な口調で指摘した。

「ああぁもう。化粧水。」

 その言葉で漸く桜の頭は働き、慌てて棚の化粧水に目を移した。

「拭いとけよ。」

 その言葉を残し、母親は強い足音共にリビングへと消えて行った。

 自身にぶつかる母親の言葉の一つ一つが、桜には鈍器で殴られた様に痛かった。この時の感覚を、桜は中学一年生となった今でもハッキリと覚えている。以降、自室以外の場所に居る時は細心の注意を払う様になった。

 洗面台周囲の確認を済ませ、部屋に戻り、制服に着替えると桜は家を出る。

 食事は中学生に上がって以降、朝食、夕食が共に出なくなった。元々、桜が小学三年生に上がって以降、桜の休日には昼食も出ていなかった。

 母親からは教育という事で、家にある食材や調理道具を使う事は構わないが、食べるのなら自身で作る様に言われた。しかし、作るにしても両親が台所を使っていない時にしか使えないという条件もあり、例え、カップ麵のお湯を沸かしているだけだったとしても、その時は待たなければならない。

 父親は休日以外、自身と母親の朝食を用意する為、六時には起きて作業が始まる。必然的に桜が台所を使うには、それよりも早く起きなければならない。初めの三日間、桜は五時に起きて料理をしてみたが、桜の体はもたなかった。起きる事が出来ても、その後の学校生活に支障が出てしまい、継続する事は難しかった。何より、そんな早く起きても、空腹感がなかった。

 以降、桜は朝食を取らなくなった。人にもよるのだろうが、桜にとっては眠気を我慢するよりも、空腹を我慢する方がマシだった。初めの頃は二時間目から空腹感に襲われ、それは時間が経つにつれて辛さとなっていたが、日を追う毎にその辛さは薄まっていった。朝食をなくし、一か月が過ぎた現在、空腹感は給食の時間まで現れなくなった。しかも、小学生の頃に比べて給食がより美味しく感じられる様にもなった。


 周囲の人達の話題について行けない事もあり、その日の授業が終われば、桜はさっさと学校を出る。

 元々、小学生の頃からあった桜と他の人達の距離は、年齢が上がるにつれてどんどん開いていった。

 そんな桜もスマホがあれば、周囲とここまでの距離感を空ける事もなかったのではと思わない訳でもなかった。しかし、それは絶対に叶わない願いだという事も桜は充分に理解していた。

 桜が教室を出ようとした時にも、教室には多くの生徒が残り、最近ハマっている物や動画、ゲームについての話題で盛り上がっている。通り過ぎる廊下にも、学校を出た通学路にも多くの生徒がいる。生徒達は、集団であったり、個人であったりと行動のパターンは人それぞれだが、桜はそれらの生徒と距離を詰める事なく「どうでもいい。」と思いながら突き進む。関わる事の出来ない人達なら居ても、居なくても、どっちでもいい。つまりどうでもいいと桜は考える。そう考えていると自身の状況に不満や不安は湧いて来ない。それでも、桜の胸の奥には奇妙なシコリがいつも残る。

 桜が更に脚の動きを加速させて、校門を抜けようとした時、朝から機嫌の悪い空はついに泣き出した。桜は持ってきていた折り畳み傘を広げると、加速させていた脚の動きを減速させた。

 雨は勢いこそ弱いものの、その粒は大きく、五分も経つ頃には大小様々な水溜まりがアスファルトの地面を占領し始めていた。今日は朝から太陽が隠れていた為、そもそも気温が低かった。反対に昨日までは小春日和が続いていただけに、その寒暖差は大きく、桜はこの雨をより冷たく感じていた。

 そんな状況の中でも、桜は真っ直ぐ家に帰らず柴春神社を訪れた。

 音春が来なくなり一人になった後も、桜は柴春神社で過ごしていた。暫くすると、桜よりも年下の子供達が訪れる様になった。しかし、その子達も以前と同じで、時間が経つとそれぞれのグループに分かれて行動を始め、やがて、ここを訪れなくなった。この出来事は何度か繰り返し起こった。しかも、それが繰り返される毎に、桜とここを訪れる年下の子供達との差は大きくなっていった。年齢や性別が違えば、接し方も違ってくる。特にその年齢の差が大きい程、接している時に感じる桜のぎこちなさも、桜に対する子供達の抵抗感も大きくなり、親しくなる事をより難しくさせる。そのうちに桜は子供達が訪れても、関わろうとしなくなった。

 それでも桜にとってはここが唯一気を休められる場所である事に変わりはない。それは雨の日だろうと、自分以外の誰が訪れようとも変わらない。だから、音春の一件の後も訪れる事を桜は止めなかった。

 桜は神社に対して「ただいま。」の挨拶を済ませると、いつもの観察対象探しを始めた。鳥居から社へと続く石畳の道。道の表面は平ではなく、広くそして浅くくぼんでいる為、幾つかの水溜まりを形成している。境内にはその水溜まりを弾く音、広げた傘や社、銀杏の葉に雨粒が当たる音が響き渡っている。

 目新しいどころか、普段見掛ける事の多い動物や昆虫でさえ今日は見つからない。その事実が桜に疲労感を与え、木製の長椅子へと足を向けさせる。長椅子の座面は既に半分程が水分を吸っていた。桜は当然乾いている座面へと腰を下ろし、傘に当たる雨粒の音に耳を澄ませた。

 そうしたのは桜が何も考えずにいたかったからだったが、桜の記憶は桜を放っておいてくれない。スイッチが入った様に桜の頭の中には過去の映像が流れ出す。まだ何も気にせず遊んでいた頃の事。友達が少しずつ来なくなった時の事。そして、音春との事。音春との一件で学んだ事を照らし合わせながら、桜は今日の学校生活の事を振り返る。

 今日も落ち着いて過ごせた。昼休みに教室内でクラスメイトの男子二人が派手に喧嘩を始めたけど、その大きな声や物音にも動じなかった。異変に気付いて、教室に駆け付けた先生が開口一番、怒鳴り声を上げたが、それでも気持ちは揺らぐ事なく落ち着いていた。大丈夫だ。あの頃よりも強くなれている。

 桜はなりたい自分に近付けたと思う度に自分を褒めるも、何故か少しも満たさなかった。

 あの一件以降も桜と両親の間に会話は殆どない。桜が両親に話し掛けられるのは文句を言われる時だけ。その文句を口にするのも、基本的には父親だけだが、これは不満を持つのが父親だけという訳ではない。母親が自身の文句も合わせて、父親に言わせているだけの話だった。父親から母親の文句を言われる度に、桜は文句の裏にある母親の自分に対する嫌悪感が取り返しのつかないところにまで辿り着いた事を痛感する。それでも、虫の居所がかなり悪い時は母親自身で桜に言葉をぶつける。その内容は文句というよりも罵詈雑言といった方が的確だった。父親は桜が犯した家事のミスやその遅さを責めてくるのに対し、母親の場合は、単に桜の顔に出来た吹き出物や汗の臭いをなじるといったものである。そして、父親からにしろ、母親からにしろ、文句や罵詈雑言を口にする時は、大抵私物も捨てられる。あの一件にて、桜がミスを犯した場合、罰として私物を捨てても良いという考え方が両親の間で出来た。それにより、桜はミスを犯さない様に細心の注意を払うのだが、やはりミスは起こしてしまう。そんな慎重になる桜を見て、機嫌が良い時の両親は笑う。勿論、それは嘲笑である。桜はミスを犯す事に恐怖し、両親の嘲笑に焦燥するが、桜はそんな事で気持ちの揺らぐ自身を嫌悪する。

 そんな桜がここまで自分を信じていられたのは、この神社で少なからず、動物や昆虫との出会いがあったからだ。ある時は鳥居の上で羽を休ませるスズメを眺め、幹に留まっているセミの鳴き声に耳を傾ける。観る、聴く以外にも、触れることもあった。桜に体を擦り付けてくる散歩中の犬。桜の肩に乗り、暫く動こうとしなかったトンボ。桜からではなく、向こうから桜との交流を求めに来る。この事が、自身は石や樹木の様に落ち着き、動物や昆虫にとって安心出来る存在なのだと桜に思わせ、自信へと繋げていた。又、桜は物がなく、殆ど人と接する事がなくても、案外人生は楽しめるものだと学んでいた。

 今日もそんな新たな楽しみがあるのではないのかと桜は期待をしていた。靴の中に雨が染み込んでこようが、冷たい風雨に体温が少しずつ奪われようが、時間の許す限り桜は何かが現れるのを待った。しかし、桜の期待に応えてくれる存在は現れず、帰宅時刻になった。桜の神社に滞在出来る時間は大体二十分が限界である。

 音春と会っていた頃と比べて、桜の仕事の手際は向上していたが、中学生に上がると買い物と洗濯した物を干すという仕事も追加された。中学生までこれらが仕事に追加されなかったのは母親が近所の人に小学生をこき使っていると知られる事が嫌だったからだ。

 桜はこれらの仕事を両親の帰宅時刻である夜の十時までに終わらせていなければならない。終わっていなければ、それは桜のミスとなる。それから、ミスにはならないが、帰宅後、両親はリビングにいる為、仕事と合わせて夕食も帰宅前に済ませておきたいと桜は考えている。

 桜は神社の入口近くに設置された時計で時刻を確認すると、家に戻ってジャージに着替える時間、お店への往復時間、店内に居る時間を計算しながら、最後に座っている位置で見える範囲を見回した。その時、反対側の木の根元に白くて小さな物体がある事に気が付いた。桜は近づいてその正体を確認した。小さくて白い物体の正体は蝶だった。大きさや形から桜は紋白蝶かと思ったが、いくつもの細かい雫を付けた四枚の羽根には特徴である紋様がなく、真っ白だった。それにより、珍しい種類の蝶なのではないかと桜は考えたが、心は躍らなかった。その理由は蝶が既に死んでいたからだ。桜が指で優しく羽をなぞっても、蝶は全く反応しない。念の為、少しの間、その蝶を桜は見ていたが、やはり動く事はなかった。

 桜は徐に木の根元を掘り始め、穴がある程度の深さに達すると、その中に蝶を入れて、穴を閉じた。最後にその場でしゃがんだまま、首と肩で傘を支えながら、泥だらけの右手と冷えた左手で合掌した。

 入り口横の水道で手を洗うと、桜は神社を後にした。

 その後、全ての仕事を終わらせ、それ以外の夕食や宿題も済ませると桜は床に就いた。疲弊した桜の精神が夢の中へと落ちていく。

 気が付けば、桜は黄金色に輝く空間を歩いていた。ここが何処なのかという不安は不思議と湧かず、立ち止まるという考えもない。本能の赴くまま進んだ先に見えるのは小さな黒い粒。やがて桜は粒が自身よりも大きな柴春神社である事を知る。鳥居まで残り十歩となった時、神社からあの白い蝶が姿を現す。上下左右に揺らめく、掴みどころのない舞いは桜の視線を奪う。桜を躱し、桜が進んで来た空間へと蝶は姿を消す。直後に、その空間から突風の様な勢いで何かが桜の足元を駆け抜ける。視線で追った先には、鳥居の下でこちらを見つめる三毛猫がいる。視線がぶつかると猫は神社の奥へと入っていく。桜が急ぎ、神社の鳥居を潜ると、そこは見知った空間に変わる。桜は目を覚ましたのだ。


 濡れた道路は綺麗に乾き、昨日の雨の痕跡を一切残していない。まだ季節は春のはずだが、今日は暖かいというも暑いという表現の方がしっくりくる気温だった。時間帯で言えば夕方ではあるが、空の色はどこを見てもまだ青かった。そんな空の下を勢いよく桜は駆ける。今の桜の頭にあるのは夢の事だけ。神社へと消えていった猫が気になってしょうがない。勿論、それは夢で見た事である事を桜も理解している。それでも、期待してしまうのは、夢という特別感と新たな出会いを求めていたにも拘わらず、空振りに終わった現実があったからだ。その現実は結果的に桜の気持ちの助走となり、夢による期待感を更に高くさせた。

 これまで桜はどんなに急いでも学校から神社への移動に五分の時間を要していたが、今日は更に二分短縮する事が出来た。驚きと乱れる呼吸の息苦しさを同時に味わいながら、桜はいつものように社へ挨拶をした後、探索を始めた。探索は社の周囲から始まり、屋根の上へ、そして銀杏の木々へと移行していく。枝葉の中を一本一本じっくりと目を見張り、枝葉の騒ぐ音の中に声が混じっていないか耳を澄ます。挙句の果てには、失礼と思いつつも、社の中まで覗き込む。結果、確認出来たのは屋根の上にいたハト。社の縁の下で列をなしていたアリ。幹にしがみついていたカナブン。いつも見掛ける存在ばかりである。

 結局、この日に猫が姿を現す事はなかった。それからも、桜は猫を探し、待つ。これを繰り返したが、無情な現実を突きつけられる度に桜の期待も落ちていった。

 長椅子に座り、桜は頭上に広がる空を眺めている。例の夢を見てからこの日で四日目になる。この日は神社を訪れて早々に、念願の猫と遭遇するも、猫は桜に気付くとすぐさま逃げてしまった。その事自体に桜はあまり落ち込まなかった。それはその猫が夢に出て来た様な三毛猫ではなく、真っ白い猫だったからだ。その後も一通り境内を確認したが、猫は見つからなかった。四日目になると流石の桜も期待は殆どしていない。その為、最初に比べて、探す箇所は少なくなり、探し方も雑になっていた。今では寧ろ期待に振り回されている自身に嫌気をさしている。その為、桜は何も考えずに惚けていたかった。

 霞がかかった空を一羽の烏が横切っていく。あまりにも高い位置を飛行していた為、桜はその種類を特定出来ず、ただそれを目で追うだけ。

「やっぱり夢かぁ…」

 それは桜の気持ちが完全に期待から諦念に染まり、それを言葉にした瞬間だった。妙な物音が桜の聴覚を刺激する。それは何かを繰り返し擦る様な音で、音と音の間隔は短く素早かった。生まれて初めて聞く音に桜は戸惑いながらも、立ち上がり、音の発生源を探した。音の発生源は社の中だった。

「度々、失礼します。」

 桜は社の前で二拝二拍手をして、そう呟くと扉から社の中を覗き込んだ。扉は座敷牢の格子の様な造りで、中は割と見易かった。中には台座に乗ったおぼん程の大きさの円形の鏡が一枚、供えられている。それ以外に変わった様子はなく、桜が台座の下に視線を移した時、その台座の影の中に浮かぶ、小さな二つの光りの存在に桜は気が付いた。その光はゆっくりと桜の方へ向かって来る。暗がりの中から出て来た時、二つの光が日光に反射した猫の瞳であった事を桜は知った。黒、白、茶の色彩を纏った猫は桜を見ると一声鳴いた。それが威嚇なのか、救いを求めるものなのか、単純に甘えなのか、桜には分からなかった。

 猫を膝の上に乗せるというのは、温かい。それが初体験の桜の感想だった。

 長椅子に座り硬くなる桜。そんな桜の膝の上で、三毛猫は身を預けて居眠りを始める。ゆったりとした膨張と収縮を繰り返す体幹。それをスカート越しに膝で受けていくうちに、桜の体からも無駄な力が抜けていく。気付けば、桜の右手は猫の跳ねた体毛を整え、付着した埃を掃う為に動いている。右手で触れてみて感じる体毛のごわつき。桜はこれらの状態からあの日の雨を思い出し、この猫が呼ばれてここに来た事を確信する。

 愛おしい。出来る事ならば、連れて帰りたい。これまで抱いた事のない気持ちに支配されていくのを桜は感じた。だが、桜はそれが不可能である事を理解し、自身の信念がそれを許さない事も知っている。それ故に、桜は奇跡を渇望する。

 桜は目を瞑り、全てが静止した世界を強く想像する。しかし、目を開かずとも、そうなっていない事は分かる。桜の耳にはスズメの鳴き声が届き、肌には流れる空気が纏いつく。目を閉じる前と何ら変わらない。自身の愚かさに自嘲し、時間という不変で絶対的な存在に苛立ちを覚えながら、桜は目を開いた。

 三毛猫は桜の帰宅時刻になると、まるで分かっていたかの様に目を覚ました。桜は三毛猫の眠りを妨げずに済んだ事に安堵し、三毛猫を社の縁側に置くと、今度は蝶の眠る木の根元へと行き、合掌した。心の中でお礼を伝えると、桜は神社を去る覚悟を決めた。

 桜はそのまま鳥居の方へと移動していたが、途中で刺さる視線に気付いた。桜が振り返ると、三毛猫は桜がしゃがみ、手を伸ばせば届く距離にまで移動していた。

 自身を見下ろす桜の顔を見ながら猫は一度だけ鳴いた。桜にはそれが「どこへ行くの?」と問われた様に聴こえた。木々の間から差し込む西日が桜の顔を照らす。反対に猫は社の落とす陰に包み込まれている。

 桜はしゃがみ、猫に応えた。

「ごめんね。もう時間がないんだ。また明日来るから、ここで待ってて。」

 桜が再び猫の頭を撫でると、猫はもう一度鳴き声を上げた。

 桜は猫を見ながらゆっくりと再び境内の外へと歩み出す。そんな桜の気持ちを本能で察したのか、猫は桜の後を追わなくなった。この事に驚きと一抹の寂しさを覚えながら、桜は神社を後にした。




 朝、学校に行く前は確かに居たんだ。社へ上る為のこの階段の上で丸くなって寝ていたんだ。それなのに、何で、今は何処にも居ないの。

 桜は朝の記憶を遡ってみたが、結果は胸の中が苛立つだけだった。その苛立ちと戦いながら、桜は階段の裏を覗くも、三毛猫はやはり居ない。桜が階段の裏を確認するのはこれで三度目だが、絶望を味わうのは、既に三回を超えている。

 桜の思考回路は来たばかりの頃よりも乱れている。そんな状態である為、桜は三毛猫が誰かに連れて行かれたという結論に至る。

 その場に沈み、俯く桜は、力強く握った左手を地面に叩きつけようとしたが、それを振り下ろす事はなかった。

 桜の体は小刻みに震えており、桜は自身を抱き締める様に左右の腕を掴み、気持ちを鎮めた。

 桜は自身に問い掛けた。

 怒っているの?何で怒るの?あたしではあの子を家族に迎えられないんだよ。だったら、あの子がここから去ろうが、誰かに連れて行かれようが、別にいいじゃない。それとも、今度はあの子に依存しようとしていたの?だとしたら、あの頃と何も変わってないじゃない。そもそも、変わってないから、こんな風に気持ちが怒りに揺れ動くし、未だに両親を恐れているんじゃないの。だったら、姿を消してくれたのは、寧ろ、好都合だったと考えないと。これ以上、あの子に会う事を繰り返せば、完全に依存していたかもしれない。或いは、その事を気付かせる為の試練として、あの子はここに遣わされたのかもしれない。

 そうして桜が納得し、改めて気持ちを引き締めた直後、腰からお尻の辺りが妙に温かい事に桜は気が付いた。

 すぐさま桜が振り返ると、そこには桜が動いた事で支えを失い、地面へと倒れた猫の姿があった。

 深く沈んでいた心は急浮上し、桜の口元は緩んだ。

 いつもの長椅子に座る桜。その隣には朝と同じ態勢で寝ている三毛猫の姿がある。

 桜は横目で猫を見ながら再度考える。

 あたしは笑った。この子を見た瞬間、またここへ戻って来てくれた事に安心し、笑った。 あたしは依存したいと思っているか?弱いままでいいと思っているか?答えはどちらもいいえ。小さくても、その思いがあったからこそ、さっきは怒りを鎮める事が出来た。ならば、依存せず付き合っていく事が出来るのか?

 桜は境内での音春とのやり取りと白い蝶の事を思い出す。

 依存が何かは音春の件で学んだ。依存とは相手に思考を委ねた上に、判断まで預ける事だ。でも、この子は特別な存在とはいえ、猫だ。人の言葉は喋らない。そもそも、音春との件で学んだ事が当てはまるのは相手が人間の場合だ。

 猫に対する場合の依存。そんな事を桜が考えていると、三毛猫は目を覚まし、何かを要求する様に桜の膝の上に前脚を置き、鳴き声を上げた。いつの間にか、白い蝶の眠る木の根元にあった桜の視線は、自身の顔を覗き込もうとしている三毛猫に移った。桜は取り敢えず、猫の頭から背中に掛けての体毛を撫で始めた。それが正解だったのか、猫は膝から前脚を退かし、桜を見ながら、その場に腰を落とした。

 三毛猫の様子を見ながら桜は、どちらかと言えば、依存しているのはこの子の方じゃないかと思い、そして小さく笑った。

 ごわついた体毛を感じながら、桜は猫に依存する事が何かの答えを導き出した。

 この子に対して依存するとしたら、それはさっきの様な誰かに連れて行かれたと思い腹を立てる事や、この子に食事を与え、寝床を用意し、中途半端に関わる事だろう。確かにあたしには自由に出来るお金なんてない。だから、そういう物を用意する事は出来ないが、そもそも、そういう事はいけない事だとも理解している。この子にそういう物を与えようとも思わないあたしなら依存する事もきっとない。あたしはこの子を愛でていたい。それだけで、満たされる気持ちになる。

 付き合っていく上で納得出来る答えが見つかり、桜は肩の荷が下りた様な気がした。

 桜が神社を出る際に、三毛猫は繰り返し鳴き声を上げた。それに対し、桜は三毛猫の頭を撫でながら言った。

「寝床は社を使いなさい。それと、ごはんは自分で獲物を狩りなさい。いい?」

 それでも、猫は鳴き止まず、言葉が通じない事をしょうがないと思いながら、桜は神社を出て行った。

 翌日は土曜日であり、桜は中学に上がる時に与えて貰った大きめの黒いジャージを着て、朝から柴春神社に出向いた。

 桜が神社に到着すると、三毛猫は仰向けになり背中を地面に擦らせている最中だった。

 それを見て桜は可愛いなと思いながら笑い、三毛猫の横を通り過ぎた。

 桜は長椅子に座ると、学校で片付かなかった宿題を始めた。宿題は学校で配られた何処かの街並みの写真の模写だった。

 三毛猫は桜の足元に擦り寄り、鳴き声を上げたが、桜は構わずに模写を続けた。その態度に三毛猫は不満だったようで、せめてもの腹いせなのか、桜の足の上に身を任せて眠り始めた。

 その事に桜も気が付いていたが、桜としては自身に甘えた態度を示してくれている様な気がして悪くはなかった為、そのままにしておく事にした。

 模写を始めてから二時間程が経過した頃、三毛猫は突如体を起こし、移動を始めた。

 その事に桜も気付いてはいたが、高まっている集中力を落とす様な事をしたくはなかった為、移動する三毛猫を桜は目で追うだけにした。

 三毛猫の移動は鳥居の手前で終わり、三毛猫はそこで座りながら道路の方を眺めている。桜はその様子を見届けると、用紙の方に視線を戻した。その直後、「ああぁ、タマだ。」という子供の甲高い声が響いてきた。

 桜がもう一度、三毛猫の方に視線を移すと、低学年の少年が四人、四方から三毛猫を囲む様に座り、撫でまわしている。

 この時点で、桜の集中力はいっきに急降下しており、意識は殆ど三毛猫と少年達に向いていた。桜が集中力を欠くきっかけになったのは、少年の一人が口にした「タマ」という言葉だった。気が付けば、桜は少年達に話し掛けていた。

「こんにちは。」

 桜が挨拶をすると、少年達は手の動きを止め、一斉に桜の方を見た。一方の三毛猫は触れている手の動きが止まった事で一声鳴いた。

 桜は少しだけ前のめりとなり、少年達をそれぞれ見回し、適当に桜から見て手前の少年と視線を合わせた。突然の桜の挨拶に少年達は皆、困惑した様子を見せるも、一番奥の少年が勇気を出して挨拶を返すと、他の少年達もそれにつられて挨拶をした。

 桜は視線を一番奥の少年に移して尋ねた。

「突然、ごめんね。この子の名前はタマっていうの?」

 本来ならば、この質問は先程「タマ」と口にした少年にすればいいのだが、桜は言葉を聞いただけで、誰が口にしたのかまでは把握していなかった。

 自身がどんな顔で喋っているのかは、鏡を見なければ分からない。桜は精一杯、優しい笑顔を作ったつもりでいた。しかし、意図的な笑みは逆効果だったようで、少年達を更に警戒させた。

「えっ、違うの?」

 一番奥の少年と視線を合わせたまま、桜は改めて尋ねた。少年達の警戒が強まった事に気付いた桜は、もう一度自らが質問を投げかける事で答え易くなるだろうと考えた。すると今度は、桜から見て右奥の少年が応じた。ただ、それは桜の狙いをその少年が察したからではなく、質問に答えないと終わらない空気を察したからであった。

「ううん。かってにそうよんでる。」

「勝手って?誰かの家の猫じゃないの?」

「ううん。」

 右奥の少年が否定すると、今度は再び一番奥の少年が補足を付ける為に割って入って来た。

「タマはノラネコだよ。」

「えぇ、どこかでかわれているんじゃないの?」

「どうして、そう思うの?」

 手前の少年の反論に対し、桜は疑問を投げた。

「だって、すごい、人になついてるし。どんな人ともなかよくできるもん。なぁ?」

 そう言って少年は三毛猫を抱き上げた。

「でも、くびわしてないぞ。」

 遂には左奥の少年も会話に入って来たが、これにより、少年達は桜を置いて少年達だけの会話を始めた。

「分かった。ありがとう。」

 桜は一応、会話を切り上げる台詞を言ったが、それに対する返事はなく、一番奥の少年が桜の事を一瞬見ただけだった。

 その後、桜は荷物をまとめて神社を後にした。

 神社を出た後で、桜が向かったのは神社から二十分程歩いた場所にある河川敷だった。河川敷に着くと、桜は用意していたお昼ご飯を食べながら、先程の事を思い出していた。

 桜が少年達に話し掛けたのは、少年達の中に三毛猫の家族がいるかもしれないと思ったからだった。それを知ってどうするかとかは考えていなかったが、桜としてはただ事実を知りたかった。結果、誰の家の子でもない事で安心をしたが、一方で誰に対しても、懐いている様子に不満を持っていた。加えて、少年達が現れる直前に見せた三毛猫の行動も、桜にとっては面白くなかった。

 昼食を終えて神社に桜が戻ると少年達は居なくなっていた。残っていた三毛猫は銀杏の木で爪を研いでおり、その音を聞いて、桜は三毛猫を見つけた時に聞こえていた音の正体を知った。

 桜に気が付くと三毛猫は爪研ぎを止めて、桜の元に近寄り、いつもの様に鳴き声を上げた。先程の件が桜の中では尾を引いていた事に加えて、桜の心の何処かには自分だけが食事をしたという罪悪感があった。その為に、三毛猫がごはんを要求して鳴いていると思った桜は、聞こえないふりをした。

 桜が模写の続きを始めてからも、三毛猫は暫くの間、鳴いていたが、やがて、先程の爪研ぎを再開した。そして、一時間程が過ぎ、桜の模写も終わりに近づいた。

 少し疲れてきた桜は休憩する事にして、縮こまっていた体を伸ばし始めた。その時、また二人の女性が現れた。どちらも70代くらいの印象で、一人は白髪頭で、150センチ台の身長のふくよかな女性、もう一人は茶髪で桜と同じくらいの160センチ台の身長で、もう一人の女性よりも更にふくよかな体格をしている。

 二人が現れると、社の裏に居た三毛猫は二人に勢いよく駆け寄った。

「ミーちゃん元気だった?」

 白髪頭の方の女性が三毛猫の脇の部分に手を入れて、持ち上げながら尋ねた。

 三毛猫は質問に答える様に鳴き声を上げた。

「元気だったって言っているよ。この子。」

 茶髪の女性が笑いながらそう言うと、白髪頭の女性も笑いながら言った。

「あんた、分かるの?」

「顔を見れば、分かるよ。あたしは小さい頃、猫を飼ってたんだ。」

「そうなの?初耳。」

「いいから、ホラ。いつものヤツ上げなよ。ミーが待ってるよ。」

「あっ、ごめん。ごめん。」

 白髪頭の女性は三毛猫を地面に戻すと、黒いショルダーバッグから猫用のクッキーを取り出し、それを半分に割ってから三毛猫に与え始めた。

 それを見ていた桜は複雑な気持ちになった。野生の動物に食事を与える事を良い事と思っていない桜ではあったが、先程の罪悪感もあり、女性達の行動で少し救われた様な気分にもなっていた。だから、桜は見て見ぬふりを決め、再度、荷物を持ち、その場を離れた。

 ただ、今回は桜に戻る気がなかった。模写が殆ど終わり、きりが良いという事もあったが、今は三毛猫を愛でたいという気分になれないという事が大きな理由だった。

 翌日の日曜日も桜は昨日と同じジャージを着て、朝から日本史や地理の勉強をしながら柴春神社で過ごしていた。

 一方で、三毛猫の桜に対する態度も昨日と同じだった。最初は甘えて来るが、構ってくれないと分かれば、自分の好きな事をして過ごす。誰かが来れば、その人に甘えに行く。人々は撫でるだけの事もあれば、食事を与える事もある。中にはわざわざねこじゃらし取ってきて、遊ぶ人もいた。

 そんな三毛猫と他人のやり取りを桜は意識しない様にして過ごした。

 昨日と同じく一人、河川敷でお昼を食べながら、桜はつまらないと思っていた。桜は自分の三毛猫への対応が正しいと思っていた。

 食事を与えて、三毛猫が何処かで糞をしても、食事を与えた人達は片付けない。その場所が人の家の庭かもしれない。必要以上に可愛がって、期待感を持たせておいて、結局置いて行かれる事であの子は傷ついているかもしれない。そんな事を考えない人達はただの無責任だ。それなのに、そんな人達に甘えるあの子は節操がない。

 もう、どうでもいいと思ったのか、或いはこんな気持ちになっている自分が駄目だと思ったのか、桜にも自身の気持ちが分からなくなり、桜は当分柴春神社に近付かない事を決めた。

 桜が買い物に利用する店舗は主に全国展開している「サティ」という名のショッピングセンターとこの辺りの地域でしか見ない「エッグ・ドア」という名のスーパーマーケットである。桜は両親から買い物をする際に、両店舗を比較して安価な方を買う様に言われている。食材に限って言えば、自社ブランド品を出しているサティの方が安価ではある為、桜の夕飯及び土日の昼食の弁当、両親の朝食及び平日の昼食の弁当、これらの食材はサティで揃えられる。だが、食材以外の菓子やインスタント食品、飲料水、シャンプー、石鹸、洗剤等は他社ブランド品を買う様に言われている。勿論、サティはこれらも自社ブランド品を出しており、一番安価でもあるのだが、食材以外での両親の所望品はサティ以外のブランド品であった。そんな桜にとって幸いなのは、両店舗の距離が50m程であるという事だった。桜の自宅から手前にサティがあり、その先にエッグ・ドアがある。

 三毛猫を避ける様になってから三日後、その日の買い物は桜にとって幸運とも、不幸とも言えた。買い物自体はサティだけで済んだのが、買う物の中には5㎏の米袋が二袋も含まれていた。リストを確認しながら食材の買い物を済ませた桜。いつもの様に食材だけならば、ここで買い物は終わりなのだが、その日は食材の他に、母親の愛用品であるマニキュアと三種類の美容雑誌も買わなければいけない。

 桜は購入したマニキュアを普段は教科書を入れているナイロン製のスクールバッグに入れ、左手でそれを持った。右手は精肉や魚介類、野菜を詰め込んだエコバッグを二つ持ち、背中では父親からのおさがりのリュックサックに米袋を入れ、背負っている。

 戦国時代の武士ってこんな感じなのか、と桜は思いながら書店へと向かおうとしたが、桜はその前に少しだけペットショップのトリミングスペースに立ち寄った。

 ペットショップがある事は桜も把握していたが、そこは二階にある上、一階の食料品売り場とは方向が反対だった。しかも、食料品売り場の方が桜の自宅に近い位置にある。これらの理由から、桜がこれまでの買い出しで寄る事はなかったが、そこはマニキュアを取り扱っている店の目と鼻の先にあった。

 以前から気になっていた事もあって、桜の期待感は高かったが、それにより店舗に貼られていた今月一杯で閉店すると書かれた紙を目にした時は少しだけがっかりした。

 桜が立ち寄った時には、一匹のシュナウザーがトリミングを受けている最中だったが、そのトリミングは桜が見学を始めて一分も経たないうちに終了してしまった。

 桜はサボるなというお告げかと思いつつも、せめてシュナウザーがその場を去るまでは見届ける事にした。シュナウザーはトリミングをした女性スタッフに抱えられ、奥の部屋へと連れて行かれる。女性が部屋へと入った際に桜は部屋の中に大きな流し台があるのを見て、シャワーを受けるシュナウザーを連想した。改めて書店へと向かった。

 マニキュアと雑誌をスクールバッグに入れたのには意味があった。エコバッグに入れると精肉や魚介類の臭いやパックの滴で濡れてしまい、リュックサックだとそもそも、米袋が場所を取り入らない。スクールバッグには十個入りの卵が1パックしか入っていなかった為、ゆとりがあった。だから、桜はスクールバッグに入れて運んだ。その結果、雑誌とマニキュアは卵と運命を共にする事となった。

 卵が潰れたのは前から来た車が、桜のスクールバッグにぶつかった所為だった。そこの道路も柴春神社の周囲同様に住宅街の中で、幅は狭く、車が二台並べば、一方だけに引かれた路側帯の内側に入ってしまう程である。そんな道路ではあるが、大通りへの近道として利用する運転手は多かった。

 桜は前から車が近付いている事を把握していたが、後ろから近づく車の事は気付いていなかった。路側帯の内側に入り、歩く桜と前方から近付く車の距離が10m程に迫った時、前方から近付く車は急に桜の方へ寄せながら速度を上げた。そのすれ違いざまに車は桜のスクールバッグに接触したのだ。

 路側帯の内側という安心感と買い物の疲労から桜の視線は地面に向いていた。そこにいきなり、視界に車の前方部が入り込み、自身のスクールバッグにぶつかり去った。最初は何が起きたのか、桜には分からなかったが、すぐに振り向いた事でどうしてこうなったのか、その経緯を想像する事が出来た。後ろではぶつかった車が、左端に寄せて電柱前で動かない車と速度を抑えながらすれ違っている。恐らく、あの車の運転手が左端に寄せて、早く通る様に合図を送ったか、或いは、ぶつかった車の運転手が気を遣って急いだか、いずれにしても、その結果、ぶつかったのだと桜は考えた。

 左端に寄せた車がぶつかった車の通った直後に動き出した事から桜は自身の考えが間違っていないと確信する事が出来たが、そんな事は正直どうでも良かった。今の桜は気持ちを抑える事で精一杯だった。

 ぶつかった車の運転手に対する怒り、買い直す事が出来ない事への苛立ち、両親の罰への恐怖、割れた卵への罪悪感、これらが一気に押し寄せて来た。特に割れた卵への罪悪感は運転手に対する怒りに直結し、罪悪感が強くなる程、怒りも強くなった。

 落ち着かない気持ちを無理矢理抑えると、とても気持ちが悪くなる事を桜は初めて知ったが、それは桜の気持ちがかつてない程に乱れているという事でもあった。

 両親が帰宅したのは、桜が最後の仕事の風呂場の掃除を終えた直後だった。小学生の頃と比べて、中学生になって以降の桜は、両親の帰宅前に全ての仕事を終わらせ、自室で宿題を始められる程、手際が良くなっていた。それがこの日は中学生になってから初めて、両親の帰宅前に自室へ戻る事が出来なかった。

 桜が洗面所から出ると玄関では母親が座って靴を脱ぎ、父親が扉の前で終わるのを待っていた。洗面所から出て来た桜に対して、父親は一瞬だけ視線を送り、母親は背中を向けたまま作業を続けた。

 嫌な空気を感じながらも、洗面所から出た時点で腹を決めていた桜は開口一番に謝罪の言葉を口にした。

「お母さん。ごめんなさい。バッグの中で卵が割れて、マニキュアと雑誌に掛かっちゃった。」

 桜の差し出した手には卵の中身を拭き取ったマニキュアと雑誌がある。マニキュアは見た目に問題はないが、雑誌の方は中の一部のページがシワになっていた。但し、どちらも、手に持った際、微かに生卵の臭いがする。

「はぁ?何やってんだよ。」

 背中を向けている母親の代わりに父親が反応した。

「本当にごめんなさい。」

 靴を脱ぎ終えた母親が桜と向かい合うと、桜は深く頭を下げていた。

「よこせ。」

 静かな母親の声に反応して、桜は頭を上げた。その瞬間、母親は桜の手から自身が所望した商品をゆっくりと取った。そして、その商品を怒りに任せて、床に叩きつけた。

 雑誌は大きな音を立て、マニキュアは雑誌と一緒に投げられた事が幸いして雑誌の上に落ち、割れる事なく、勢いのまま廊下の隅へと滑っていった。

 心を鎮めようとする桜の胸倉を母親は掴みながら強く引っ張る。桜はそのままリビングまで連れて行かれた。

 母親は冷蔵庫の前まで桜を引っ張り、冷蔵庫の中から無事だった数少ない卵を一つ取り出した。

「口あけろ。」

 桜は両手を顔の前に出し、左右に首を振る。それに対し、母親は桜を自身に引き寄せ、桜の口元に卵を押し付ける。

「まって、きいて。車がぶつかってきたせいなの…」

 説明する為に口を開いたのがまずかったと桜は思った。胸倉を掴んでいた母親の左手が、今度は桜の下顎から両頬を包み込む様にして掴んだ。これにより、左手の親指と他の四指がそれぞれ左右の頬を押し、桜は口を閉じられなくなった。

「ブサイク。」

 小さく開いた穴に、母親は卵を無理矢理、押し込んだ。

 この時に桜は思い出した。三毛猫を家族には出来ないと思った時の事を。

 やっぱり。この人はあたしの話なんて聞かない。

「出すなよ。ほら、しっかり手をつかって、口、おさえろよ。」

 母親は桜の両腕を掴み、桜の両手を桜の口元に押さえつけた。桜の腕に力はなく、されるがまま、両手を口元に押し付けている。

「ちゃんと、かめよ。」

 噛んだのは桜の意思だった。母親が咀嚼させようと顎を押したりした訳ではない。桜は早く終わらせたかった。

 桜の口の中で生卵の味と臭いが広がる。更に、咀嚼する度に、殻を砕く感覚や歯の隙間に殻が入る感覚が伝わる。

「そら。飲みこめ。」

 口元を両手で押さえながら、その場にうずくまる桜の耳に、母親の楽しそうな声が届く。

 荒い鼻息が何度かした後、大きな嚥下音がリビング内に響いた。

「卵をわるのは、その中の命をしらねぇからだ。よく味わえ。」

 扉の前で様子を窺っていたのか、母親がそう言った直後に、父親は緊張しながらリビング内へと入り、母親に言った。

「メシに行こうか。」

「はぁ?なんでだよ。」

「えっ…いや…」

「今日はウチで呑むっつったろうが。さっさと、用意しろよ。」

「はい。」

「つうか、今のあいだに風呂わかせよ。親子そろって使えねぇ。」

 リビングを出る間際に、母親は敢えて廊下の方を見て、父親に聞こえる様に言った。

 そんな事を言われて父親も心穏やかでいられる訳はない。

「おい、早くどけよ。マジで邪魔な奴だなぁ。」

 父親の不満は、冷蔵庫の前で同じ状態のまま動かない桜に当たる事で発散された。

 父親の言葉を合図に桜は徐に立ち上がり、静かに自室へと戻ったが、この時、桜の心に恐怖はなくなっていた。桜の心は桜が望んでいた通り、父親の言葉で揺れ動いたりしなった。また少しだけ理想に近付けたと桜は思ったが、桜の心には何も湧いてこなかった。

 部屋の明りも点けずに、廊下で回収したマニキュアと雑誌を机に置くと、桜は口の中に残っている殻を少しずつ取り除きながら、何で満たされないのかを考える。しかし、いくら考えても答えは分からない。ならばと、桜の中で逆の疑問が浮かんでくる。三毛猫と出会った日、あの時は何であんなにも満たされていく気持ちになれたのか。

 やっぱり、あたしにはあの子が必要なのかな。でも、あの子は他の人を見ると、あたしを置いて行っちゃう。あたしが何も与えないから…。

 その考えがまた新たな疑問を生んだ。

 何も与えてくれないから他の人の方へ行くのなら、そんなあたしにあの子は会う度に何を訴えている?


 次の日に桜がサティの中の書店へと寄ったのは、駄目にした雑誌を買い直す為ではなかった。

 雑誌も、マニキュアも、後日母親が買い直すから、駄目にした方は処分する様に桜は言われた。これを決めたのは勿論母親で、それを桜に伝えたのはいつも通り父親だった。

 お金も、指示もない桜が書店へ寄った理由は、三毛猫が何故鳴くのかを知りたかったからだ。

 この日は平日だったが、桜は朝から柴春神社に寄り道していた。もう居なくなったかと桜は思っていたが、三毛猫はまだ柴春神社に身を置いていた。銀杏の木に体を擦らせていた三毛猫が桜の存在に気付いた。駆け寄るとともに、鳴き声を上げる三毛猫の喉元を桜は撫で、「ごめんね。」とだけ伝えた。

 書店には猫について書かれた本が沢山ある。その中でも、桜が着目したのは猫との生活をテーマにして書かれた本だった。桜は三毛猫の普段の行動を念頭に置いて、一冊の本に目を通した。本を通して、猫が鳴く時の意味、そこから猫が訴えるいくつかの理由へ行きつき、その理由の中に当てはまるものがないかを桜は探していく。

 空腹だから鳴く。確かにそれもあるだろうけど、他の人に食事を与えて貰った後、その人が居なくなれば、あの子はまたあたしに寄って来る。それならば、遊んで欲しいのか、これも食事同様、その人が居なくなれば、結局はあたしの元に来るから違う。

 次のページに書かれた病気や怪我という言葉を目にした時、桜は自分の中で何かが引っ掛かったのを感じた。しかし、これまでを振り返ってみても、三毛猫が病気を患っている或いは怪我をしている様には見えなかった。それでも、桜は自身の直感を信じ、考えた。

 病気や怪我がなくても、体が気になる場合。例えば、体がこっているのかと桜は考えた。その考えの元に振り返ると、確かに三毛猫は体を触られている時に満足そうな声を上げている。更に、そこから今度は自身の行動を振り返る。桜自身はどんな風に三毛猫を触っていたか。桜は三毛猫を撫でる、或いはくすぐる様に触っていた。その事に気付いた時、桜の両手には三毛猫の触り心地が、頭には地面や樹木に体を擦らせる三毛猫の姿が甦った。

 桜は三毛猫が体の痒みを訴えているのではないかと考えた。

 その後もいくつか、同じテーマを扱った本に目を通すと桜の考えを後押しする様な事が書かれている物もあり、それが桜の自信に繋がった。

 結論が出ると、桜は三毛猫の体洗いを実行に移す為に、どうすればいいのかを考えた。

 体を洗う場所は柴春神社で行い、体を拭くタオルは自身のタオルを使う。問題は石鹼をどうやって調達するか。サティの中を移動しながら、そんな事を考えていた桜の目にシュナウザーをトリミングしていたペットショップが映った。

 今日は平日で、しかもこの時間帯は食品売り場の精肉コーナーで割引シールが貼られている事もあってか、ペットショップに客の姿はなかった。そんな閑散とした店内で物音が聞こえてくる。桜がそこへ行くと、三十代前半くらいの女性がお店の名前の入ったエプロンを付けて、商品の補充をしている。女性は黒髪にポニーテールでかなりほっそりとした体型をしている。桜はその女性が昨日、シュナウザーのトリミングをしていた人だとすぐに気付いた。そして、静かに一度深呼吸をしてからその女性に話し掛けた。

「あの…すみません。」

 少し自信のない声が女性に届くと、女性は愛想よく応えた。

「どうかされましたか?」

 向けられた明るい笑顔に思わず視線を伏せた桜だったが、頭の中で三毛猫を思い出してから改めて、女性の顔を見た。

「ここは来月閉店するんですよね?」

「えぇ、残念だけど。」

「なら、お願いです。猫用の石鹸を一つ分けてもらえませんか?」

 先程と違いはっきりとした口調に変わった為、女性は一瞬、目を見開いた。

「タダでは駄目っていうんでしたら、その分はちゃんとお店を手伝いますから、お願いします。」

 桜は柴春神社に三毛猫がいること。その子が頻繁に体を掻いて、体毛の状態も良くないから体を洗う為に、石鹸が必要だと説明した。

 女性は桜の話をあしらったりせず、真剣に聴いてくれた。それだけでも、桜の心は熱くなった。

「そう。その三毛猫ちゃんの為に。」

「お願いします。」

 目の前で深く下がった頭を見ながら、女性は言った。

「ねぇ、それなら、連れてきちゃいなさいよ。その子。ウチで洗ってあげるわ。」

 頭を上げた桜が見たのは、何年ぶりかに向けられた優しい笑顔だったが、その笑顔は桜の心を曇らせた。まるで先の見えない霧の中を歩く様な感覚が体を襲い、桜は気持ちにブレーキを掛けた。

「どうかした?もしかして、気が引ける?大丈夫、ここのオーナーは私だから。それとも、遠慮しているなら、それこそ、その分を働いて返してくれればいい…」

「あの…働いて返す事は構わないです。ただ、あたしはその対価として、石鹸を貰えれば、それで良くて、わざわざ、ここで洗って貰わなくも…。」

 桜のたどたどしい話し方から、女性は桜が遠慮しているという考えをより強めた。

「ほら、やっぱり遠慮しているじゃない。いいから、連れてきなさいって、じゃないと、洗ってあげないぞ。それにやっぱり、石鹸をそのまま渡すことは出来ないわ。例え、閉店した後に在庫が余っていても。もしかしたら、それを使ったことで三毛猫ちゃんやあなたの皮膚がひどく荒れたりするかもしれないし。」

 桜は連れて来ないと洗ってあげないと言われたが、そもそも、こっちは連れて来る気がないと伝わっていないと話の嚙み合わなさを実感した。ただ、いずれにしても、石鹼は貰えない事が分かった為、引きあげる事にした。

「分かりました。なら、大丈夫です。お時間を取らせてしまってごめんなさい。」

 そう言って桜がその場から離れようとした事で女性は少し慌てた様子を見せた。

「ちょっと、全く、頑固ね。分かったわ。それなら、ここであなた自身が洗うのはどう?」

「ここで?」

 振り返ると同時に桜はそう言った。

「そう。石鹸どころか、ここの設備を貸してあげる。但し、午前中だけお手伝いして貰う。」

「なんだか、職業体験みたいですね。」

「そう。それ、職業体型。」

「体験ですよ。」

「あら。失礼しました。それで、どう?」

 殆ど決めかけていた桜に欲しかったのは最後の一押しだった。

「どうして、そこまでしてくれるんですか?」

「だって三毛猫ちゃんに風邪を引いてほしくないもの。」

「どういう意味ですか?」

「タオルだけでは体毛の下の水分は乾きにくいのよ。あなた…えっと。」

「あっ、桜です。山口桜といいます。」

「桜ちゃんね。わたしは蓼科香(たてしなかおる)。桜ちゃんが髪を洗った後って、タオルで拭くだけ?ドライヤーを使わないと乾くのに時間が掛からない?」

 祖母に買ってもらった物だが、桜もドライヤーは持っていた。それを当たり前の様に使っていた為か、重要性に気付いていなかった。

「最近は晴れれば、夏の陽気で暑いのは分かるけど、それだけで体毛の中にまで浸透した水分は乾ききらないし、三毛猫ちゃんが洗濯物みたいに日当たりの良い場所でじっとしていてくれるとも限らないでしょう。それによって、風邪を引いちゃうかもしれないし、風邪を引かなかったとしても、そこからかぶれて皮膚病になっちゃうかもしれない。そういう訳でここに連れてきてもらおうと思ったの。ごめんなさい、途中からお説教ポクなっちゃったわね。」

「いいえ、こちらこそ、すみません。そこまで考えてくれての提案だったのに、それを無下にしようとしてしまって、本当に失礼しました。ごめんなさい。」

「いいのよ。それより、そこまで分かってくれたのなら、日取りの話に移ってもいいかしら?」

「はい。」

 桜が同意すると香は楽しそうに店内の裏側へと桜を案内した。

 一方の桜は恥ずかしくて逃げ出したかった。浅知恵でどうにかしようとしていた自分がとても間抜けに思えたからだ。それでも、重要性を知ったからこそ、逃げ出す気持ちを抑える事も出来た。

 その週の土曜日の朝、桜はお店で貸して貰ったペットキャリーを持って、三毛猫を迎えに行った。桜は三毛猫が入るのを嫌がらないか心配していたが、驚いた事に三毛猫は警戒もせず、自ら進んで中へと入ってくれた。

 朝の九時。桜は建物の外で待ち合わせをしていた香と合流した。

「おはようございます。」

「おはよう。ちゃんと、親御さんには言ってきた?」

 桜は何も言わずに首を一度縦に振った後、間髪入れずに今度は頭を深く下げながら、気合の入った声で言った。

「今日はよろしくお願いします。」

「こちらこそ、今日はよろしくネ。その子ね。いらっしゃい。この子の事はなんて呼んでいるの?」

 香はしゃがみ込み、桜の持つペットキャリーまで視線を落とすと三毛猫に挨拶し、桜に尋ねた。

「人によってタマだったり、ミーちゃんだったり、色々あります。」

「桜ちゃんはなんて呼んでいるの?」

 香は立ち上がり、桜に聴き直した。

「あたしは名前つけてないです。」

「あら、でも名前がないとちょっと不便ね。」

 香は少し考えた後に、命名した。

「よし、ここではトワという名前にしておきましょう。」

「とわ?」

「そう。勿論、桜ちゃんを含めたあたしたちスタッフの間だけでね。直接、この子にはトワと呼びかけない。じゃないとこの子が混乱しちゃうからね。」

「トワかぁ…。」

 桜は手に持ったペットキャリーに視線を落とした。

「それじゃあ、お店に入ったら、まずは念の為にこの子の体を見させて貰うわね。」

「お願いします。」

「その間に、早速、桜ちゃんにはお手伝いをがんばってもらいましょう。」

「はい。」

 二人は裏口からお店へと移動した。

 桜の手伝いはペット用品スペースやトリミングルームに掃除機を掛ける事から始まった。この時間はまだ二階のフロア自体が一般に開放される前だった為、フロアには各店舗で準備を始める従業員達とフロア全体を掃除する人がいるだけだった。今、このフロアを照らすのは各店舗の灯りと所々に設置された小さな窓だけ。フロア共通の電灯はまだ点いていない。外は眩い時間だというのに、ここは夜の様に薄暗い。そんな状況が桜にはとても新鮮だった。

 掃除機を掛け終わると、桜は朝礼に参加し、もう一人の従業員に紹介して貰った。もう一人の従業員も女性で、年齢は香と同じ位に見えた。この「ソーレ」というペットショップに勤める従業員は香とその人だけだった。

 朝礼を終え、次の仕事であるシャワールームの二台のシンクの掃除も終わると、いよいよ、約束のトワの体洗いが始まった。

 初めに香がトワの体の一部を洗って見せ、それを真似する様に桜が続けて洗った。

 最初こそ動きの硬い桜だったが、香の柔らかい態度や丁度いい場所を刺激した時に聴こえるトワの気持ち良さそうな声のお陰で、桜の緊張はほぐれていった。

 ここには桜の初めてが沢山ある。初めて入るシャワールームやトリミングルーム、お店の裏側。初めて嗅ぐ動物用の石鹸の臭い。そして、猫どころか、動物の体を洗う事自体が初体験だった。それでも、桜が不安な気持ちにならなかったのは、桜の言葉を聴き、桜に言葉をくれる人がいたからだった。

 トワの体を乾かし終えた後で、香はお手伝いの終了とボーナスとして昼食をご馳走すると桜に告げた。

「香さん。もう少しだけお手伝いさせて貰ってもいいですか?」

 香はそう言った桜の目を少しの間見つめてから応えた。

「言っても聴かないわよね。」

「はい。」

 桜は少し得意げにそう応えた。

「何時までなら大丈夫なの?」

 少し呆れた様な笑顔を見せながら香は尋ねてきた。

「五時には自宅に戻っていないといけないから…四時半までなら大丈夫です。」

「分かったわ。それなら、まずはお昼ごはんにしましょう。」

 そう言われた桜は少し気まずい顔しながら言った。

「あの…そのお昼ご飯の事ですけど、実はお弁当を持ってきていて…」

「あら、えらい。それじゃあ、あたしはパンでも買って、すぐ近くの公園で一緒に食べましょう。」

「…はい。」

 気恥ずかしそうに桜は返事をした。

 午後の桜の仕事は午前中に洗濯し、乾燥機へ掛けておいたタオルの整頓から始まった。それが終わると、次はチェックリストを用いての在庫管理を行い、それも終わると、最後の仕事として犬を散歩へ行く事となった。

 散歩は香と共に出向き、場所は先程昼食で訪れた公園を利用した。

 公園にある遊具は高さの違う鉄棒が二種類。それ以外にも、レンガで四角く縁どられた砂場やパンダ、トラ、ゾウを模した動かない乗り物がある。遊具以外には飲料水の自販機が一台と長椅子が合計八基設置されている。長椅子の造りは背もたれと座面が木製で、それ以外はアルミ製で出来ている。これらを利用する人達を日差しから守る様に外周には桜の木が植わり、園内に大きな日陰を作っている。

 桜はビーグルを、香はパグを散歩へと連れてきた。二人は公園に着くと道中の舗装道路による火傷対策に履かせていた靴下を脱がせた。

 桜にとって初めての犬の散歩は少し蒸し暑かったが、とても気持ちは良かった。

 公園に着くまでに掛かる時間は五分程で、その公園内での散歩時間は大体二十分を目安にしている。園内では犬よりも桜の方が興奮しており、桜はビーグルの速度に合わせて走り回った。するとビーグルも対抗する様に速度を更に上げたが、五分後には降参を表明した。香は桜に確認した上で、パグの相手もお願いした。桜は喜んで願いを聞き入れ、全力で相手をした。その結果、パグもビーグル同様、五分程で電池切れとなった。

 一方、香は用意していた水を受け皿に移し替えてビーグルに与えると、長椅子に座り、桜とパグの様子を見守っていた。

「どうもありがとう。お疲れ様。はい、これ飲んで。」

 香は労いながらペットボトルに入ったスポーツドリンクを桜に渡した。

「どうもありがとうございます。」

「すごいわね。ぜんぜん、息が切れてない。」

 パグにも用意した水を与えながら香がそう言うと、桜は照れながら返した。

「買い物に行く時は歩きだから、それで体力がついたんだと思います。」

「いいなぁ。うらやましいなぁ。私くらいになると年々体力が落ちていくだけだもん。」

「香さんっておいくつなんですか?」

「それ聞いちゃう?」

「えっ、あっ、その…やっぱりいいです。」

 不敵な笑みと共に返ってきた言葉に、桜は目線を逸らしながら香の隣へ座り、スポーツドリンクを飲んで気を紛らした。

 桜が数回喉を鳴らした後で、口からペットボトルを離すと香は桜に尋ねた。

「桜ちゃんとトワちゃんは、昨日の話に出て来た柴春神社で出会ったの?」

「そうです。」

「出会って、どれくらい?」

「一週間ちょっとです。」

「なるほど。それで、まだすこし距離感があるのかしら?」

 柔らかい笑顔から飛んできた思わぬ言葉に桜は少し驚いた。

「そんな風に見えました?」

「なんとなくネ。トワちゃんは桜ちゃんを信頼している様だけど、桜ちゃんの方がすこし遠慮している様な感じに見えたわ。」

「そうですか。」

 ぎこちない返事をした桜の心が静かに沈んでいく。まるでこれ以上自分の心を見られない様にするみたいに深い所へ隠そうとする。それを証明する様に桜の視線が香から足元のパグへと移る。桜は足元のパグを撫でて気を逸らそうとする。それでも香はそんな桜の深い場所へ目を向ける。

「桜ちゃんはトワちゃんのことかわいいと思う?」

 パグを撫でている手を止めて、少し間を空けてから桜は香を見て答えた。

「はい。」

「それを言葉や態度で示してあげてごらん。きっと二人の仲は急接近しちゃうから。」

「楽しそうですね。」

 今まで警戒していた自分が少し馬鹿らしく思えてきた桜は続けて言った。

「助言はありがとうございます。でも、今の距離感であたしは良いんです。」

「あら、どうして?」

「ウチじゃ、あの子を迎え入れてあげられないから。」

 香は不思議なものでも見る目を桜に向ける。出会ってから小さくとも笑みを絶やさなかった香から笑みが消えた事に、桜は妙な寂しさを覚えた。

「なるほど。ごめんなさい。余計なお節介だったわね。」

 香の申し訳ないという顔が、桜の心を少しずつ揺らす。

「いえ、気にしないで下さい。あたしも気にしていませんから。」

「それはよかった。じゃあ、あたしもご家族にお手伝いの許可を貰ってこなかったことは目をつぶるわ。」

 隠し事が不意に白日の下に晒された事で、桜の波打った感情は表情に出た。そして、香はそれを確認すると妖しく笑った。

「やっぱり、その顔は貰ってないんだ。」

「うっ…。」

 言葉を詰まらせながらも桜は香の言葉を分析した。

「…でも鎌をかけてきたって事は、そもそも気付いたって事ですよね。いつ気付いたんですか?」

「実は今朝会った時から。だって、桜ちゃん、その時だけ返事してくれなかったんだもん。」

 桜はそう言われて寧ろ納得する事が出来た。

「…ごめんなさい。」

 観念して桜がそう言うと、香は正面を向いて目をつぶりながら返した。

「おあいこってことで、目をつぶります。でも…。」

 改めて向けられた香の目は鋭く、口角も下がっている。

「他で今日の様な体験する場合は気を付けてね。うそでも「はい」って言っちゃうか、上手くはぐらかすのよ。」

 これまで柔らかな表情しか見せて来なかった香からは考えられない程、強い口調だった為に桜は困惑した。ところがそんな桜の様子を見ていた香は再び表情を柔らかくして、吹き出す様に言った。

「冗談よ。本気にしちゃダメよ。」

 目の前で笑っている香を見ているうちに桜の心が段々大きく動きだす。

「もう、香さん。」

「ごめんなさい。」

 それでも、嫌な感じはせず、その心の動きに身を任せる事が寧ろとても心地よく桜には感じられた。

 二人の間には柔らかな笑い声が響いている。それを一緒にいるパグとビーグルは不思議そうに見ている。

「ねぇ。桜ちゃん。ついでに聴きたいのだけど。」

 笑いを抑えながら香は桜に尋ねた。

「どうして、桜ちゃんはトワちゃんの体を洗ってあげようと思ったの?なんだか、さっきの桜ちゃんの話を聴いた後だと、不思議な気がして、教えてくれないかなぁ…ダメ?」

 これまでと違った人懐っこい笑顔を香は向けてきた。

「香さんって甘え上手ですね」

 苦笑いにも似た笑みを桜は浮かべて言った。

「よく言われる。」

 楽し気にそう返す香によって、桜は自身の中の何かが外れた様な気がした。

「はぁ…分かりました。でも、少し長いですよ。」

「大丈夫。桜ちゃんのお陰で少し時間が出来たから。」

 桜は柴春神社にて白い蝶を埋め、とある夢を見た事、後日その夢に出て来た様に三毛猫が現れた事を打ち明けた。

「運命だと思いました。あの子との出会いは。でも、だから翌日の放課後に、あの子が神社から姿を消した時の衝撃は大きかったんです。その日は朝に居る事を確かめてから学校に行っていたから安心感もあって、余計に堪えました。結局、暫く探し回った後で、どこからともなくあの子は現れましたけど、その間のあたしは当然、気が気でなかったです。」

「でも、姿を現してくれた時は安心したでしょう?」

 香は手元のペットボトルを見る桜の横顔を覗き込んだ。

「はい。安心したんですけど、逆に、それによって気付いたんです。この子は感情的になるあたし自身を抑えられるか、それを試す為にここへ来たのだと。だから、あたしはあの子と直接触れ合うのを止めて、見守るだけにしたんです。」

 日陰の下で一層暗く見えた桜の顔を見て、香は納得する事が出来た。

「名前を付けていなかったのはそういうことだったのね。ここまで行動を起こすのに、名前はつけていないなんて変だなとは思ったのよ。」

 口元には優しさを、瞳には悲しみを抱いた香が更なる問いを桜に投げかける。

「それで、見守るだけにした桜ちゃんは、トワちゃんに対してどんな気持ちを抱いたの?」

 浮かんできた心を桜は上手く沈める事が出来ない。だから、素直に答えるしかなかった。

「…あたしはただ…つまらないなぁって…あたしがあの子と距離を置いた事で、あの子が他の人に甘えるのは確かにしょうがないし、それも含めて感情的にならない。それがあの子と出会った意味だと思うからあたしは距離を置いてきたんです。それに家族として迎えられないのなら、距離を置く事は当然じゃないですか。なのに、他の人達は必要以上にべたべたして、食事を与えたりもしている。そんなのあたしから言わせれば、無責任だし間違っている。そう理解して、行動しているのに、何故か満たされないんです。寧ろ、他の人達の方があたしよりも充実している様にさえ見えて、それが納得出来なかった。」

 止める事は出来なかった。ほんの少しのつもりが、吐き出た気持ちを桜には止められなかった。

「それでも、あの子はいつも他の人が居なくなった後で、あたしの元へ来て、何かを訴えるんです。最初はその行動が節操のないだけに見えて腹立たしかったけど、頭が冷えた時に気付いたんです。もしかしたら、あの子は本当に何かを訴えているんじゃないかって。それで、サティにある本屋で猫についての本を読んで、あの子の行動を振り返ってみたんです。そしたら、あの子が頻繁に木や地面に体を擦らせていた事、くすぐるみたいに掻く様な刺激で喜んでいた事、体毛がごわごわしていた事に気付いて、そこから実は体を洗って欲しいと訴えているんじゃないかって考えたんです。」

「なるほど。そういう経緯で体を洗う事になったのね。でも、そう訴えているかもって気付けたからといって、距離を置くことをとても重要視していた桜ちゃんが、腹立たしいとさえ思っていたトワちゃんのことをどうして、そのまま見捨てようと思わなかったの?」

 桜は少し考えてから答えた。

「…改めてそう言われると自分でもよく分からないですけど、多分、香さんのさっきの質問が答えなのかもしれないです。やっぱり、心のどこかで、あの子をかわいいと思っていたからだと思います。」

「なら、もう距離を置かなくても大丈夫ね。桜ちゃんがこれまでトワちゃんに抱いて気にしていた感情はきっと心配という想いよ。相手を心配するから色々考えて、感情的になっていただけよ。」

「心配ですか?」

 他人事にも拘わらず、とても安心した様子の香も、桜には理解出来なかったが、それより理解出来なかったのは香の言っている事の方だった。

「そう。いなくなって、また姿を見せてくれた時は安心したんでしょう?それって不安だからじゃない。」

「確かにそうですけど、それは誰かに連れて行かれたと思ったから…あたしの自分勝手な思いからの不安だったんです。」

「そう考えてしまうのも、それだけトワちゃんのことをかけがえのない存在と思っていたからじゃないかしら。」

 おだてようとしている訳でも、嘘をついている訳でもない。その言葉が本心である事を桜は香の穏やかな表情から感じ取った。

「それに多少は自分勝手でもいいんじゃないかしら。」

「えっ!?」

「あたしねぇ、聴いていて思ったの。桜ちゃんが他の人達を充実している様に見えたのは、きっとその人達が自分に素直だったからよ。」

「素直…」

 自分には縁がない言葉と桜は一瞬思ったが、すぐに自分へ言い聞かせた。あたしも自分に素直だ。だって、間違いだと思ったからこそ、それをしないように心掛けている。

 そんな桜に続けて届く香の言葉が響く。

「その人の行動が結果的に良く働いても、悪く働いても、その人にとっては自分で考え決めたことだから、その分、自身の中を満たすことが出来るのよ。だから、傍から見ると充実している様に見える。」

「それが間違いだったとしても?」

 桜は縋る様な思いで香に尋ねる。それを香は容易く肯定してしまう。

「そう。反対に理屈で自分の心を誤魔化して、何も行動しなければ、充実もしないし、満たされもしないの。でも、今回、体を洗ってあげたことで、桜ちゃんの中も満たされたんじゃないかしら?昨日会った時よりも、表情が明るくなったわよ。」

 そう言われて桜は改めて気付く。自身の中には満たされている気分と気持ちを優先した先にある依存や感情的な自身に対する恐怖が同時に存在している。

「でも、間違えば…」

 恐怖に桜の秤が傾く。

「間違っちゃっていいのよ。その目的に悪意がなく、命が掛かっていなければ、何も問題はないの。それに間違いはいけないことじゃないのよ。間違って、悩んで、立ち止まるのもいい。だけど、本当にいけないのは立ち止まったまま、惰性するようになること。それさえ覚えておけば、もう大丈夫よ。」

「悪意がなくて、命が掛かってなければ…」

 響いた言葉が桜の固まった殻にヒビを入れて、その言葉に桜は感謝した。

「そもそも、桜ちゃんだって、聴いた限りでも二つの間違いをしているわよ。一つは感情を抑えているんだもん、それじゃあ、満たされる気分になんてなれないわよ。満たされると感じるのも感情の仕事なんだから。」

 桜は本当に馬鹿だなと思ったが、不思議と逃げ出したいと気持ちはなかった。それよりも、もう一つの答えが気になった。

「もう一つは?」

「本屋さんでの立ち読み。さっき本屋さんで読んだって説明していたから、もしかして立ち読みしたんじゃないのかなと思ったの。買っていたら、わざわざ本屋さんで読んだなんて言わないと思うし、違う?」

 桜は何も言わず頷いた。

「やっぱり。桜ちゃんはうそをつけない子なのね。」

 何も言わない桜の反応が、香の言葉を証明していた。

「桜ちゃんの考えで言えば、立ち読みは封をしたお菓子の中身を食べているのと同じことじゃないかしら?」

 そう言った香の目がお店の動物達を見るのと同じ目だったからか、桜の中で両親に言われている時の様な居心地の悪さはなかった。

「…はい。」

「でも、それでトワちゃんが何を訴えているかに気が付けて、こうやって行動にも移せた。だから間違ってもいいのよ。自分の気持ちに耳を傾けて、考えて、そして自分が納得出ているなら間違っていたっていいじゃない。間違いを責める人もいるけど、中には一緒に間違いを考えてくれる人もいる。そしたら、その人と一緒に間違いから本当の正解にたどりつくことも出来る。それでいいじゃない。」

「でも、あたしにはそんな人…。」

「あら、あたしがいるじゃない。確かにお店は今月一杯だから残り一週間もないけど、そのあとだって、お互いは生きているわけだから、会いたくなったら会えばいいじゃない。あたしも会いたくなったら会いにいくから、桜ちゃんも会いたくなったら来てね。」

「…そうします。」

「伊達に四十数年生きてきてないわよ。頼りにしてちょうだい。」

「分かりました。」

 複雑な胸中で思わず聞き流しそうになった言葉を桜が確認しようとしたが、それを遮る様に香は言った。

「そろそろ、戻りましょうネ。」

 そういうと香は受け皿を片付け始めた。

「なっ、ちょっと、香さん。」

「そういえば、なんで最初はあんなにお店で体を洗う事を遠慮したの?」

「…とられると思ったから…あの子を。」

 香が打ち明けてくれたからか、桜も恥ずかしがりながら気持ちを打ち明けた。

「その気持ちよ。その気持ちを今度はトワちゃんに伝えてあげなさい。さてと、じゃあ、ここからは靴下を履かせて、お店に着くまで競争ね。」

「えっ?」

「用意ドン。」

「ちょっと、待って。」

 手早く履かせたつもりでも、慣れている分、やはり香の方が早く履かせられた。

 桜がパグの足に靴下を履かせ終えた時、香は既に公園の出入り口に向かっていた。後ろ姿であるにも拘わらず、楽しんでいる香の様子が桜には伝わった。ただ、それは桜も同じだった。ちょっと勝手で、ちょっと図々しい、そんな印象を持った香と居るこの時間が、桜にはとても楽しかった。




 体を洗って貰った後も三毛猫は鳴いていた。香がそれを「満足した。」や「ありがとう。」だと訳してくれたから、桜もそれを信じた。しかし、柴春神社に戻って来ても、何かを訴える様に鳴く事は変わらなかった。

 桜は体まで洗ったのだから、それこそ、今度は食事や遊びを訴えているのだと解釈した。食事を与える事も、遊び相手になる事も、今の桜にとってはそれ程抵抗がなかった。ただ、自身の置かれている状況が変わった訳ではなかった為、三毛猫の食事として与えてよい物が手に入らない状況も変わっていなかった。その事を桜が悲観的に考えなかったのは、他の人達がおやつを与えている事を知っていたのと野良として生きてきたのだから、自身の知らない所で獲物を狩っているのだと考えたからだ。

 それならばせめてと、桜は遊び相手になる事にした。勿論、食事目的ならば、桜がいくら遊んでも、三毛猫の訴えは止まらない。実際に桜と遊んだ後でも、訴えは止まらなかった。その事は桜も分かっていたが、それでも三毛猫の気が紛れればと思っていた。しかし、

 桜が遊んだ後に、他の人がおやつを与えたにも拘わらず、三毛猫は桜の元に戻るなり訴えを再開した事で、いずれも自身の予想は間違っていると桜は考えた。

 これ以上は一人で考えるよりも、誰かと一緒に考えた方が良いと判断した桜は、知恵を借りるという事で翌日の月曜日に香の元へと赴いた。

 今週の金曜日には閉店という事で、香は忙しく、桜もそんな中で話をするのは気が引けた為、桜は土曜日に改めて香の家で話をしたいと言った。香はそれを快諾し自身の住所とスマホの電話番号を書いたメモを渡した。

 それから四日後の金曜日、ペットショップ「ソーレ」が閉店した。

 その日が閉店日である事を桜は覚えていたが、既に香とは約束を取り付けていた事と、桜自身もいつもよりも買う物が多く、より忙しかった為、香に会いにはいかなかった。ただ、明日の事を考え、気分が高揚していた。

 

 翌日、朝の九時に桜は一人で香の家に赴いていた。香の家は二階建ての一軒家で、クリーム色の壁に、赤色の三角屋根という外観だった。

 ピンクベージュ色のフリルブラウスに、白のロングスカートという装いの香は、自宅前で桜の事を待っていてくれた。

「桜ちゃん。こっち、こっち。」

 はしゃぎながら手を振る香の声は、50メートル程離れた地点に居る桜にしっかりと届いた。

 会話の出来る距離まで来ると桜は開口一番、香にお礼を言った。

「ご招待ありがとうございます。」

「あら、桜ちゃん一人?肝心のトワちゃんは?」

「それが、出発の時になって他の人と遊び始めちゃったんです。」

「あらら、それじゃあ、しょうがないわね。さぁ、遠慮せずに上がってちょうだい。」

 部屋の中のリビングとダイニングを仕切る物はない。リビングには三人掛けのソファとソファの高さに合わせた木製の楕円面のテーブル、座った際の視線の先に大型テレビが設置されている。しかし、桜が案内されたのはダイニングテーブルの方だった。

 円形面のテーブルの上には二人分のティーカップとティーポットが既に用意されていた。カップとポットは同じ造りで、どちらもガラス製である。ポットの中には何かしらの紅茶が入っており、いい香りを漂わせている。

「どうぞ、掛けて。」

 四脚ある内の一脚に桜が腰を下ろすと、香が二人分のシュークリームを持って戻って来た。

「そんな、押しかけたのはこっちなのに、そこまで気を遣わなくてもいいですよ。」

「また桜ちゃんは遠慮して…じゃあ。」

 いたずらを思い付いた子供の顔だ、桜は瞬間的にそう思った。

「そこまで言うなら桜ちゃんの希望通り、このシュークリームは引っ込めますけど、桜ちゃんが食べてくれないなら、あたしも食べられません。さぁ、どうしましょう?あぁ、食べたかったなぁ。このアールグレイに合うと思ったのになぁ。ご近所にお裾分けしようかしら。食べたいなぁ。でも、桜ちゃんが食べてくれないからなぁ。」

 鏡を見ずとも、今の自身の顔が引き攣っている事は桜にも分かった。

「ふぅ…ごめんなさい。頂きますから、香さんもどうぞ食べて下さい。」

「本当?うれしいわぁ。」

「自分だって頑固じゃん。」

 思わず漏れ出た言葉を香は聞き逃さなかった。

「何か言った?」

「いえ、おいしそうだなぁって。」

 誤魔化す為だった。桜の視線は反射的にリビングの方へと向いた。その視線を奪った物は、木製のテレビ台の中に仕舞われている一つの写真立てだった。写真立ては二つ折りで、開いた本を立てた様な状態となっている。左面は写真立てとして機能し、右面は時計として機能している。桜の座っている位置は先程入って来た扉の近くで、扉から入った際に時刻を確認し易くする為であろう、写真立てはやや扉へ向けて置いてある。その為に桜の位置からでも、写っている香の家族を確認する事が出来た。

「香さん、家族がいるんですか?」

「うん?あぁ、かわいいでしょう。うちの心配を掛けてくる困ったさんたち。」

 公園で見せてくれた自身への笑顔よりも、もっと深い温もりを含んだ笑顔が、桜の心を更に揺さぶった。

「主人は今、単身赴任でいないけど、子供達は上にいるわ。」

 香は注いでいたティーポットをお盆の上に戻すと、上を向きながら指で示した。それにつられて桜も顔を上げて白い天井を見た。

「あっそう言えば、長女の方は桜ちゃんと同い年だったわ。折角だし、会って…」

「萌(もえ)ちゃん。待って、まだ駄目。」

 その声が二人に聞こえた時には、既にリビングの扉が開き始めていた。声のする方を二人が覗くと、夏虫色のワンピースを着て、手には筒状に丸めた用紙を持ったツイン三つ編みの幼い少女が立っており、その後ろには白い生地に漫画のキャラクターがプリントされた半袖Tシャツに、Tシャツよりも濃い白色のジーンズを履いた桜と同年代のストレートヘアの少女が心配そうな顔を浮かべて立っている。

「あら、ちょうどよかった。桜ちゃん。紹介するわね。次女の萌。それと、長女の雪(ゆき)よ。萌ちゃん、雪ちゃん。昨日話したお客様の桜ちゃんよ。」

 気持ちの整理をしていた桜が我に返ったのは、次女の名前を聴いたところからだった。その為、桜の挨拶は一瞬遅れた。

「…こんにちは。」

 硬くなった喉元で押し出した声はこもっていて聴きづらいと、発した桜でさえ思った。だからなのか、次女に対して発した桜の言葉は当人に届いていないようだった。

「萌ちゃん。桜おねぇちゃんがこんにちはと言ってくれたわよ。」

 香がそうたしなめても萌はそれを無視し、リビングを見回しながらうろつき始めた。

「ごめんなさい。」

 次女の代わりに長女が桜に謝った。

 桜は困った様子を見せるだけで、返す言葉を見つけられずにいた。すると、うろついていた次女が不服そうな顔をしながら桜へと近づき尋ねた。

「ネコさんは?」

「猫?」

 困っていた桜は突然の質問により混乱した。流石に、これ以上放っておく訳にはいかないと思った香が口を挟んだ。

「トワちゃんのことよ。今日、トワちゃんも来るって伝えてあったの。それで桜ちゃんと一緒に来たら、萌のことも呼ぶ約束していたの。ごめんなさい。」

 桜にはこの香の謝罪が自身と娘の両方に向けられたものだという事が何となく分かったが、その表情にはこれから娘の楽しみを消さないといけないという罪悪感が微かに浮かんでいる事も桜には分かった。

 桜のすぐ前に立つ娘の目の高さに合わせる為に、香はしゃがみ伝えた。

「萌ちゃん。ネコさんはお仕事で来られなくなっちゃったの。」

「おしごと?」

 次女は自身が理解出来る言葉だけを聴き分けて、それを復唱したという感じだった。

「そう。お母さんがネコさんにちゃんとお仕事があるかを確認しないで、萌ちゃんにネコさんが来るって言っちゃったから残念な思いさせちゃったわね。ごめんなさい。」

 そう説明する香の表情から騙すや誤魔化すと言った後ろめたいものを感じないのは、言葉の中に娘への謝罪する気持ちが込められている他に、連れて来なかった事を気にしないでという自身への気遣いも込められていたからだと桜は思った。

「おしごと…。」

「さぁ、雪ちゃん。おねぇちゃんと二階に戻ろう。」

 そう言って長女が次女の両肩を掴もうとした途端、何かを思い出した様に、手に持っていた用紙を広げて母親に差し出した。

「ママ。おしごと、ごくろうさま。」

 広げられた用紙の右端に黒色のクレヨンで書かれた「勤労賞」という文字。続く、ひらがなで書かれた香の名前や主文等は黒色以外の色が使われとても鮮やかな印象を受ける。

 主文にはこれまで仕事を頑張ってきた香に対する労いの言葉が、姉妹それぞれに区切り綴られていた。

「あぁ、まだ駄目だって。」

 長女は力の抜けていく声でそう言ったが、香は満足そうに微笑んでいる。

「萌ちゃん、雪ちゃん。ありがとう。」

 香が次女の頭をそって撫でると、次女も満足そうに笑った。

「ママ、それまだ途中なのだから、一度返してもらってもいい?」

 弱々しい口調で長女が言うと、香は興奮気味に返した。

「いいじゃない。あたしはこれで満足よ。」

「でも、やっぱり、もっと良くしてから私はママにあげたい。」

 終わりに行くほどに長女の声はしぼんでいった。香もそんな長女の様子を察し、賞状は一度返却された。賞状を受け取ると長女は次女を連れて二階に戻って行った。

 その間、香は夢心地のまま閉まった扉を眺めており、一方の桜はゆっくりと紅茶を飲み、桜が飲み干すと同時に二階の扉の閉じる音もした。それを合図に桜も次の行動を開始した。

「香さん。あたし帰ります。」

 桜は徐に立ち上がりながらそう言った。それにより、香も漸く現実へと戻り、桜を放置している自身に気が付いた。

「えっ、あっ、桜ちゃん。ごめんなさい。あたしったら、桜ちゃんの相手もしないで、子供みたいに興奮しちゃって、ちょっと疎外感あったわよね。本当にごめんなさい。こんなことを言っても今さらと思うかもしれないけど、今からはあたしと桜ちゃんの時間だから、二人で楽しみましょう。ね?」

 珍しく取り繕うのに少し必死な香が桜には少し新鮮に見えて、胸の中の溜まったものも少しは晴らす事が出来た。だからか、桜は自身を誤魔化す事が出来た。

「いえ、香さん。あたし、別に嫌になったから帰るんじゃありません。あたしも家族に会いたくなったから帰るだけです。それに香さんが言ってたじゃないですか…多少は自分勝手でもいいって、今だけはその言葉を香さん自身に使って下さい。」

「桜ちゃん…。」

「また今度、ゆっくりお話ししてくれればいいです。あっ、折角だから、シュークリームはこのまま持って帰ります。」

 桜はそう言って、シュークリームをまるでリンゴの様に鷲掴むと部屋を出て行った。それでも、香は桜を引き止めたが、桜の意志は変えられなかった。

 強い日照りの中を歩く、桜は夢から覚めた様な気分だった。

 これからもっと親しくなれたとしても、あたしがなれるのは友人。あの顔は向けてくれない。でも、それは当たり前の事だ。

 そう思えるからこそ、折角のお茶会が流れる結果になっても、桜の中に次女を毛嫌いする気持ちはなかった。勿論、次女が幼いからという事もあったが、寧ろ、桜は自身の間の悪さと何もしなかった図々しさに呆れた。桜の頭の中に不服そうな次女の顔が過る。そして、猫ではなく自分が原因である事を今更ながら理解した。

「そっかぁ、家族ってああいう事なんだ。」

 不意に桜の中で笑いが込み上げる。それは咄嗟にあんな言葉を口に出来た自身への感心だった。それでも、あの瞬間に桜が口にした「家族に会いたくなった」という言葉は決して嘘ではなかった。ただ、桜が向けたのは両親に対してではなく、三毛猫に対してだったという事。香がそう評してくれたから、桜は香に対しては嘘を吐きたくなく、抽象的な表現で誤魔化した。

 確かに一緒に暮らしてこそいないが、あたしにとっての三毛猫はもはや家族と言っても差し支えない存在だ。だからこそ、香さんはあたしの言葉が嘘だとは思わなかったんだ。

 笑いが収まると、桜の中には寂しさがあった。気休めに口にしたシュークリームはとても甘く、確かに先程の紅茶と組み合わせて食べた方が良かっただろうなと桜は思いながら、香のセンスの良さに感嘆した。

 

 桜の両親の休みは土曜日と日曜日である。学生の桜の休日と重なっている為、桜は朝から自宅を離れる。それでも、桜のやる事は変わらない為、夕方になれば家に戻り、いつもの仕事を始める。

 桜の母親としては桜が毎日自宅の食材を使い、それを食べているのだから、同様に毎日掃除や洗濯等の仕事をして恩を返すのは当然と考えている。ただ、それにより自身の周囲を桜にうろつかれるのも嫌だった為、土曜日の夕方の四時頃になると亭主を連れて外出する。その後は、大抵日曜日の昼より少し前に一度戻り、二時間程の仮眠の後、シャワーを浴びて再度、外出する。

 桜は両親が居なくなったタイミングで自宅へと戻る。両親の帰りが翌日と知りながらも、自宅に戻った後で仕事をするのはあの一度のサボり以降、アプリと連動したカメラを設置されたからだ。

 香の家から戻って来た桜だったが、自宅にあったメモに従い、焼きそばを買う為に再び外へと出て行った。しかし、その帰り道、メモを残した両親に感謝する出来事が桜を待っていた。

 買った荷物をまた駄目にしないように注意しながら桜は自宅へと戻る。香からの言葉は桜の胸の中にしっかりと焼き付いているが、それでもミスをしないに越したことはないと桜は考える。なにより、他人だという事を痛感した今の桜では、香の言葉で両親への恐怖を払拭する事が出来なかった。

 桜は卵の一件を踏まえて車の行き来が少ない道を選んだ。それは遠回りにもなったが、平日と違いある程度の時間は融通が利く事と急いでミスをするよりも安全を選ぶという考え方から桜はそれでも良いと判断した。

 そんな桜の脚がこじんまりしたケーキ屋の店先で急に止まった。ケーキ屋からは甘い砂糖の匂いがしてきて、桜の嗅覚を刺激した。それにより、桜の視線はケーキ屋に向いていたが、脚を止めたのはケーキ屋の中を覗く為ではなかった。桜の脚を止めたのは、ケーキ屋のガラスの引き戸に貼られた一枚の紙だった。その貼り紙には見覚えのある迷い猫の写真と特徴等が記載されていた。

 ケーキ屋の店内には表の貼り紙と同じ用紙が配布用にと何枚か置かれていた。桜は店員に似た猫を見た事があると話し、今度見掛けた時の為にと言って、その用紙を一枚貰った。同時に桜は店員から話を聞き出し、この迷い猫を探しているのがケーキ屋ではなく、隣町に住む知り合いの家族だという事、猫が居なくなって二週間近く経った事、未だに情報を掴めずにいる為、家族が情報収集の範囲を広げた事、その協力として今朝からこの用紙を貼り、配っている事を知った。

 ケーキ屋で話を聴いた後、桜は柴春神社へと直行した。

 桜は翌日、いつもよりも二時間は早く自宅を出た。見上げれば、紺色に染まった空が少しずつ東から来た群青に染め直されている最中だった。桜が柴春神社へと来た時、当然だが三毛猫は深い眠りについていた。階段の上で体を丸めて。桜は三毛猫が居る事自体は良かったのだが、猫にだって何処で寝るかの権利はあり、それを妨げる事は出来ないと改めて思い知った。昨日、桜が柴春神社へ直行したのは、無論三毛猫がまだ居るか、そして迷い猫と同一の猫なのかを確認する為だった。

 結果、未だ神社に居た三毛猫の正体は、用紙に書かれた迷い猫で間違いなかった。用紙に書かれた迷い猫の一番の特徴は尻尾の付け根の黒と茶の二色の境界部分に少しだけ生えている小さな三日月模様の白い毛だった。桜の瞳はしっかりとそれを確認した。

 その後、桜は三毛猫を社の中へと入れてから、自宅へと戻っていた。

 桜は一先ず居てくれたのだからと納得した。

 体を丸めて寝ている三毛猫と手に持つ用紙の中の三毛猫を桜はもう一度見比べたが、答えは変わらなかった。体が丸まっている為、その模様ははっきりと確認する事が出来た。

 紙に書かれた迷い猫の名前は「ツキ」。名前の由来までは書いてなかったが、恐らくこの一番の特徴と書かれている三日月模様がそうなのだろうと桜は考えた。

 ツキが起きたのはそれから一時間程経ってからだった。

 ツキの眠りはかなり深かったようで、桜が社の階段で眠るツキを抱えても、起きる様子はまるでなかった。桜はツキを抱えると、社の裏側へと移動し、そこに生えている銀杏の木の影に身を潜めながらツキが自然と目を覚ますのを待った。

 桜の腕の中で目を覚ましたツキは暴れる事もなく、不思議なものを見る様な顔で、短い鳴き声を一つ上げた。

「おはよう。トワ。」

 桜は鳴き声に対し、そう返すとツキを空っぽのスクールバッグに入れて移動を始めた。

 昨日、今日と桜は幸運だったのかもしれない。迷い猫の情報は昨日から桜の知らぬ間に開示されていたが、誰もその情報元に三毛猫を確認した人はいなかった。或いは、迷い猫の用紙に気付いた人達の全てが、実はその迷い猫が近所の神社に居る事を知らなかったのかもしれない。いずれにせよ、その事は桜にとっては幸運でしかなかった。しかも、桜の幸運は更に続き、日も明けたばかりだったとはいえ、神社の裏側に面する道路に人は誰も姿を見せず、桜を見掛ける人も居なければ、先程よりも日が昇ったとはいえ、早朝にスクールバッグを抱えて出歩く桜を不審に思い呼び止める人もいなかった。何よりも幸運だったのは、辿り着いた場所でツキを住まわせておけそうな物件を簡単に見つける事が出来た事だった。

 桜が赴いたのは、以前昼食の為に訪れた事のある河川敷だった。河川敷には結構な種類の物が違法投棄されていたが、そこで見つけた犬小屋は桜にとって宝物でしかなかった。桜はツキの新たな住処とした犬小屋を利用した。

 犬小屋には扉が付いており、外観は酷く汚れていたものの、その扉が閉まっていたお陰で、内部は見た目に反して綺麗だった。又、目立った損傷もなく、異臭もなかった。

「物は大切にしないとね。」

 犬小屋は全体がプラスチック製だった為、桜が思っていたよりも軽かった。それでも、移動させるとなると流石に厳しいと思った桜は、同じく投棄されていた手押し車に犬小屋を載せた。手押し車は錆びつき、車輪もパンクしていたが、桜は力ずくでそれを動かし、河川敷の草地近くまで犬小屋を移動させた。

「この辺りでいいかな。」

 草地の影で上手く隠せる場所に設置した犬小屋を見て、桜は満足そうに言うと、早速、犬小屋の中にツキを入れた。

 ツキは居心地が悪かったのか、入れられてもすぐに犬小屋から出てきてしまい、それどころか、警戒して犬小屋に近付こうとしなかった。しかし、このままにしておく訳にもいかないと考えた桜は、警戒するツキを捕まえて、もう一度犬小屋の中に入れると、扉を閉めてしまった。扉には引っ掛けるタイプの簡易的な鍵がついており、桜はその鍵を引っ掛けると、喚起目的で付いている側面の窓から中のツキに話し掛けた。

「ちょっと待っててね。どこからか、ごはんを調達してくるからね。」

 桜はそう言い残して、食べ物を探しに街中へと出た。

 道端に落ちている物と言えば、空き缶やペットボトルばかりで、食べ物は落ちていない。そんな中で桜は燃える用のゴミ箱の中になら何か食べかけの物があるかもと考え、いくつかの公園に赴いた。しかし、どの公園にも燃える用のゴミ箱はおろか、ペットボトルや空き缶用のゴミ箱すら置いていなかった。強いて言えばマンションやアパートのゴミ捨て場はあったが、この辺りでの本日の回収ゴミはプラスチックゴミであった。

 探し始めてから、一時間程が過ぎた時、桜は公園の近くの竹林にある、とある祠を見つけた。祠の中には地蔵尊が祀られており、酒やみかん等がお供えされている。桜はそれを見た瞬間、これこそ仏のお恵みではないかと思った。お供えされている食べ物はみかんの他にりんごや饅頭がそれぞれ複数ある。

「さすがに魚はないか…。」

 そう呟く桜ではあったが、これらでも与えれば栄養にはなると考えた。気が付けば、桜の右手は祠の中に伸びていたが、その手を止めたのは、どこからともなく聞こえてきた人の話し声だった。桜は慌てて、その手を引っ込めると、急いでその場から離れ始めた。

 駄目、駄目、駄目…。その言葉を何度も頭の中で桜は繰り返し唱えながら、当てもなく歩き回った。やがて出たのは歩道のある道。その道は桜の中で見覚えがあった。

 不思議に思いつつも、本能に従い歩道に沿って進んで行った桜であったが、その先の反対側にあった家を見て漸く、その道が香の家に通じる道だった事を思い出した。

 桜は一瞬迷うも、「会いたくなったら来てね。」その言葉を思い出し、決意を固めた。

 桜の中で高まる高揚感。加速した血流が脳内を巡り、突然会いに行った時の香の反応を想像させる。想像の中での香はいつもの笑顔を見せ、「いらっしゃい。」と言っている。脳内から溢れ出る快楽物質は、桜に短く甘い白昼夢を見せた。

 あとは手前の横断歩道を渡るだけという地点に桜が来た時、家から出てきた親子を見て、来たのは間違いだったと桜は後悔した。

 横断歩道を挟んで見えた香と二人の娘が浮かべる笑みに大小の差はあるものの、その全員が幸せに満ちていた。

 桜は自身の居る歩道が反対側で良かったと心底思いながら、急ぎその場を離れた。

 香の言葉を桜は思い出した。

 ゴミ箱を探し、街中を歩き回っていた桜だったが、頭の中では常にその地点から見て、河川敷がどの方向にあるのかは把握していた。その為、桜は迷うことなく戻って来る事が出来た。

 桜は持ってきたみかんと饅頭をそれぞれ食べ易い大きさにしてから、ツキの前に差し出したが、ツキは犬小屋から出ると、真っ先に近くの水溜まりで水を飲み始めた。

「いけない、水も用意しないと。」

 水を飲み終えた後、ツキは桜の元には戻って来たが、食べ物には見向きもせずに、桜を見ながら鳴き声を上げた。

「そうだよね。やっぱり、こういう物じゃ駄目だよね。」

 桜はツキの頭を撫でて、誤魔化した。

 封を開け、皮を剥いた物を、今更元の場所へ戻す訳にもいかなかった為、桜はその二つを頂く事にした。口の中が酸味と甘味で満たされる。どちらも腐っている様子はなかったが、美味しいとも感じなかった。

「うそつき。」

 この子の為に間違いを犯したのに、この子は応えてくれない。それどころか、間違いが胸の中に残り、重くなる。

 それでも、次こそは食べて貰えそうな物を見つけて来ようと桜は無理矢理、気持ちを切り替える。

 犬小屋を投棄した人が合わせて投棄したのか、先程、犬小屋を拾った場所から少し離れた場所には汚れた動物用の受け皿が落ちていた。桜はここまでに至るまでの河川敷の中にサッカーグラウンドとその近くに水道が設置されている事を思い出した。

 水道で受け皿を丹念に洗った後で水を汲み、ツキの元へ戻ると、桜は再度街中を歩き出した。

 桜の次の目的地は、猫の食性を考慮して魚屋となった。

 かつて自宅近くにあった魚屋を利用していた時に、注文で捌いた魚の一部が破棄されている事を桜は思い出し、それを譲って貰う事を考えていた。しかし、桜がいくら街を回ってみても、魚屋は見つからなかった。正確に言えば、開店している魚屋は見つからなかった。三件目に見つけた魚屋も閉店していると、流石に桜もこの近辺で開店している魚屋はないのではないかと考え始め、それを確かめる為に、近くの交番へと立ち寄った。結果、近所にあった魚屋、精肉店、八百屋といった類の個人店は、数年前に全て閉店した事が分かった。警官からその事を聴いた桜の頭の中には自宅の周囲でも同じ事が起きていた事を思い出した。

 疲弊と無情な現実は桜の気を落とし、脳内の神経の伝達速度を減速させる。そんな状態でも桜は考えるが、頭の中には何も浮かんでこない。故に当てもなく歩き始める。それでも、一つだけ意識している事があった。それは、決して香の家の近くを通らない事だった。

 その意識だけに注力して歩いていた為、桜は進行方向にある交差点の信号が赤だという事に気付かず、そのまま入りそうになった。しかし、寸前の所で、自転車に跨りながら先に信号待ちをしていた女性が桜の腕を引っ張り、止めてくれた。止まった桜の目の前を勢いよく何台もの車が流れていく。

 意識が置かれた状況へと向いた桜は慌てて振り返った。そこには荷台に大量の買い物袋を積め込んだ自転車に跨り、その自転車を傾けながらも自身を引き止めてくれている女性がいた。状況を吞み込んだ桜は一歩下がった後で、女性に感謝と謝罪を信号が青に変わるまで繰り返した。一方、女性も強い口調ではあったが、返すその言葉は全て桜の身を心配するものであった。

 その女性が自転車を走らせた時だった。自転車が歩道と車道の段差の衝撃で上下に揺れ、後ろの荷台に積まれていた買い物袋からプラスチック製の袋で梱包されていた菓子類の様な商品を一つ落とした。桜は慌ててそれを拾ったが、商品の内容を知った瞬間、桜の頭に色んな考えが一瞬だけ巡った。その所為で桜は声を掛けるタイミングを逃してしまった。

 河川敷に戻って来ても、まだ桜の鼓動は落ちない。河川敷に戻るまでの間、桜はノート程の大きさの商品を両腕で抱えながら、何度も後ろを振り返りつつ走った。

 袋の中には猫用に造られた魚肉ソーセージが小分けにされ、三十本入っている。その一本を取り出そうとする桜の手は震えており、なかなか封を開ける事が出来ない。そんな桜の隣ではツキが心配してなのか、それとも、いつもの訴えなのか、鳴き声を上げる。

 やっとのことで封を開けたソーセージを桜は指先で食べやすい大きさに千切ってからツキに与えた。その後もツキの鳴き声に従い、桜が封を開けたソーセージは合計三本。その内にツキが食べたのは二本で、三本目は食べなかった。ならばと、桜が次に取った行動は、ねこじゃらしでツキと遊ぶ事だったが、期待に応えて貰えないと理解したのか、ツキはその場で丸くなった。

「…ごめん。」

 桜がそう言って暫くすると、ツキは起き上がり、両膝をついて俯く桜の顔を舐め始めた。それに対し、桜は同じ言葉を繰り返し口にする事しか出来なかった。


 また一人になるのは嫌だ。それが今の桜の素直な気持ちだった。ツキと出会い、香と出会う事が出来た桜。そんな香には家族がいた。それを知る事で、自身に向けるのとは違う顔が香にある事、その顔が決して自身に向かない事も桜は知った。何かを知れば、新たに何かを思う。桜が思ったのは、これ以上手放したくないというものだった。

 月曜日の放課後、桜は預かったネックレス、香水、マニキュアを査定して貰う為に、買い取り専門店を訪れていた。マニキュア以外は日曜日に母親が出産記念日として友人から貰った物だった。

 いつ頃からかは、桜も忘れてしまったが、ある時、母親が痛みに耐えながら産んだのは自分だから、そんな自分が祝われないのはおかしいと言い出した。それを母親が自身の友人たちに話すと、友人達もそれを面白がり、以降桜の誕生日は母親の出産記念日となった。そうなると、桜もお祝いの品を強要されそうなものだが、桜に要求されるのは毎年同じものだった。それは、その日一日、両親の視界に入らない事であり、それがプレゼントとの代わりという事にもなっている。これは、出産記念日が決まる以前、母親の誕生日に用意した似顔絵が気に入って貰えなかった事に起因しており、以降は主役がどちらであっても、誕生日等の祝い日は全てそうする事になった。同時にこの事は桜が土日に家を出るきっかけにもなった。

 三十代後半と思われる男性スタッフに品物を預けてから二十分程で査定は終わった。

「どうですか?」

 桜が尋ねると、男性スタッフは愛想よく応対した。

「そうですね。トータルで四千円ですね。」

「四千円ですか。」

「はい。ネックレスも、香水もちゃんと箱に入って、外傷などは見当たらない綺麗な状態ですけど、元々が有名なブランド品という訳ではないので、マニキュアは確かに有名ブランド品ではあるのですが、表面のラベルには滲んだ痕がありましたので、がんばってみても、これくらいですね。」

 男性スタッフの説明が終わると桜は呟いた。

「さっきのお店と同じかぁ…。」

「なにか?」

「いえ、何でもないです。分かりました。これの持ち主にそれでいいか、一旦確認してみます。ありがとうございました。」

「承知しました。またのご来店をお待ちしております。」

 桜はスクールバッグに預かった物を入れて店を出た。

「卵の臭いを消す為に水に浸したのがまずかったなぁ。」

 他の二点は貰い物だったが、マニキュアは桜が以前、卵と一緒に駄目にした物だった。母親はマニキュアを処分しようと考えていたが、父親の助言で出産記念日の貰い物と一緒に売る事となった。

 その方法は一度、少なくとも三店舗は買い取り専門店で査定して貰い、自分達の希望通りの金額が提示されなければ、ネットで売るというものだった。尚、店舗に出向くのは基本的に桜である為、桜には予め自分達の希望額を伝えてある。今回の希望額は合計八千円だった。

 桜は近くの駅に出向き時刻を確認した。現在地から桜の自宅までは十分程であり、戻ってからの桜には掃除や洗濯等の仕事が待っている。それでも、それらの仕事に遅れない様に桜は店舗から店舗へ走って移動していた為、少し疲れも溜まってきていた。

 ちょっとだけ、桜はそう思い近くの小さな公園へと足を運び休憩した。

 面積の所為だろうか、設置された遊具はブランコしかなく、あとは以前、香と一緒に訪れた公園にあるのと同じタイプの長椅子だけだった。長椅子に座りながら、桜はスクールバッグの中を覗き込んだ。それは預かった物を忘れていないかの確認であったが、それらを見た事で桜は手放すという事を不思議に思った。

 母親がこれらを手放すのはその程度の価値としか思っていないから。逆に手放さないのはそれだけの価値があるから。それは、あたしがトワを手放さないのと同じだ。あたしにとってトワはもはやかけがえのない存在だ。トワをここまでの存在にしてくれたのは、自分の心を紐解いてくれた香さんのお陰だ。そんな香さんもあたしにとってはかけがえのない存在だった。でも、香さんにとってのかけがえの存在はあの二人の子供だけ。当たり前の事だ。香さんから見てあたしは他人なんだから。

 桜の胸が疼き、桜がトワに会う事を強く欲した瞬間、疑問が湧いた。

 もしも、香さんに子供が居なくて、それで、あの貼り紙を見ていたら、あたしは素直にトワを手放していただろうか?

 それ以上の事を考えたくなかった桜は何も考えずに空を見上げ、その空がいつの間にか分厚い灰色の雲で覆われている事に気付いた。

 ひょっとして、雨が降るかもと桜が思った瞬間、雨粒が一つ桜の左目に当たった。桜は左目を擦りながら、自ら置いたトワの環境を思い出した。

 飲み水の件があった為、桜は犬小屋の扉を閉めてこなかった。更に、桜の頭の中では動物の野性的な本能が回避行動を取るという考えに至る。一方で、万が一という想像が過る。

 冷たい汗が一つ桜の背中を伝った。

 気付けば、桜は歩き出していたが、その方向はまだ定まっていない。

 あたしにはこの後、掃除等が残っている。それに、雨だってこれ以上は振らないかもしれにない。そう考える桜の頭にまた雨粒が当たる。視界に広がるアスファルトの地面にもぶつかった水滴の痕が残る。

 迷いながら歩く桜の目に公衆電話が飛び込む。同時に香のメモが頭に浮かび、その中へと駆け込んだ桜だったが、そこで自身はお金を所持していない事に気が付く。香を頼ろうとした事が良かったのか、昨日同様、香の言葉が甦る。そして、桜の中で何かが沸き立ち、外へと出ると、それを力としながら、桜は次の行き先に向かって全力で走り出した。


 小粒の雨が桜の髪や肌、衣類、スクールバッグを濡らす。勢いよく屋根等に当たり、響いてくる雨音を聞き流しながら、桜は顔に付いた水滴を拭いさり、駆ける。前方に大きな水溜りがあろうと、回避する事なく、それを踏み抜く桜の足に躊躇はない。履いている運動靴の中はとっくに多くの水分を含み、地面を踏む度にブチュッという独特な擬音がするが、桜の気は削がれない。この雨を感じながら、桜は白い蝶を埋めた日の事を一瞬思い出した。

 桜が河川敷へ辿り着くまでに要した時間は十五分。それは草地の影に隠した犬小屋の中を確認するにはギリギリの時間だったようで、川の水位は既に犬小屋の脚の部分を吞み込むまでになっている。

 犬小屋が元の位置から少し土手の方に流されている事に気付くと、桜はスクールバッグをその場に置き、川の浸水が始まった河川敷へと降りた。最初は靴底より少し上の位置にあった川の水面が、犬小屋へ辿り着いた時には靴の履き口よりも高くなっていた。

 中を覗いた桜の精神は壊れそうになるがそれを奮い立たせ、桜はその場を見回し、耳を研ぎ澄ました。しかし、見えるのは鬱蒼と生えた植物だけで、聞こえるのは川の流れる音だけ。そこには何もない。桜がそう確信した時、不意にあの声が桜の耳に届いた。桜が振り向くと、土手の上で座りながら心配そうな鳴き声を上げるツキが居た。

 土手に上がった桜は全身を濡らしたツキを抱えて呟いた。

「還ろうね。ツキ。」

 訪ねた桜をインターフォン越しに応対したのは、次女の萌だった。警戒こそされてはいたものの桜の質問に次女は答えてくれた。それにより、今この家には萌しかいない事を桜は知る事が出来た。

 桜はインターフォンを通して抱えたツキを見せ、この子を暫くの間、預かって欲しい事とお母さんに見せれば分かると伝え、玄関にツキを置いて去ろうとした。桜が門扉から玄関まで移動すると、丁度玄関の扉が開き、萌が顔を出した。

「ネコちゃんだ。」

 さっきまでの警戒心は吹き飛んだようで、はしゃぎながら萌はそう言った。

 桜はしゃがみ萌にツキを紹介した。

「この前、お仕事で来られなかったツキだよ。ちょっと体が汚れているから、お母さんに頼んでお風呂に入れてあげてね。あと、ごめんね。ツキを拭くタオルとツキを入れておける段ボール箱とかない?あれば、持ってきてくれないかなぁ。」

「わかった。」

 そう言って、萌は奥へと行くとすぐにツキが入る位の段ボールとタオルを二枚持ってきた。

「ありがとう。」

 お礼を言って、受け取った一枚のタオルで、桜がツキを拭き始めると、その桜の体を萌が拭き始めた。桜は目の前にいる萌から、その親と同じものを感じながら、零れ出そうになるものを必死に堪えた。


 自宅に戻った桜は急ぎ、シャワーを浴びてから残された約二時間の中、無心で仕事に掛ったが、掃除の範囲が一階及び二階の各部屋や階段、廊下までを含むと制限内に終わらせる事は流石に難しかった。勿論、それ以外にも仕事はある。残り一部屋に加えて、一階と二階のトイレ掃除がまだという時に、両親は帰宅した。しかも、掃除に気を取られていた為、風呂を沸かす事も桜は忘れていた。

 間に合わなかった仕事の件と預かっていたネックレス等を濡らした件で受けた桜の罰は水責めだった。桜は薄いパジャマのまま浴槽の中に立たされ、シャワーによる冷水を全身で浴びせられた。その時の桜の態度は妙に落ち着いており、その事がより母親の癪に障り、母親は水責めをしながら浴槽の栓をした。浴槽一杯にまで水が溜まった時、シャワーから出る水は止まった。しかし、罰はまだ終わっていない。

 母親は謝罪の誠意として、桜に浴槽の中での土下座を強要した。桜は何も言わずに、その身と頭を沈めると、その桜の頭を母親の手が掴み、風呂底へと抑え込んだ。母親の希望は桜のもがき苦しむ姿だったが、母親の期待に反して桜はもがき苦しんだりしなかった。じっと固まったままだった桜の体は次第に震え始めたが、それでも母親の手には頭を上げようとする感覚がなかった為、母親は恐くなり、その手を桜の体から離した。母親が手を離してから十秒後、桜は勢いよく頭を上げた。ずぶ濡れの姿も相まって桜の事が気味悪くなった母親は「何なのお前。」と吐き捨て、少し慌てた様子を見せながら浴室を出て行った。

 結局、これ以上、今回の件で桜が責められる事はなかった。


 土曜日になると桜は改めて香の自宅を訪れた。桜がインターフォンを鳴らすと、香は応答せずに玄関の扉を開けた。桜は香が自身の行動を見越していたのかと考えた。勿論、これだけでは桜の考え過ぎという事もあった。

 桜は香が朝から動き出す事を考えて、迷惑と知りながらも、早朝の六時半に香の家を訪れていた。この時間帯ならば、起きていたのが香だけで、香がカメラで確認し、玄関を開けただけとも考えられた。しかし、香の格好は少し緩めの水色のTシャツに白色のデニムパンツで、何より、ダイニングテーブルには大皿に盛られた沢山の種類のクッキーと白いティーポット、二人分のティーカップが用意されていた。

 お見通しだったかと思いながら桜が席に座ると、香は前置きや雑談を挟まずにあの日、何があったのかを尋ねてきた。

 香の表情から読み取れた心配という想いが、桜の心の裏側を刺激し俯かせる。加えて、 香の言葉や口調に含まれた愛情が、桜の身を焼き熱くさせる。

 それでも、桜は感謝と責任を力にして顔を上げ、重くなっている口を開いた。桜の口で語られた事は、香と娘達に対する羨望だけを除いた自身の思いと考え、それに対する行動の全てだった。

「そう…本当はツキちゃんっていったの。」

 目の前に置かれた迷い猫の用紙から桜へと視線を移すと、香は言葉を出そうとしたが、それを静かに仕舞った。

 自身に向く悲しい香の目で察した桜は香の代わりにそれを取り出した。仕舞った言葉がそれだったのかは桜にも分からなかったが、それを出した時の香の表情から少なくとも近い言葉だった事は理解が出来た。

「あたしは卑怯者です。香さんの言葉を言い訳にして、ツキを死なせそうになったんですから。だけど、ツキはまだ生きている。だから、還します。本当に死なせてしまわないうちに。」

「分かったわ。なら、あたしがツキちゃんを連れて行くわ。」

 冷たい目を瞼が覆うと香はそう言ったが、桜はすぐに応えた。

「いいえ、あたしが連れて行きます。。」

 香の開かれた目からは少しの不安を覗く事が出来た。そして、溜息を一つ吐いてから香は応えた。

「それじゃ、ツキちゃんに決めて貰いましょう。」

 香はそう言って、萌の部屋から静かにツキを連れ出した。

 香に抱えられていたツキはリビングで待ちっていた桜を見ると暴れ出し、腕の中から抜け出した。その後、香は床に下りたツキが一目散に桜の元へ駆け寄り、いつもの鳴き声を上げるのを見た。

 潤んだ目でツキを見ながら、桜は微笑んで言った。

「はいはい。今度こそ、寄り道なしで連れて行って上げるわ。」

 桜はツキを抱えると、扉の前に立っていた香に言った。

「香さん。迷惑ついでに、もう一つお願いがあります。」

 香は不思議そうな顔をして桜の願いが何かを尋ねた。

 強い日差しが桜の体を焼き、周囲の湿気が桜の体を包む。そんな中、桜はゴム手袋をした手で道路脇に落ちている空き缶を拾い上げ、中に溜まっていた雨水を出してから大型のゴミ袋に入れる。少しずつ燃えるゴミ、プラスチックゴミ、空き缶、空きペットボトル、それぞれのゴミ袋が満たされていく。各ゴミ袋が一杯になると、桜は燃えるゴミ以外のゴミを一度公園の水道で洗ってから再度ゴミ袋に戻した。

 道中、道ですれ違う数人が桜に感謝或いは桜を褒めてくれたが、桜の気持ちは晴れなかった。これは桜が自身に科した罰だったから。しかし、偶然にも、声を掛けた人の中に、例の恩を仇で返してしまった女性がいた。桜は正直に告白すると、女性は桜を許してくれた。そこで初めて桜の気持ちは少しだけ軽くなる事が出来た。

 数時間後、桜が香の家へと戻って来た。

 香は門扉の前で桜を待っており、優しくはないが、少しだけ明るい笑みで桜に言った。

「お疲れ様。」

「ごめんなさい。何だか、余計に迷惑を掛けてしまって。」

「いいのよ。これで少しは街がきれいになったのだから。あとの処分は任せなさい。」

 桜は香の指示に従い、物置にゴミ袋を入れてから、再度家へと上がった。

 リビングでは目を覚ました萌がツキの体を揉んでいる。

「さぁ、萌ちゃん。約束の時間よ。」

「もぉう?うそだぁ、まだだもん。」

 萌はツキを抱き締めて、離れない意志を示す。

「桜おねぇちゃんが迎えに来るまでって約束したでしょう?」

 萌はしゃがみ込む母の後ろで立っている桜を見るが、何も言わずに母へと視線を戻し、意志を貫こうとする。

 その様子を見ていた桜は徐に香の肩へと手を置いた。香は桜の顔を見た後で立ち上がると、今度は入れ替わりで桜が萌の前にしゃがみ込んだ。

「モエちゃん。ツキを預かってくれてありがとう。ツキもありがとうって言っている。」

 萌が少し体からツキを離すと、ツキはタイミング良く鳴いた。その顔は瞼を閉じ、まるで笑っている様にも見えた。

「ホラね。でも、ツキはね。お家に帰りたいとも言っているの。」

 次に鳴いたツキの顔は目を開き、何かを欲する様な顔に見えた。

 萌は目を丸くし。口を開けたままツキを見ていた。

「モエちゃんだって、どこか行けば、お家に帰るでしょう。それはどうして?」

「ママがくらくなるまえにかえってきなさいっていうから。」

「じゃあ、もしも、ママが帰るのはいつでもいいよ、暗くなってからでもいいよって言ったら、いつまでもお外にいる?」

 萌が首を横に振ると、桜は続けて尋ねた。

「どうして?」

「くらいのがこわいから。」

「そうだね。暗いのは怖いよね。でも、暗い中でも一緒にママやお姉さんが居れば、どうかな?ちょっとは怖くないんじゃないかな?」

 桜の言葉に萌は頷いた。

「ツキもモエちゃんと同じだよ。お日様が照って明るい場所に居ても、家族がいないのは怖いって言っている。」

 萌はもう一度ツキの顔を見た後で、桜にツキを差し出した。桜はツキを抱えると、ツキの顔を耳元に近付けてから萌に伝えた。

「うん、何々、そう。モエちゃん。ツキがね、約束を守ってくれて、ありがとうだって。」

 桜の耳元を向いていたツキが萌の方を向き、鳴き声を上げると、萌は香に似た笑顔を見せた。

 連絡先は例の用紙に記載されてあった。そこに香が連絡し、これから連れて行くからと香が話すと、相手は待ち合わせ場所を指定してくれた。指定した場所は奇しくも神社だった。勿論、柴春神社ではなく、桜も、香も知らない隣町にある神社だった。パソコンで場所を確認すると香は車で送ろうとしたが、桜はこれを拒み、自らの脚で出向く事にした。渋々、了承した香は「ツキちゃんのため。」と言い桜に日傘を渡した。桜は感謝して日傘を受け取ると、「あとで返しに来る。」と伝えたが、今度は香がそれを拒み、「差し上げる。」とだけ返した。




 桜の読み通り目的地までは一時間半程で辿り着く事が出来た。桜が歩いて行くと決まった事で香は改めてツキの家族に連絡し、待ち合わせ時間を二時間後にして貰っていた。その為、桜は神社に相手がまだ来ていないと思っていたが、相手は既に来ていた。

 待ち合わせ相手の特徴は学校指定のあずき色のジャージを着た男子という事だった。男子は神社の入口で待っており、桜の腕の中にツキが居る事に気付くと駆け出した。桜も男子の存在に気付いた腕の中のツキの鳴き声を合図に走り出した。

「ツキ。どこに行ってたんだよ。」

 桜から受け取ったツキをしっかりと抱き締めて男子は言った。

 男子の腕の中へと移ったツキは「ただいま。」とでも言ったのか一声鳴いた。それが桜には今までのどの鳴き声よりも甘く聴こえた。

「あなたが金澤さん?」

「はい。そうです。」

「確かにツキは還しました。」

 桜はそう言って来た道を戻り始めた。

「えっ、ちょっと。あの…ありがとう。」

 男子は桜の背中に向かって深く頭を下げてから、その場を後にした。

 桜の体を一気に疲弊が襲ってきた。桜は体を休ませる為に道中で見掛けた公園へと寄った。公園にはジャングルジム、三つの鉄棒、砂場、ブランコの遊具と木製の長椅子が四つあったが誰も居なかった。桜は何となくブランコに座り、空っぽの頭で空を眺めた。空には所々に大きな雲が浮かび、太陽を隠している。その為、風が吹けば少しだけ涼しさがあった。

 瞼を閉じ、風を受けながら桜は生き方の難しさを知った。

 誰かの言葉だけを全てに考えれば、それこそが正しいと考え、自分を駄目にしてしまう。一方で間違いと知りつつも、自分の考えの元の行動ですれば、都合の良い誰かの言葉を言い訳にして、自分どころか自分以外の何かも駄目にしてしまう。

 視覚を遮断した事で、桜の他の感覚が冴える。鼻は湿気を含んだ地面の土の臭いを嗅ぎ取り、耳はその地面を踏み鳴らす音と誰かの声を聞き取る。

「あの~。」

 桜が目を開けて、前を向くと先程の男子と男子に抱えられたツキが立っていた。

「どうして?」

 予想外の出来事に驚いた桜は思わず、そう口に出した。

「いや、その、何言っているのとか思われるかもしれないんだけど、ツキが鳴くんだよ。めずらしく、何かを訴えるように、それでもしかして、あなたに会いにいけって言っているのかもと思って、それにちゃんとお礼を言いたかったっていう心残りもぼく自身にあったから。」

「いいわよ。そんなの。お礼を言われる事なんてしてないんだからあたしは。」

 そう言う桜に対し、男子は半ば強引にツキを預けると、背筋を伸ばし、深く頭を下げてから大きな声で言った。

「どうもありがとうございました。」

 それに対し桜は困惑しながらも、その態度に応える覚悟を決め、男子を隣のブランコへ座る様に勧めた。

 男子はスポーツ刈りにやや小麦かかった肌の色をしていた。

 桜は男子にツキを返してから、事の経緯を説明した。神社で出会い、出会ってからずっと何かを訴える様に鳴いていた事、暫くして、迷い猫の用紙を見掛けた事、それで河川敷にツキを隠したが、危うく死なせかけた事を打ち明けた。

「お礼を言って貰った後からこんな話をして、ごめんなさい。それから…」

 言葉を一旦途絶えてから立ち上がった桜は先程の男子同様に背筋を伸ばし、深く頭を下げてから続きを口にした。

「あなたの家族を危険な目に遭わせて、本当にごめんなさい。」

 男子は桜の勢いに少し気圧されて、少しの間固まったまま、目の前に出された桜の頭を見つめる事しか出来なかった。しかし、気持ちが回復すると桜に言葉を掛けた。

「顔をあげてもらっていいですよ。」

 言われた通りに桜が顔を上げると、男子は桜の赤く滲んだ目を見ながら続けて言った。

「正直、ツキが知らないところで死にかけていたという事実はとても恐かったですし、あなたがかなり身勝手な人だとも思いました。でも、だからこそ、疑問というか、不思議なんです。そんなあなたの事をツキが拒絶しなかった事が。あなたはここに来るまでずっとツキを抱えて来たんですよね?」

 桜は頷いて、男子の問いに答えた。

「こう見えて、ツキだって考えてるんです。相手が自分に嫌な事をしてくると分かれば、暫くの間は近付かなくなるし、無理に近付こうとすれば、威嚇して引掻くんです。あなたはツキに引掻かれましたか?」

「…ない。ツキにもそんな一面があるなんて、今まで知らなかった。」

「だとしたら、きっと、あなたの気持ちが自分を思っての事だって分かっていたんだと思います。そして、ぼくはそんなツキのあなたに対する態度を信じます。何より、さっきは身勝手と言いましたけど、無責任ではないとも思いました。」

「どのへんが?」

「自分でツキを危険な目に遭わせていると分かっているから助けようとした。それって、責任感がないと、しない行動ですよ。」

「それでも、自分のした事が帳消しになるとも思ってないわ。」

「なら、帳消しになるように、これからもツキと会ってくれませんか?」

 男子はそう言って、抱えたツキを示した。

「どうして、そういう発想になるの?」

 桜は何を言っているのか理解が出来ないという目で男子を見た。それに対し男子は桜が立ちっぱなしの事に気付き、座る様に促し、桜が座ってから答えた。

「実はツキが何かを訴えるように鳴き出したのは、居なくなった日からなんだ。」

「そうだったの?でも、それってお腹空いたとか、遊んでとかの意味じゃないの?」

「そういう事でも鳴くけど、それはいつも同じタイミングだから時間が決まっているし、その日は夜中にも鳴いたんだ。しかも、少し前までツキは寝ていたのに。珍しかった。」

「それで、どうしたの?」

「家族は寝ていたし、ぼくも寝ているところをその鳴き声で起こされたから、眠気が強くて、珍しいと思いながらもそのまま寝ちゃったんだ。ただ、翌日には風呂場の網戸が開いていて、ツキが居なかったからそこから出て行った事が分ったんだ。元々、喚起目的で窓自体は開けていたけど、今までもそうだったから特に対策とはしていなかったんだ。その後は、慌てて家族全員でツキの捜索。でも、見つからなかった。その時はどうしてか分からなかったけど、今なら分かる。多分、あなたを連れて来る為だったんだよ。」

「何の為に?」

「それはこれから分かるんじゃないかな?それを証明する様にさっきも鳴いてたし、なにより、あなたに会えなくなったら、また脱走すると思うし、それこそ、また危険な目に遭うかもしれない。あなただって、このまま二度と会わないでいたら気にならない?」

 桜はツキに視線を移した時に、この公園に来てからツキが一度も鳴いていない事に気が付いた。

「…毎日は無理よ。土日は夕方前までならいいけど。」

 男子は屈託のない笑顔を見せ、それにつられて桜も微笑んだ。

「そういえば、お互いまだ自己紹介もしていなかったね。ぼくは金澤寛海(かなざわひろみ)。」

 寛海はそう言って立ち上がり、ツキを左腕だけで抱えながら右手を差し出した。

「桜、山口桜(やまぐちさくら)。」

 ゆっくりと立ち上がり、その手を掴んだ桜は自身の中が、どうしてこんなにも充実しているのか不思議に思った。

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