空手少女と引きこもり黒魔術少女
猫森ぽろん
第1話 凛と咲く花と、薄闇の姫君
夜の帳が降りる前の、境界の時間。
ひやりとした道場の木の床に、凛とした少女の気合いが響き渡った。
「――押忍!」
短く、しかし芯の通った声と共に、繰り出された正拳突きが鋭く空気を切り裂く。汗で湿った黒髪が、高く結い上げたポニーテールで力強く跳ねた。
彼女の名は、高坂葵(こうさか あおい)。この「実戦流 高坂道場」の一人娘であり、その身に宿すは、岩をも砕く空手の技と、鋼のような意志。そして、クラスの平均点を大きく下回る、壊滅的な学業成績だった。
稽古着を脱ぎ、制服に着替えた彼女は、もはや道場での覇気を失った、ごく普通の高校一年生である。特に、数学の授業で教師が語る二次関数に至っては、異国の呪文にしか聞こえなかった。空手の型ならいくらでも覚えられるのに、と葵は思う。
「守りたいものを、守れるくらいの強さが欲しい」
それが、彼女が空手と向き合う、唯一にして絶対の理由。その「守りたいもの」が、今や道場の離れに引きこもる、一人の美しい魔女になってしまっていることには、まだ気づかないフリをしていた。
***
夕暮れの光が道場に差し込む頃、葵の母である佳代が、厨房から顔を出した。
「葵、終わったならお願いね。リリーちゃんのご飯、持って行ってあげて」
「……はい、母さん」
差し出されたお盆の上には、湯気の立つ豚カツ定食。それが今日の葵の、最後の「稽古」だった。
春に突然、この家にやってきた居候。リリー・ヴァレスク。
とてつもなく美しく、そして、とんでもなく手の掛かる、薄闇の姫君。
葵は、お盆を手に、住居と繋がった短い渡り廊下を歩き、離れの引き戸の前に立った。これが、彼女の日常。彼女だけの、騎士の務め。
「リリー、ご飯持ってきたよ」
ノックをして、返事を待たずに戸を開ける。約束事だった。返事を待てば、リリーは十中八九「いらなーい」と答えるからだ。
部屋の中は、いつも通りだった。遮光カーテンが閉め切られ、部屋の隅に鎮座する大型モニターの光だけが、散らかった部屋の中をぼんやりと照らし出している。
そして、その光の中心に、姫君はいた。
ゲーミングチェアに小さな身体を埋め、コントローラーを握りしめ、画面に没頭している。
よれよれの、大きすぎるTシャツの襟元は大きく開き、華奢な鎖骨と、透けるように白い肩が惜しげもなく晒されていた。ボトムスは、子供用かと思うほど丈の短いショートパンツで、そこから伸びるしなやかな足が、無防備に投げ出されている。
モニターの光が、彼女の顔を照らし出す。
寝癖のついたままの、艶やかな栗色のボブヘアー。その隙間から覗く、長いまつ毛に縁取られた大きなヘーゼル色の瞳。白すぎるほど白い、愛らしい頬。
神が気まぐれに作り上げた最高傑作。
葵は、その光景を見るたびに、呼吸の仕方を忘れそうになる。
「ん……あおい?」
ようやく葵の存在に気づいたのか、リリーはヘッドセットをずらし、気だるそうに振り返った。その声は、少しハスキーで、舌足らずで、聞く者の庇護欲を無条件に掻き立てる。
「ごはん? そこ、置いといて……。いま、ボス戦だからー、あとでたべる」
「もう、またゲームばっかりして。ちゃんと今食べなさい」
「えー……やだ。葵が、食べさせてくれるなら、食べるけど?」
そう言って、リリーはこてんと首を傾げた。その仕草一つで、葵の決意など、豆腐の角に頭をぶつけるより脆く崩れ去る。
葵は、ため息を一つ。しかし、その表情は諦めというより、慈愛に満ちていた。
ローテーブルの上を片付け、お盆を置く。散らかったスナック菓子の袋や、エナジードリンクの空き缶。埃の積もったフィギュア。
(ああ、もう、本当にだらしない)
葵は、心の中で呟く。
(だらしないのに)
モニターの光を浴びて、ゲームに夢中になるその横顔。時折、悔しそうに小さく尖らせる唇。勝った瞬間に見せる、子供のように無邪気な笑顔。
その一つ一つが、葵の胸を、きゅっと締め付ける。
(だらしないのに、なんで、こんなに可愛いんだろう)
凛とした空手美少女の心は、今日もまた、この薄闇に咲く美しい花に、いとも簡単に絆されてしまうのだった。
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