ゴブリンと一緒
しくれ
第1話 お父さんがいなくなった
ひだまりが微睡むように穏やかな街だった。石畳の路地には子どもたちの歓声が転がり、焼き立てパンの香りがふわりと漂い、空腹を誘う。そんな街の一角に、ロニにとって世界で一番大好きな場所があった。
父のミロスが営む、小さなモンスターペットショップ。
店内には、色とりどりの鱗を持つスライムがぷるぷると震え、翼を持つフェレットが天井近くをちょろちょろと飛び回り、地面を這う地虫(グラウンド・ワーム)が土を盛り上げていた。珍しいものばかりだったが、どれも人に害を与えない、小さなモンスター専門の店だった。
父子家庭だったが、ロニは能天気なほど明るく、いつも笑っていた。くるくると変わるその表情は、店の看板代わりに置かれた、太陽に当たると色が変わる不思議な石のようだった。
父のミロスは、そんな娘を優しく見守る、背の高く細身の男だ。少し頼りないところもあったが、モンスターたちにも、お客さんにも、そして何よりロニには、いつも限りなく優しかった。
そして、店にはもう一人……いや、もう一匹、大切な家族がいた。
ゴブリンのパウだ。人間の言葉は話せないけれど、パウはとても賢かった。店の掃除を手伝い、ロニと一緒に遊び、父が困っていると察してはそっと道具を渡した。
そのつぶらな瞳の奥には、深い知性と愛情が宿っているのが、ロニにはよく分かった。パウとロニは、言葉を交わさずとも、互いの気配や仕草だけで言いたいことを理解し合えた。
朝は父とパウと一緒にパンを食べ、昼は店の軒先でパウと日向ぼっこをする。夜は父に物語を読んでもらい、パウはロニのベッドの下で、お気に入りの古い布を抱えて眠りにつく。
貧しいわけではなかったが、裕福でもない。それでも、彼らの毎日は優しさと笑顔に満ちていた。ロニは、この幸せがずっと続くのだと、疑いもしなかった。
あの日、重いブーツの音が石畳を叩き、幸せな日常が音を立てて崩れ始めた。
「ミロス・フェルディ。衛兵隊だ。直ちに来い」
店のドアが乱暴に開け放たれ、鎧に身を包んだ男たちが踏み込んできた。ロニは恐怖で体が固まった。父は一瞬目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻したように見えた。
「あの…何か間違いでは?」
父が尋ねる声は震えていた。しかし、衛兵隊は聞く耳を持たなかった。
「騒ぐな。詳しい話は本部で聞く」
そう言い放つと、あっという間に父の手首に縄をかけ、店から連れ去ってしまった。
「お父さん! 行かないで!」
ロニの叫び声は、閉められたドアに虚しく響いた。パウがロニの足にすがりつき、悲しげな声を上げる。ロニは震える体でパウを抱きしめ、ただ泣いた。
数日後、父は帰ってきた。
『証拠不十分で釈放された』と、衛兵隊の男はぶっきらぼうに言い放った。だが、帰ってきた父は、もう以前の父ではなかった。背中は丸まり、顔はやつれて土気色になり、瞳には光がなかった。ロニが駆け寄って抱きついても、父はただ力なく抱きしめ返すだけで、いつものように笑いかけてくれなかった。
父が『何か悪いこと』をしたらしい、という噂は、あっという間に街中に広まった。『モンスターを違法に取り扱っていたらしい』、『街に害をなす魔物を匿っていたとか』……謂れのない話が尾ひれをつけ、飛び交った。
ただ父が衛兵隊に連行された、という事実だけで、人々は彼らを避けるようになった。店の前を通る人は足早になり、暖簾をくぐる客はいなくなった。
父は店を開けていても、一日中誰とも言葉を交わさない日が続いた。ただ店の奥に座り込み、何もする気力を失ったようだった。
そして、売上はゼロになり、貯蓄は底をつき始めた。食卓に並ぶものは質素になり、ロニもパウもその変化に気づいていた。パウは心配そうに父を見つめ、時折父の膝に顔を擦り付けたが、父はそれに気づいているのかいないのか、反応を示さなかった。
父の痩せ細っていく姿を見るのは、ロニにとって何よりも辛かった。
あの明るかった父が、こんなにも打ちひしがれている。悪いことを何もしていないのに、なぜこんな目に遭うのだろう。ロニは父のために何かしたいと願ったが、幼い自分には何もできなかった。
そして、ある朝。
ロニはいつものように目を覚ました。パウがベッドの下で丸くなっている。しかし、父の部屋からは物音がしなかった。
「お父さん、起きてー?」
ロニが父の部屋のドアを開ける。ベッドは綺麗に整えられていたが、そこには父の姿はなかった。机の上に、折りたたまれた小さな紙片が置かれているのが目に入った。
ロニは駆け寄り、震える手で紙を開いた。そこには父の不器用な字で、たった一言だけ書かれていた。
『探さないでください』
その文字を見た瞬間、ロニの世界は真っ暗になった。
父がいなくなった。また、たった一人ぼっちになったのだ。胃の底からこみ上げる悲しみと絶望に、ロニは声にならない叫びを上げ、その場に泣き崩れた。
パウが、ぴょこりとベッドの下から顔を出した。
何が起きたのかを察したように、パウはロニのすぐそばに駆け寄り、小さな体をロニにぴたりとくっつけた。
ロニはパウを強く抱きしめ、その柔らかい体に顔を埋めて、ただただ泣きじゃくった。パウは、何も言わずに、ただ静かにロニの背中を丸い手で優しく撫でてくれた。その温もりだけが、崩れ落ちそうなロニを、かろうじて繋ぎ止めているような気がした。
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