第8話
「レイ!死ぬな!死ぬな!」
震える指が杖をかすめるほどの衝撃で、視界が暗く狭まった。
耳鳴りを切り裂いて、イズマの叫び声だけが世界に響く。
その声に込められた生々しい絶望に、レイ・フロストは凍りついた。
痛みではない。ただ、どうしようもなく混乱していた。
彼女は血を垂らす顎を持ち上げ、かすれた声を絞り出す。
「……なんで……叫んでるのよ……バカ」
言葉は一つひとつ苦労して紡がれ、どこかいつもの辛辣な皮肉を感じさせた。
「今まで……隠してたくせに……今さら……そんな顔して……」
レイの身体が前に傾ぐ。
しかし、その瞬間、ついに指が杖の柄をつかんだ。
ひび割れたペンダントの宝石が最後の光を脈動させ、彼女は小さく呟く。
「――絶対零度」
それは、自らを癒すか、氷の彫刻に変えるか、二つに一つの呪文だった。
「仲間だろ!だから死ぬな!」
イズマの叫びが、呪文の詠唱に割り込んだ。
その言葉"仲間"は、どんな刃よりも深くレイに突き刺さる。
杖を握る手が痙攣し、全長に白霜が降り積もる。
指の関節は真っ白に変色し、歯を食いしばったまま彼女は呟いた。
「……そんな……笑えること……今言わないで……」
だが、呪文のパラメータが微かに変化し、
本来致死の冷気を放つ術式は、氷河の停滞場へと変貌した。
それは忘却の呪いではない。時間を稼ぐ魔法だった。
傷口に氷の結晶が広がり、腐敗を抑える。
意識が遠のきながらも、レイは理解していた。
――見下していたはずの相手に、命を握られている。
口内に溜まる血よりも、その事実の方がよほど苦い。
突如、イズマの手が彼女の顎を押さえつけ、何かを押し込んできた。
「……っ!? ごふっ……!」
異物が喉奥に詰まり、レイの翠の瞳が怒りに燃える。
「な、なによこの野蛮人……!」
粒のような何かが口内で崩れ、血管の内側へと熱が駆け抜けていく。
傷は氷の下で繋がり、筋肉が強引に再生していく。
痛みを伴う治癒だった。息を呑み、凍てつく地面に手をついて起き上がる。
――こんな強引なやり方で、救われた。
怒りと、羞恥に似た感情が頬を焼いた。
「誰が……助けてって言ったのよ……!」
震える声だった。
いつもの毒舌は、臨死のショックに飲まれていた。
「私の喉に、そんな……正体不明の物、突っ込む権利が……!」
言い切れずに唇を噛む。
震える手が、彼女の計算がまったく機能しなかったことを物語っていた。
「よかった……レイ……」
イズマの声は、警戒心のない安堵そのものだった。
その響きが、レイの胸に深く突き刺さる。
指先が、癒えた胸部に触れる。
死を覚悟したはずの皮膚は滑らかで、温もりがそこに残っていた。
顎にはまだ、彼の手の感触が残っている。
顔をそむけるように銀髪を揺らし、彼女は叫んだ。
「……そんな憐れむような目で見ないで!!」
だが、声にはいつもの鋭さがなかった。
「私は……あなたの……慈悲なんか、いらなかった……」
割れたペンダントの欠片が光を反射し、彼女の顔をきらめかせる。
自分の脈の弱さ。
この“荷物”が、自らの運命を書き換えてしまったという事実――
それを、まだ受け入れられずにいた。
「俺たちやったぞ! 二人で……魔王を倒したんだ!」
現実が、彼女を襲う。
不可能と思っていた勝利。
廃墟と化した戦場、風の中で灰となった魔王の亡骸。
杖が、彼女の手の中で震える。
それは疲労ではない。
彼女自身の、世界の認識が揺らいでいた。
レイ・フロストは静かに口を開いた。
その声は、研ぎ澄まされた刃のようだった。
「……私を、一緒くたにしないで」
けれど、傷だらけの彼に視線を残していることが、何よりの答えだった。
レイは踵を返し、雪の中を歩き始める。
だが、剣の届く距離のすぐ外で、ふいに足を止めた。
「……何も変わらない。あなたは、あなたのままよ」
首元のペンダントが、ひときわ淡く光った。
そして彼女は、結晶の舞う風の中へ消えていった。
残されたのは、高鳴る鼓動だけだった。
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