第3章:従業員ゼロの魔王城

魔王城の玉座の間で、ハジメウスは満足げに腕を組んでいた。グルムは箒を手に、慣れない手つきで床の瓦礫を掃き寄せている。プルルは、半透明の体を揺らしながら、きらめく金貨を数えることに没頭していた。彼らの動きはまだぎこちなく、効率的とは言えなかったが、それでも「仕事」をしているという事実が、ハジメウスの心を温かくした。かつての職場では、こんなにも純粋に仕事に取り組む姿を見ることは稀だった。皆、顔に疲労と諦めを張り付け、与えられたタスクをただこなしているだけだった。

「さてと……」

ハジメウスは玉座から立ち上がった。朝礼で彼らに与えた指示は、あくまで「今日の定時まで」の簡単なタスクだ。しかし、この広大な魔王城を「ホワイト企業」にするためには、もっと根本的な改革が必要だった。そのためには、まず現状を正確に把握しなければならない。

「グルム、プルル。俺は少し城内を見て回る。何か問題があれば、すぐに報告しろ」

「は、はい!魔王様、お気をつけて!」 「であります!金貨は、ここから一歩も動かさないであります!」

グルムは箒を止め、プルルは金貨から目を離さずに返事をした。彼らの返答に、ハジメウスは小さく笑みを浮かべた。少なくとも、彼らは素直だ。それだけでも、かつての部下たちよりは遥かにマシだった。

玉座の間を出て、ハジメウスは城の奥へと足を踏み入れた。廊下は薄暗く、ひんやりとした空気が肌を刺す。壁には苔が生え、天井からは不気味な水滴が規則的に落ちている。足元には、何かの獣の骨や、朽ちた木片が散乱していた。まるで、何十年も、いや、何百年も人の手が入っていないかのような荒廃ぶりだ。

「従業員ゼロ……か。いや、グルムとプルルがいたから、厳密には違うが、実質的にはゼロだな」

ハジメウスは呟いた。彼らがいたのは、玉座の間に近い、比較的「マシ」な場所だったのだろう。しかし、一歩奥へ進むごとに、荒廃の度合いは増していく。

彼はまず、城の居住区へと向かった。かつては魔族たちが暮らしていたであろう部屋々は、どれもこれも荒れ放題だった。ベッドは朽ち、テーブルはひっくり返り、窓ガラスは割れて風が吹き込んでいる。埃とカビの匂いが充満し、とても人が住めるような状態ではない。

「これじゃあ、社員寮なんて夢のまた夢だな……」

ハジメウスはため息をついた。かつての会社では、社員寮は福利厚生の一つとして機能していた。しかし、ここは住む場所すらままならない。これでは、新たな従業員を募集しても、誰も来てくれないだろう。

次に、彼は厨房へと向かった。魔王城の地下深くにある厨房は、さらにひどい状態だった。巨大な竈は煤で真っ黒になり、調理器具は錆びつき、床には得体の知れない液体がこびりついている。食材庫は空っぽで、唯一残っていたのは、カビだらけの干し肉が数切れと、異臭を放つ謎の液体が入った樽だけだった。

「……これじゃあ、社員食堂なんて無理だな。栄養失調で倒れるぞ」

ハジメウスは頭を抱えた。食は、働く上での基本だ。まともな食事が提供できなければ、従業員の士気は上がらない。ましてや、残業ゼロを目指すなら、定時で帰って美味しいものを食べられるというインセンティブは非常に重要だ。

さらに奥へ進むと、彼は巨大な地下牢を発見した。鉄格子は錆びつき、中には無数の拷問器具が転がっている。しかし、牢の中は空っぽで、囚人の気配は一切ない。

「ブラック企業にも、こういう『牢獄』みたいな部署はあったな……。でも、ここは物理的な牢獄か」

ハジメウスは苦笑した。この城は、かつての魔王が、いかに非効率で、いかに無駄なことに力を注いでいたかを物語っていた。拷問器具を揃える金があるなら、もっと城の修繕に回すべきだっただろうに。

城の最深部まで探索を終え、ハジメウスは再び玉座の間へと戻ってきた。グルムは相変わらず瓦礫を掃き続け、プルルは金貨を数え続けている。彼らの小さな努力が、この広大な廃墟の中で、唯一の希望の光のように見えた。

「報告だ、魔王様」

ハジメウスが玉座に腰を下ろすと、グルムが駆け寄ってきた。その手には、先ほどまで掃いていた瓦礫の中から見つけ出したのであろう、小さな石版が握られている。

「これは、魔王城の『魔力供給炉』の設計図でございます。どうやら、もう何十年も稼働していないようで……」

グルムは震える声で説明した。石版には、複雑な魔法陣と、無数の配管のようなものが描かれていた。魔力供給炉。それは、魔王城の動力源であり、魔界全体の魔力バランスを保つための重要な施設だ。それが停止しているということは、この城が完全に機能不停止に陥っていることを意味していた。

「魔力供給炉……。それが動いていないと、どうなるんだ?」

ハジメウスが尋ねると、プルルが金貨の山から顔を上げた。

「であります!魔力が枯渇すると、魔界の生態系が崩壊するであります!モンスターたちは弱体化し、魔物は凶暴化し、最終的には、この魔界そのものが消滅するであります!」

プルルの言葉に、ハジメウスは背筋が凍る思いがした。単なる城の荒廃だけではなかった。この魔王城の機能不全は、魔界全体の存亡に関わる問題だったのだ。

「なぜ、誰もこれを直そうとしなかったんだ?」

ハジメウスの問いに、グルムとプルルは顔を見合わせた。

「そ、それは……誰もやりたがらなかったであります……。危険で、面倒で、しかも残業になるからであります……」

プルルが震える声で答えた。ハジメウスは頭を抱えた。残業を嫌がるのは理解できる。しかし、それは自分たちの住む世界が滅びるかもしれないという状況でも同じなのか。

「なるほどな……。これが、真の『ブラック企業』の末路か」

ハジメウスは深く息を吐いた。かつての会社では、残業を嫌がる社員はいたが、会社の存続に関わるような重要なタスクを放置する者はいなかった。しかし、この魔界では、それが当たり前のように行われていたのだ。

「よし、分かった。グルム、プルル。お前たちに新たな任務を与える」

ハジメウスは、二匹のモンスターを真っ直ぐに見つめた。彼の目には、かつてのサラリーマンの疲弊した光はもうない。そこには、困難に立ち向かう、改革者の強い意志が宿っていた。

「まず、グルム。お前は、この魔力供給炉への道を確保しろ。瓦礫を撤去し、安全な通路を確保するのだ。プルル、お前は、この設計図を解読しろ。そして、魔力供給炉を稼働させるために必要な物資と、その予算を洗い出せ」

「で、でありますか……!?」

プルルは驚きで体を大きく揺らした。グルムもまた、顔を青ざめさせている。

「これは、魔王城の、いや、魔界全体の未来に関わる重要な任務だ。ただし、これも定時内だ。残業は許さない。もし定時までに終わらなければ、それは俺のマネジメント不足だ。だから、効率的に、そして協力して働くのだ」

ハジメウスは、彼らの不安を払拭するように、力強く言い放った。彼の言葉に、グルムとプルルは、再び顔を見合わせた。そして、ゆっくりと、しかし確実に、彼らの目に光が宿り始めた。

「わ、わかりました!わたくしめ、頑張ります!」 「であります!金貨のためであります!」

二匹のモンスターは、それぞれのモチベーションで新たな任務へと向かっていった。ハジメウスは、彼らの背中を見送りながら、静かに考えに耽った。魔力供給炉の再稼働。それは、この魔王城を「ホワイト企業」にするための、最初の、そして最大の難関となるだろう。

しかし、彼は諦めなかった。かつて、ブラック企業で死んだ彼だからこそ、この魔界に「残業ゼロ」の理想郷を築き上げることができるはずだ。そのためには、もっと多くの「従業員」が必要になるだろう。

「まずは、この城の機能を回復させること。それができれば、きっと新たな仲間も集まるはずだ」

ハジメウスは、魔力供給炉の設計図が描かれた石版を手に取った。その冷たい感触が、彼の決意を新たにした。魔王ハジメウス・ザ・リフォームの、真の改革が、今、始まったばかりだった。


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残業ゼロ魔王 @AZY_aurora

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