第9話:沈黙を破る声

 朝霧が、村の空気を冷たく沈めていた。

 俺は、村の中心にある井戸の縁に腰掛け、剣の柄に手を置いたまま空を見上げていた。


 そのときだった。


「……あの、レオンさん」


 不意に呼びかけられ、俺は顔を向けた。

 そこにいたのは、ティナという少女――よく見かけるが、話すのは初めてに近い。


 その手には、白い紙が握られていた。

 ティナは紙を差し出した手を引っ込めかけた。


「……レオンさんに、こんなの渡すの、怖かった。でも……」


 彼女は数度、唇をかみしめた。

 言葉を選びあぐねるような、迷いと決意が交差していた。


 その瞳には、ただの恐れ以上のもの――【疑念】がちらついている。

 それが彼女自身のものでないことを、俺は悟った。


「これ……誰かが、私の部屋の扉の隙間に……」


 彼女の声は震えていた。

 紙には、ただ一行――


『私はお前が魔王を殺したのを知っている。見ているぞ』


 その文字を見た瞬間、指先に力がこもった。

 ただの警告ではない。脅しだ。

 誰かが、俺を揺さぶろうとしている。


「俺のことを……」


 俺は紙を取り、まじまじと見つめた。


 だが、その筆跡に見覚えがあった。

 昨日の夜、井戸から出たときに見つけた紙と同じだ。

 冷たい風が吹き抜け、俺の背にぞわりと悪寒が走る。


 意識の底に、ひりつくような声が滲んできた。


(……感じるか、レオン。何かが這い出してきている。この村には、まだ知られていない【目】がいるぞ)


 リーヴァ=ノクスの声が、思考の奥深く、言葉ではなく【感覚】として流れ込んできた。

 声ではない。

 意識の内側に染み込んでくるような、リーヴァとの【思考の交信】だ。


(……この紙の送り主の目的は何だ?)

(レオン……これは【始まり】だ。相手の狙いはまだ見えん。だが、確かに仕掛けは動き始めている)


 俺は、再び紙を握りしめた。


(だれが、俺のことを……)


 魔王を討ったのは、ほんの数日前のこと。

 ティナが不安そうに俺を見上げる。


「誰にも言ってません。ただ、怖くて……」


 俺はしばらくその場に立ち尽くした。

 村を吹き抜ける風が、どこか重く、冷たい。

 その中に、ただの風ではない――何かの気配が混じっている気がした。


「……ありがとう。教えてくれてよかった」


 そう返すと、ティナは小さく頷き、そそくさと立ち去った。


 レオンは静かに息を吐き、左腰の剣にそっと手を添える。

 意識を刃の奥に沈めると、闇の底に微かな【気配】が広がっていく。


(……レオン。あの紙の主は、お前だけでなく、村そのものを揺さぶろうとしている)


 鈍く冷たい声が、脳裏に染み渡る。

 剣の奥――リーヴァの意識がゆるやかに浮かび上がってきた。


(目的は?)


 レオンは周囲の静寂に耳を澄ませながら問う。

 焚き火の音。

 遠くで牛が啼く声。

だがその裏に、目に見えぬ【ざわめき】がある気がした。


(選別だろう。誰が【壊す】側に立ち、誰が【守る】側に立つのか。その線引きを見極めようとしている)


 村人たちの言葉、視線、沈黙――すべてが試されているように思えた。

 ティナのあの怯え、老人たちの口をつぐむ気配。

 それはただの恐れではない。何かが始まりつつある。


(記録するやつか? 村でそれを……?)


 リーヴァが一瞬、沈黙する。

 刃の奥が微かに震え、暗い波紋が広がった。


(いや――それとは別の【目】がいる。私にも掴めていない)


 その言葉に、レオンの胸が不意にざわついた。

 冥府に座す神ですら見定められぬ【何か】が、この村に潜んでいるというのか。


 焚き火の火花が一つ、空に跳ねた。

 闇の中に、何者かがこちらを見ている――そんな錯覚が、レオンの背に重くのしかかった。


 残された俺は、紙片を剣の鞘に滑らせ、もう一度辺りを見渡す。

 まるで、誰かがこちらを見ているような、そんな感覚。


 次の瞬間、村の空気が凍ったかのように、音が消える。

 黒衣の男が踏みしめる土の音だけが、やけに鮮明に耳に届いた。

 胸に刻まれた神印が、微かに発光しているように見える。

 それは、どんな光よりも冷たい光だった。


(なんだ……あいつは……)


 レオンはただ、その異様な印に言葉を失っていた。

 だが、剣の中からリーヴァの声が沈んで響く。


(あの印……間違いない。【神の執行者】だ。久しぶりに見るな)


 リーヴァ=ノクスの声が、剣の奥から沈み込むように漏れた。


(かつて神が選びし代行者。選別という名の殺戮者……その意志は今も続いているか)

(敵か?)

(神の意思を代行し、選ばれなかった者を【無】に還す役目を担っている……お前の敵だ)


 影がこちらを見据えたまま、静かに立ち止まる。


「レオン・アーデン。冥府の力を持ち帰った者よ」


 声は低く、金属が擦れるようだった。


「貴様は、再び世界に干渉した。神の祝福を拒み、禁忌の意志を示した」

「だったら、何だ。祝福なき者に、生きる価値はないとでも言うのか?」

「神の御前において、選ばれぬ者は、存在する理由を問われる」


 言葉は冷酷だったが、そこに怒りも憐れみもなかった。

 ただ、神の規範として語っているに過ぎない。


 俺は剣を抜いた。

 その刃が光を吸い、闇を纏うように変わっていく。


(……まだ早い。だが、逃れる術もない)


 リーヴァの声が、緊張を孕んで囁く。


 構える。

 敵は一人。

 だが、油断すれば命を落とす。


「なら、俺は――この命をもって、拒絶を証明してやる」


 空気が一閃。

 黒衣の影が動き、俺も踏み込む。

 刃が交差した瞬間、火花が散り、空間が軋むような音が響いた――。

 それは、沈黙を破る戦いの幕開けだった。

 これはただの戦いではない。

 存在を証明する、俺自身への審判だ。


(どういうことだ? 俺以外を気にしている?)


 だが、俺は気づいていた。

 この男の視線は、戦いながらも俺だけを見ていたわけではなかった。

 何か――あるいは誰かを、探しているようだ。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


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