水に取られた ―六月の贄(にえ)―
大西さん
プロローグ
第1話 水の予兆
金曜日の夜、午後十時過ぎ。
オフィスビルの十二階にある水縁書房の編集部は、まだ煌々と明かりが灯っていた。窓の外には東京の夜景が広がっているが、私にそれを楽しむ余裕はない。
赤ペンを握る手が、微かに震えていた。
目の前に積まれた原稿の山。今月刊行予定の新人作家の小説、三回目の校正。それなのに、まだ見落としがある。いや、見落としているのか、それとも文字が滲んで見えるのか。
最近、妙なことが起きる。
原稿の文字が、時々水で濡れたように滲んで見える。特に「水」という漢字を見ると、その文字だけがじわりと紙に染み込んでいくような錯覚を覚える。まるで、文字自体が液体に戻ろうとしているような——
疲れているのだろう。
そう自分に言い聞かせて、目を擦った。
ふと、デスクの上のペットボトルに目が留まった。半分ほど残った水が、蛍光灯の光を受けて揺れている。見つめていると、水面に別の顔が映った。私ではない、誰かの顔。若い女性の、どこか悲しげな顔——
瞬きをすると、また私の顔に戻っている。
「相沢、まだいたのか」
振り返ると、文芸編集部の副編集長、黒田が立っていた。五十代前半、いつも疲れた顔をしている男。今日は特に機嫌が悪そうだった。
「すみません、もう少しで終わります」
「締切は月曜だぞ。土日も出社するつもりか?」
「いえ、日曜は...」
登山サークルの予定があることは言わなかった。黒田は「最近の新人は仕事への情熱が足りない」が口癖の人間だ。プライベートの話などしたら、また説教が始まる。
「とにかく、ミスは許されないからな」
黒田の声が、妙に遠くに聞こえた。まるで、水中から聞こえる声のように。ゴボゴボと泡立つような残響が、かすかに混じっている気がする。
「新人のくせに、もう二回も誤植を見逃してる」
胸が締め付けられた。
あの時のことを思い出す。
二週間前、私が校正した本が刊行された。文芸評論集で、著者は大学時代の恩師だった。その中に、致命的な誤植があった。
「水」が「氷」になっていた箇所が、三ヶ所。
たったそれだけ。でも、文脈上では大きな違いだった。「水の表象」が「氷の表象」では、意味が全く変わってしまう。
恩師は優しく「気にしないで」と言ってくれたが、私は自分が許せなかった。
なぜ見逃したのか。
いや、本当に見逃したのか。
校正時のメモを見返すと、確かに「水」と書いてある。なのに、印刷された本では「氷」になっていた。
まるで、水が凍ったかのように。
いや、もっと奇妙なことがある。初校、再校のゲラには確かに「水」と印刷されていた。それが最終的な本では「氷」に——まるで、印刷の過程で文字自体が変質したかのように。
「はい、気をつけます」
「頼むぞ。君の卒論は『戦後文学における水の表象』だったんだろう?水という字くらい、見逃すなよ」
黒田は皮肉を込めて言い、去っていった。
その足音が遠ざかるにつれて、別の音が聞こえてきた。かすかな、水の滴る音。天井から?いや、もっと近い。原稿から——?
一人になったオフィスで、私は原稿に向き直った。
また、文字が滲んで見える。
『山の中で、男は水に魅入られた』
原稿の一節が、ぼやけていく。水という字が、まるで生きているかのように紙の上で揺らめいている。インクが溶けて、ゆっくりと流れ始めているような——
瞬きをすると、文字は元に戻っていた。
本当に疲れているのだろう。
でも、ふと思った。
もしかしたら、これは警告なのかもしれない。
水からの。
私の卒論のことを思い出す。
『戦後文学における水の表象―泉鏡花から現代まで―』
なぜ、このテーマを選んだのか。
きっかけは、祖母の死だった。
大学三年の夏、祖母が亡くなった。山間の集落で一人暮らしをしていた祖母。死因は老衰ということになっているが、発見時の状況が奇妙だった。
祖母は井戸の傍で倒れていた。
真夏なのに、全身びしょ濡れで。
まるで、水から上がったばかりのように。
そして、発見した近所の人の証言によれば、祖母の周りの地面だけが濡れていた。半径二メートルほどの円形に。まるで、そこだけ雨が降ったかのように。でも、その日は快晴だった。
遺品整理で見つけた古いノート。そこに書かれていた言葉が、私の人生を変えた。
『水は全てを記憶する。取った者も、取られた者も』
意味は分からなかった。でも、その言葉が頭から離れなかった。
そして、文学の中の水を追い始めた。
泉鏡花の『高野聖』では、水は変身と浄化の場所。
三島由紀夫の『潮騒』では、生命力の象徴。
川端康成の『雪国』では、清純と死の境界。
でも、私が最も惹かれたのは、名もない作家たちが書いた奇譚だった。
水に消えた人々の話。
水から生まれた者たちの話。
水と人の境界が曖昧になる話。
それらは皆、どこか真実を含んでいるような気がした。
スマートフォンが震えた。着信音ではなく、振動だけ。見ると、画面に水滴がついている。さっき飲み物もこぼしていないのに。
拭き取ってロックを解除すると、登山サークルのグループLINEだった。
『明日の天気、バッチリ晴れみたい!』
結衣ちゃんのメッセージに、可愛い太陽のスタンプが付いている。でも、なぜか画面がちらつく。まるで、水中から見ているような歪み。
『装備の最終確認お願いします。朝は五時集合です』
香織さんらしい、きっちりとした連絡。
私も返信した。
『了解です。楽しみにしてます』
本心だった。
この息苦しいオフィスから離れて、山の空気を吸いたい。水のように澄んだ空気を。
水。
また、その言葉が頭に浮かんだ。
最近、なぜこんなに水のことばかり考えるのだろう。
ふと、耳を澄ますと、オフィスのあちこちから水音が聞こえてきた。
エアコンから落ちる結露の音。
給湯室の蛇口から漏れる一滴。
誰かが飲み残したペットボトルの中で揺れる水。
普段は気にも留めない音たちが、今夜はやけに大きく聞こえる。まるで、水たちが示し合わせて合唱しているような——
原稿を見直すと、また「水」の字が滲んでいる。
いや、滲んでいるのではない。
文字の中を、何かが流れている。
透明な何かが、文字の画数に沿って流れている。
まるで、文字が川になったかのように。
そして、その流れの中に、また顔が見えた。さっきペットボトルに映った顔と同じ、若い女性の顔。今度はもっとはっきりと。まるで、私に何かを伝えようとしているような——
目を擦って、もう一度見る。
普通の文字だった。
幻覚を見るほど疲れているのか。
それとも...
急いで原稿をまとめ、デスクを片付けた。今夜はもう無理だ。これ以上ここにいると、おかしくなりそうだ。
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