波間に沈む明日

@stoneedgeishizaki

第1話

波間に沈む明日



海の音が近い。

体中が重く、濡れた服が肌に張りついている。視界は赤く霞んで、しょっぱい味が口の中に残っていた。


結城智也はゆっくりと体を起こした。砂浜に転がる石が背中に食い込んでいる。

足元には、少女の体。長い髪が海水と血に濡れて砂にまとわりついていた。顔が半分ほど岩に打ち付けられ、動かない。


彼女――佐倉結は、死んでいた。


呼吸が詰まり、喉が焼ける。

ついさっきまで、あんなに笑っていたのに。


楽しかった。

でもその楽しさが、明日で終わってしまうのが、どうしようもなく怖かった。


智也は衝動的だった。リアリストであるがゆえに、「終わる幸せ」のあとに訪れる日常を恐れていた。

だから、何も言わずに彼女を連れて海岸の崖に立った。

飛ぼうとした。すべてを終わらせるつもりだった。


だが、今、自分は生きていて、彼女だけが死んでいる。


それが、まずい。


非常に、まずい。


智也は即座にスマートフォンを取り出した。指が濡れてうまく反応しない。

震える手でLINEを開き、彼女とのトーク履歴をすべて削除した。


「死にたい」なんて、どこにも書いていない。

自殺の計画も、共犯の形跡も、一切残していない。

それは一見すると自分を守っているようで、彼女の死が“自分の手によるもの”だと誤解される危険性を孕んでいた。


「……証拠、全部消さなきゃ」


智也は自分にそう言い聞かせ、周囲を見渡す。夜の海岸。まだ誰もいない。

彼女のスマホはポケットにある。バイブは止まっている。未読の通知が3つ。


彼女の手からそっとスマホを抜き取り、数メートル離れた波打ち際へと向かう。

ポケットの中で躊躇なくスマホを折り、電源を切ったまま海へ放り投げた。

音もなく、それは波に飲まれた。


次に、自分の服だ。

血がついたパーカー、破れたジーンズ。砂浜のはじに脱ぎ捨て、丸めてビニール袋に詰める。

近くの防波堤の裏手へ歩き、小さな岩の隙間に袋を押し込んだ。


燃やすには目立ちすぎる。沈めるには時間がない。

合理的に考える。今は、まずここから離れるべきだ。


一度、彼女の方を振り返る。

月明かりの下、結はとても静かだった。怒りも、苦しみも、もうない。


「ごめん。……ほんとに、死ぬつもりだったんだ」

その声は誰にも届かず、波の音にかき消された。



帰宅途中、智也はスマホのGPSをオフにし、コンビニで新しいTシャツとジーンズを買った。

監視カメラに映るのは仕方がない。だが、時間帯と場所がずれていれば、決定的証拠にはならない。


帰宅後、風呂に入り、血の匂いを何度も洗い落とした。爪の間に入った砂も歯ブラシでこそげ落とす。

部屋のベッドに倒れ込む。天井を見つめて、深く息を吐いた。


まだ、バレていない。

彼女が死んだのは、事故か、単独の自殺だ。

俺が関与していたと証明できるものは――何もない。


智也は冷静だった。いや、冷静であることに執着していた。

感情に飲まれたら、すべてが崩れる。

彼は「助かる道」を選んだのだ。死の衝動ではなく、生き延びるための戦略を。



翌朝、スマホに着信履歴がいくつも並んでいた。

「母親」「結の友達」「知らない番号」……そして、警察署。


智也は、一度だけ目を閉じた。

それでも、震えはなかった。

彼は既に、準備を終えている。焦りの奥にあるのは、綿密に組み立てられた「無関係な自分」というストーリーだった。

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