森の薬草師と小さな村の物語

@toy1021

第1話 目覚めの朝

 何かが違う。


 目を開ける前から、それはわかっていた。いつものエアコンの音も、隣のマンションの生活音も聞こえない。代わりに、鳥の鳴き声と風の音、そして——何だろう、この甘い花の香りは?


 恐る恐る目を開けると、そこには見たことのない木の天井が広がっていた。


 私——桜井美月は、確実に昨夜遅くまで研究室にいた。例の新薬の副作用データを整理していて、どうしても進まなくて、気がついたら机に突っ伏して……。


 そのあとの記憶がない。


 でも、ここは明らかに研究室ではない。まるで中世ヨーロッパの農家のような、素朴な石造りの部屋。壁には見たことのない植物が束になって吊るされていて、空気は薬草の香りに満ちている。


 身体を起こそうとして、驚いた。軽い。信じられないほど軽やかで、あの慢性的な肩こりも腰痛もない。まるで十代の頃に戻ったような感覚だ。


 机の上の道具をよく見ると、ガラスの瓶が淡く光っているのに気づく。内側から発光している?そんなはずは……。


「あら、お目覚めですか」


 優しい声に振り返ると、白いひげを蓄えた老人が入り口に立っていた。腰が少し曲がっているが、澄んだ青い瞳は若々しい輝きを湛えている。


「あの……ここは?」


 私の問いかけに、老人は微笑んだ。


「ここはグリーンヒル村の薬草師の家ですよ。私はエルダ。あなたを森で倒れているところを見つけて、ここまで運んだのです」


 エルダさんの瞳をよく見ると、普通の青ではない。まるで深い海のような、神秘的な色合いをしている。


 森で倒れていた?私は必死に記憶を辿ろうとしたが、研究室での最後の記憶から先が思い出せない。


「私、どうして森に……」


「記憶がはっきりしないのも無理はありません。高熱を出して三日間眠り続けていたのですから。それに……」


 エルダさんは私を見つめて、何かを言いかけて口を閉じた。まるで何かを確認するような、意味深な視線だった。


 エルダさんは手に持っていた湯気の立つカップを私に差し出した。


「まずは温かいお茶を飲んで、落ち着いてください。すべてゆっくりでいいのですよ」


 受け取ったカップから立ち上る香りは、カモミールに似ているけれど、どこか違う。口をつけると、ほんのり甘くて、身体の芯から温まるような感覚が広がった。


「美味しい……これは何のお茶ですか?」


「ムーンベリーという薬草のお茶です。心を落ち着かせ、記憶を整理する効果があるのですよ」


 お茶を飲むと、頭の中に映像がちらつく。実験室、白衣、そして……倒れる瞬間の記憶。でも同時に、なぜかこの部屋にも見覚えがあるような気がする。


 ムーンベリー?聞いたことのない植物名だった。私は植物学にも詳しいはずなのに。


 お茶を飲みながら、私は改めて部屋を見回した。吊るされている薬草の中に、まるで星のような形をした銀色の葉や、虹色に光る花びらを持つものがある。そして机の上には、底が光っている乳鉢や、中身が勝手に混ざり合っているような瓶があった。


 これは間違いなく、魔法の世界だ。


「あの、エルダさん……ここはどこの国なんでしょうか?」


「国?」エルダさんは首をかしげた。「ここはアルディア大陸の東の端、グリーンヒル村ですよ。王国に属してはいますが、ここまで来るのに徒歩で一ヶ月はかかりますから、ほとんど独立した小さな共同体のようなものです」


 アルディア大陸。そんな地名は聞いたことがない。


 そのとき、窓の外から子供の声が聞こえてきた。でも、その子が話している言葉は明らかに日本語ではない。なのに、なぜか意味がわかる。


 私は立ち上がって窓に近づくと、そこには想像を超える光景が広がっていた。


 石畳の道の向こうに見えるのは、まるで絵本から抜け出したような可愛らしい家々。煙突からは白い煙がのんびりと立ち上り、庭先では花が——まって、あの花、浮いている?


 目を凝らすと、確かに庭の花の一部が地面から数センチ浮かんで、ゆらゆらと漂っている。そして空を見上げると、青空の中を二つの月が浮かんでいた。


 二つの月。しかも片方は薄っすらとピンク色に光っている。


 私の手がカップを取り落としそうになったのを、エルダさんが慌てて支えてくれた。


「大丈夫ですか?」


「あの……月が……二つ……」


「ああ、そうですね。今日は昼間でも月が見える日ですから。ルナとセレナ、二つの月が仲良く並んでいますね」


 現実を受け入れるのに、しばらく時間がかかった。


 私は死んだのだ。過労で倒れて、そして……異世界に転生したのだ。


 でも、なぜかこの状況に既視感がある。まるで以前にも体験したことがあるような、不思議な感覚。


 不思議なことに、恐怖や混乱よりも、安堵の気持ちの方が大きかった。あの毎日終電まで続く研究、上司からのプレッシャー、睡眠時間を削っての論文執筆……すべてから解放されたのだ。


「エルダさん」


「はい」


「私、記憶がないんです。自分の名前以外、何も思い出せなくて……」


 嘘だった。でも、この世界で生きていくためには、前世の記憶があることを隠した方がいいような気がした。


「それは大変でしたね。でも、記憶は戻らなくても、新しい人生を歩むことはできます。もしよろしければ、しばらくここで休養されてはいかがですか?」


 エルダさんの表情に、一瞬何かが過った。まるで私の正体を知っているような、そんな複雑な顔だった。


「でも、お世話になるばかりでは……」


「実は私も歳をとって、薬草の管理が大変になってきたところなのです。もし興味がおありでしたら、お手伝いしていただけると助かります」


 なぜだろう、薬草師という響きに心が躍る。まるで運命に導かれているような感覚だった。


 エルダさんの提案は渡りに船だった。私の前世での知識が、この世界でも役に立つかもしれない。


「ありがとうございます。ぜひお手伝いさせてください」


「それは心強い。では、お名前をお聞かせください」


「美月です。桜井美月と申します」


「ミツキさんですね。美しいお名前だ。では改めて、グリーンヒル村へようこそ」


 エルダさんは温かく微笑んだ。


「今日はまだ身体を休めて、明日から少しずつ村を案内しましょう。ゆっくりで構いませんからね」


 私は窓の外を見た。青い空に浮かぶ二つの月、石畳の道を歩く人々の穏やかな表情、どこからか聞こえてくる鍛冶屋の金槌の音。


 すべてが新鮮で、でもどこか懐かしくて、心が軽やかになるのを感じた。


 前の世界では、私はいつも時間に追われていた。締切、会議、実験のスケジュール……。でもここには、そんな慌ただしさは微塵もない。時間がゆっくりと、まるで蜂蜜のように甘く流れている。


「エルダさん、この村の人たちはどんな方々なんですか?」


「みんな良い人たちですよ。パン屋のマリアちゃんは元気な娘さんで、雑貨屋のジョンさんは旅人から色んな話を聞かせてくれます。農家のトムさんとその奥さんのアンナさんは、この村で一番の働き者。そして村長のトーマスさんは、みんなをまとめてくれる頼れる方です」


 エルダさんが話す一人一人に愛情がこもっているのが分かった。


「みんな家族のような関係なんですね」


「その通りです。この村では、みんながみんなを支え合って生きているのです」


 私は深く息を吸った。森の香り、花の香り、パンを焼く香り……すべてが混ざり合って、なんともいえない安らぎを感じる。


「私、ここで新しい人生を始めたいです」


「きっと素晴らしい日々が待っていますよ、ミツキさん」


 その夜、私は小さなベッドに横になりながら、天井を見上げた。


 前世では毎晩のように、明日の仕事のことを考えて不安になっていた。でも今夜は、明日への期待で胸がいっぱいだった。


 どんな薬草に出会えるだろう。村の人たちはどんな暮らしをしているんだろう。私の知識が、この世界の人たちの役に立つだろうか。


 窓の外では、二つの月が優しく微笑んでいるように見えた。


 これが、私の新しいスローライフの始まりだった。


 でも、ベッドに横になりながら、私は気づいてしまった。手のひらに、小さな光る粒子が浮かんでいることを。息を吹きかけると、それは美しい軌跡を描いて消えた。


 どうやら私は、ただの転生者ではないらしい。


 そっと目を閉じると、遠くから聞こえる夜鳥の鳴き声が、子守唄のように私を眠りに誘った。明日からの新しい毎日が、とても楽しみで——そして少し不安だった。


 森の薬草師見習い、桜井美月の物語は、こうして静かに、そしてほんの少し神秘的に幕を開けたのである。

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