【青春恋愛短編小説】君の嘘だけが、美しかった。(約19,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第一章:不協和音な僕と、透明な君

 春の陽光がプリズムのように教室の窓ガラスを染め、床に七色の光片を散らしていた。その温かそうな光の粒子は、しかし僕――響野ひびきのかなでの心までは届かない。


 そう、僕と世界の間には、いつからか分厚く、そして完全に透明な壁が存在していた。物理的には存在しないその檻は、けれどどんな鋼鉄の牢獄よりも僕を確実に世界から隔絶していた。


 現代文の教師が抑揚のない声で教科書を読み上げている。その単調な響きの背後で、僕の頭の中には無数の声が不協和音となって流れ込んでくる。それは耳で聞く音ではない。魂の表皮を直接撫でるような、不快で生々しい感触を伴う「思考の音」だ。


(早く授業終わらないかな。昨日のドラマの録画、見たいのに)

(今日の昼、蓮のやつと抜け出してゲーセン行く約束したんだよな。バレないようにしないと)

(先生のネクタイ、曲がってる。奥さんと喧嘩でもしたのかな。ああいう細かいところがだらしない男って、無理)


 クラスメイトたちの、口に出されることのない本音。


 十六歳で迎えた春、生まれ持ったこの忌まわしい能力はますますその解像度を上げていた。人の顔を見れば、その表情筋の微細な動きや瞳の奥の揺らめきがトリガーとなり、隠された感情が字幕のように脳裏へ投影される。それは呪い以外の何物でもなかった。


 ということを、僕はもう嫌というほど思い知らされている。


 キーンコーンカーンコーン。


 無機質なチャイムの音が、教師の退屈な朗読を中断させた。途端に教室は解放感に満ちた喧騒に包まれる。椅子を引く音、机を動かす音、そして弾けるような笑い声。その物理的な音の洪水の下で、僕だけが別の層の音を聞いていた。


(響野君って、いつも一人でいるよね。何考えてるか分からなくて、ちょっと不気味)

(話しかけにくいオーラ出てるし。まあ、こっちも別に話したいわけじゃないけど)

(あ、目が合っちゃった。気まず……)


 僕は静かに席を立ち、自分の周囲に張り巡らされた見えない棘をこれ以上誰かに感じさせないよう、足早に教室を出ようとした。その背中に、快活な声がかけられる。


「響野! よかったら、一緒にお昼食べないか?」


 振り返ると、クラスの中心人物である伊吹いぶきれんが、人懐っこい、完璧に計算された笑顔を浮かべていた。彼は誰からも好かれる典型的な人気者だ。運動神経が良くて、ルックスも悪くない。そして何より、ソーシャルスキルが高い。しかし、僕の耳には彼の心の声がクリアに届いていた。


(うわ、やっぱりオーラ暗いな。でも母さんに頼まれちまったからな。『奏君、一人でいることが多いみたいだから、蓮から誘ってあげて』って。うちの母さんと響野君のお母さん、昔からの知り合いなんだよな。正直、面倒くさいけど、断られたらラッキーくらいの感じで誘ってみるか)


 人間は嘘つきだ。


 誰もが社会的な仮面を被り、本当の自分を巧みに隠して生きている。それは生存戦略なのだろう。誰も傷つけず、誰からも傷つけられないための知恵。だが、その真実を知ってしまう僕にとって、世界は欺瞞に満ちた劇場でしかなかった。


「ありがとう、伊吹君。でも、今日は図書室で調べたいことがあるんだ」


 僕は静かに、そしてできるだけ波風を立てないように断った。蓮の顔に、隠しきれない安堵の表情が一瞬浮かぶ。僕の能力は、そんな刹那の感情さえ見逃さない。


(よっしゃ! 断ってくれた。これで母さんにも言い訳できる。『誘ったんだけど、断られちゃってさ』って。さて、早くあいつらと合流しないと)


「そっか、残念。じゃあまた今度な!」


 蓮は完璧な笑顔を崩さないまま、軽やかに手を振って友人の輪の中へ消えていった。彼の背中を見送りながら、僕は深く息を吐く。肺に溜まった澱んだ空気を全て吐き出すような、長いため息だった。


 図書室へ向かう廊下は、昼休みの喧騒から切り離されたように静かだった。古いリノリウムの床が、僕の足音をかすかに反射する。この静寂だけが、僕にとっての救いだった。ここでは、人の思考のノイズはほとんどない。


 曲がり角を過ぎたところで、向こうから一人の少女が歩いてくるのが見えた。見たことのない顔だった。腰まで伸びた黒髪が、歩くたびに絹糸のように揺れている。制服は僕と同じ高校のものだが、着こなしがどこか初々しい。転校生だろうか。


 彼女とすれ違う、その瞬間。

 僕は世界がほんの一瞬、停止したかのような錯覚に陥った。


「あ、すみません」


 僕の読んでいた文庫本と、彼女の持っていた数冊のノートが軽く接触した。彼女はぱっと顔を上げて、そう言った。

 そして、僕の頭の中に響いた彼女の心の声は――


(あ、すみません)


 ――


 僕は驚愕に目を見開いた。いつも聞こえてくる心の声は、言葉そのものではなく、感情や意図が混じった生々しい情報だ。しかし、彼女の「声」は、彼女が発した音声と寸分違わぬ、澄み切った文字列として僕の脳に届いたのだ。


「……いえ、こちらこそ」


 僕はかろうじてそう返事をしたが、その場に釘付けになっていた。少女は僕に軽く会釈すると、再び歩き出そうとした。しかし、僕の視線に気づいたのか、不思議そうな顔で立ち止まる。


 彼女の大きな瞳が、僕をまっすぐに見つめていた。その瞳は、まるで磨き上げられた黒曜石のようでありながら、深い森の泉のような静けさと透明感をたたえていた。そこに、僕が人間に対していつも感じてしまうような、隠された意図や計算高い光は一切なかった。


「あの……何か?」

(あの……何か?)


 まただ。言葉と心が、完全にシンクロしている。二重写しになった完璧な楽譜のように、一分のズレもない。


 僕は立ち尽くし、ただ彼女を見つめていた。僕の世界を覆っていた、あの分厚く冷たい透明な檻に、初めて小さな、本当に小さな亀裂が入ったような気がした。


「君は……」


 声が、かすかに震えた。彼女は僕の問いを待たずに、ふわりと微笑んだ。その笑顔もまた、一点の曇りもなかった。


「私、今日からこのクラスに転入してきた、朝月あさつきあかりです。よろしくお願いします」

(私、今日からこのクラスに転入してきた、朝月灯です。よろしくお願いします)


 同じだ。一言一句、完全に同じだった。


 僕は、生まれて初めて、心と言葉が一致した人間に、この世界でたった一人、出逢った。出逢ってしまったのだ。


 朝月灯。


 その名前は、僕の灰色一色の世界に差し込んだ、淡く、しかし確かな光のように思えた。

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