第18話 割り切れない割り切り
班の拠点に戻っても、少女の表情は晴れなかった。
エルネスト、カイル、そしてアイの三人は、テーブルをはさんで向かい合っている。
「俺は、アイがやったことは間違いだとは思わないけどな」
「やり方の問題じゃないか?」
「俺たちは知っていた。だが違法でない以上、手が出せない。かといって法に触れなければ何をやってもいいのかと言われたら、それも違うと答える。でも――国が認めてる以上、手を出せばこっちが悪者になる」
「変えたいという思いはある。でも、一人ではどうしようもできん」
「…………」
「俺たちが黙ってるように見えたなら、謝るよ。でも、ただの無関心じゃない」
「問題提起だけじゃ終わらないんだ。次の犠牲を出さないための対案がなきゃ、現場は動けない」
「現状を受け入れて耐えることが、大人の責任だと思ってた」
「……それでも、耐えるべきだったのは、子どもじゃないのにな」
「…………」
アイの沈黙は、重たい霧のように室内に漂っていた。
仲間の誰かが口を開き、議論が始まっても、アイの耳にはただ、言い訳の残響のようにしか届かなかった。
「……社会とは、そういうものだ」
「割り切らないといけない部分はある。初めて見たら誰もがおかしいと思うだろうがな……」
「………」
そんな言葉が飛び交うたび、胸が締めつけられる。
誰もが「仕方ない」という枠の中で動いている。それが、この国の“現実”なのだろう。
でも、アイの中には、どうしようもない感情が渦巻いていた。
(じゃあ、あの子はどうなるの?)
(見て見ぬふりをすることが“現実”なら、私はそんな現実いらない)
無関心が日常の一部になっている。
それが誰かを、確実に傷つけ、苦しめ、見捨てていく。
誰もが心を守るために、心を殺しているように思えた。
思考は濁り、やがて誰の言葉も、誰の顔も見たくなくなった。
「……少し、外に出てきます」
そう言い残し、アイは重たい扉を開けて街へ出た。
言葉にする直前、喉が乾いていた。言葉にならない塊が胸の奥でつかえていた。
アイは深く息を吸ったが、それだけで肺が軋んだように痛んだ。
ここ数日、天気は不安定だった。
曇り空が続き、湿った空気が地面にまとわりつくような、どこか息苦しい日々。
今日も朝から、いつ降り出してもおかしくない空模様だった。
(なんで、私はあんなに怒ったんだろう)
(私は……ただ怒ってたんじゃない。誰かが見ているのに、何もしてくれない、そのことに絶望していた)
(手を差し伸べてほしかった。誰かに、止めてほしかった。でも誰も――)
あのとき確かに感じたのは、“嫌悪”だった。
生理的なまでの拒絶感。吐き気すら覚えるような、どうしようもない拒否。
(でも――誰に? 何に?)
人間に? 社会に?
それとも、見て見ぬふりしかできなかった“自分”に?
わからない。
けれど、だからこそ、立ち止まりたくなかった。
気づけば、街の外れにある市場まで来ていた。
店先では店主たちが、空模様に急かされるように商品の片付けを始めていた。
風が吹き抜け、紙くずが舞う。ぽつぽつと、地面に水滴が落ち始める。
と、そのときだった。
市場の一角で、慌ただしく台を片付けていた少年が、足元に引っかかり、体勢を崩して倒れた。
「…っあ!」
積まれていた小物類が布ごと地面に落ち、水たまりに浸かっていく。
周囲の大人たちは、口々に怒声を飛ばした。
「おい! 何してんだ! こっちの売り物が汚れたらどうする!」
「これだからガキを使うのは嫌なんだ!」
「まったく、使えねぇな! さっさと消えろ!」
少年は謝りながらも、泥と雨にまみれた小物を必死に拾い集めていた。
だが、どの店主も助けることなく、追い立てるように彼を市場の裏手へ追いやっていった。
アイはそれを、少し離れた場所から見ていた。
気づけば、足が勝手に動いていた。
裏路地に入ると、そこには先ほどの少年が、しゃがみ込んでいた。
濡れた布袋を抱え、肩を震わせている。
声をかけると、少年はびくりと肩をすくめたが、やがて蚊の鳴くような声で言った。
「……どうしたの?」
アイが声をかけると、少年はびくりと肩をすくめた。
それでも、少しの沈黙の後、小さくつぶやいた。
「……しっぱいして……おこられて……いらないって、いわれた……」
涙混じりの声だった。
濡れた荷物の包みをぎゅっと抱きしめるその姿は、ただただ痛々しかった。
アイはしばらく無言で立ち尽くしていた。
雨が、静かに服を濡らしていく。それでも、動こうとしなかった。
けれど、やがて、そっと外套を脱ぎ、少年の肩にかけた。
「……え?」
少年が驚いたように顔を上げた。
「それじゃ、風邪ひくよ。少し、温かくしないと」
「……でも、おねえちゃんも、ぬれちゃうよ?」
「私は平気。君のほうが、ずっと寒そうだったから」
少年は困ったように眉をひそめたまま、それでも黙って外套を握りしめた。
小さな手が、冷たく濡れていた。
「ここで、なにしてたの?」
「おうち……じゃなくて、おみせ……追い出されちゃったから……」
「ああ、お店の人に?」
「うん。おとしちゃったの、だいじなやつ……それで、いらないって……」
たどたどしい言葉が、ぽつりぽつりと落ちていく。
誰もが“そういうものだ”と片づけるような出来事――けれど、彼にとっては全てだった。
アイは視線を落とし、雨粒の跳ねる石畳を見つめた。
「この国ではね、商売のためなら、きびしいこともあるんだって」
「……しらない。でも……やだ……」
「私も、そう思うよ」
アイは優しく言った。
「お金が大事なのは、わかる。でもね、人の気持ちまで捨てるのは、ちがうと思う」
少年は、目を瞬かせた。雨に濡れた髪が額に張りついている。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「うーん……私にも、ちゃんとはわからないな」
アイは笑った。それはどこか寂しげで、けれど静かな笑みだった。
「でもね、“いやだな”って思う気持ちを、そのまま置いておくことはできると思う」
「おいておく?」
「うん。自分の中に、小さくても“これだけはいや”って思うことがあって、それが、自分をちゃんと止めてくれる時があるの」
「……へんなの」
「そうかも。でもね、その“へんなの”があったから、今、私は君にこうしてるのよ」
少年は、しばらく考えるように黙っていた。
雨の音だけが、しとしとと二人の間を満たす。
「ねえ、おねえちゃん。おねえちゃんは、つよいの?」
「ううん。むしろ、よわいから、ちゃんときめておかないと、ふらふらしちゃうの」
「きめるの?」
「うん。“こんなふうにはなりたくない”って。それだけでも決めておけば、何かがあっても、戻ってこられる気がするから」
アイの目は、静かに遠くを見ていた。
「正しいことが何かなんて、今はわからない。
でも、自分が“いやだ”と思うやり方には、慣れたくないの」
「なんで?」
「その方が……あとで、自分をきらいにならないで済むからかな」
少年は、小さくうなずいた。
何かが伝わったのかはわからない。けれど、濡れた手のひらは、少しだけ力を取り戻していた。
アイは立ち上がると、軽く笑って言った。
「さあ、帰りましょう」
「……うん」
二人は、ゆっくりと歩き出した。
雨の中を、静かに――けれど確かに、前へと進んでいった。
少年に差し出した手の温もりは、誰かの評価のためじゃない。
それは、「自分がこう在りたい」と思える人間でいるための、ささやかな選択だった。
少年を家まで送り届け、拠点への帰り道。
アイは立ち止まり、冷たい風を胸いっぱいに吸い込んだ。
少年に優しく話しかけているようで、自分に言い聞かせていたようでもある。
人間社会は、理不尽で、曖昧で、ときに残酷だ。
でも、それを理由に人間すべてを嫌いになりたくはなかった。
嫌いになってしまえば、自分まで“嫌な人間”になってしまいそうだったから。
だから、今はまだ信じていたい。
せめて――自分が関わった人だけでも。
雨が再び強くなり、音を立てて地面を叩く。
アイは静かに歩き出す。
立ち止まったままでも、踏み出す理由を探して。
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