名前を書かずにおくからね
伊藤沃雪
とある夏
我が家には、
じんじんと肌を焼くような夏日が射している。窓を隔てた向こう側で、幾度も蝉が鳴いていた。
「あーっ! 私のゼリー、誰が食べたの⁉ お兄ちゃんでしょーっ!」
私は冷蔵庫の内へと屈みつつ、リビング中に響くように大声をあげる。キッチンとリビングがつながる間取りとなっている家の中で、私のいるキッチンの奥からちょうど真反対のテレビの前を陣取る兄が、ええー? と間延びした返事をした。
「何言ってんだよ、名前書いてないゼリーが誰のかなんて、俺は知りませ〜ん」
「もーっ‼」
言うだけ言って素知らぬ顔でゲーム画面に向き直る兄へと、行き場のない怒りをぶつける。
あのコーヒーゼリーは、部活帰りに食べることを楽しみに取っておいたのだ。一日くらい手を出さないでいてほしい。とはいえ、兄がコーヒーゼリーを好きと知っていて名前を書き忘れてしまっていた、私の落ち度だ。
当の兄はゲームコントローラーを握ったまま、上半身だけ捻ってこちらを振り向く。不満に頬を膨らませる私をからかい、つられて、父と母も笑った。
キッチンの奥でひっそりと、どっしりと置かれている薄青の冷蔵庫は、私たち家族にとってもう一つの社交場だった。
直接声をかけあうわけではないけど、ここには無言の意思が介在している。
敢えて名前を書かずにお菓子を入れておき、したり顔の兄に密かに満足したり。唐突に理由もなく『お父さんへ』と付箋の貼られた缶ビールが入っていたり……これは大概が母のしわざだ。
互いを心のどこかで思いやっているから、冷蔵庫の中はいつでも賑やかで、とても安心する。扉を開けた瞬間の、淡くてあたたかな光が好きだ。おかえりなさい、と出迎えてくれている気がした。
今年の夏はいっそう暑さが厳しく、蝉が鳴かない。
私は共同霊園内に建てられたお墓の前で、じゃり、と数珠を摺り合わせた。
「お疲れ様でした、お兄ちゃん」
白く、もろくなった兄が骨壺に収まっている。
男性二人がかりで持ち上げられ、墓石の下へと納骨されるのを眺めながら、こっそりと呟いた。
兄は大往生というほどでもなかったけれど、充分に生きて眠ることができたので、私も朗らかな気持ちで立っていられた。父と母、それから祖父祖母たちと同じ場所に入ることができたのは、何よりだと思う。
これで、我が家のうちで、この世に存在しているのは私だけということになった。
分かってはいても、少しさみしい。
それに私には夫や子供たちがいるので、いずれ兄たちとは違うお墓へ入る。
バッグから取り出した缶ビールのプルタブを開け、墓石の前に置く。いつか母がしていたように、缶には付箋がついて、『お兄ちゃんへ』と書かれている。
その隣に、兄が好きなコーヒーゼリーを置く。零れないように包装されているものだ。付箋は敢えてつけていない。
「名前がなければ、誰が食べてもいいんだものね……」
誰へともなくつぶやくと、ほろほろと涙が零れてくる。
きっと誰かに横取りされる前にと、兄は慌ててゼリーの蓋を開けているだろう。
冷蔵庫の中にあったもう一つの我が家が、場所を移して続いていく。
亡くなった兄や両親に届くかどうかは分からない。それでも、あの愛すべき日々がここにあると信じられる。
少なくとも、私の中では。
見晴らしの良い高所に備えられた霊園には、からっと涼やかな風が吹いて、私の肌をやさしく撫でていった。
名前を書かずにおくからね 伊藤沃雪 @yousetsu
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