姉弟の約束
夜の帳が降りた部屋の中。
カーテンの隙間から漏れる街灯の明かりが、優しく二人の姿を照らしていた。
布団に横たわる優斗の顔には、熱が引いて少し落ち着きを取り戻した様子が見える。渚は、その傍らに静かに座っていた。
少しの沈黙のあと、優斗がぽつりと口を開いた。
「……それと俺、高校ちゃんと行くよ。中途半端なままじゃ自立なんてできねぇって、やっと分かった。卒業したら就職して、ちゃんと一人暮らししようと思う」
その言葉に、渚の瞳がわずかに揺れた。
弟の目には、確かな覚悟が宿っている。いつの間にかこんな風に自分の道を考えるようになったのかと、胸の奥が少し温かくなる。
「……そう。あんたが決めたことなら、私は応援する。その代わり、最後までやりなさいよ」
渚は優しく、けれど真剣な眼差しで返した。
優斗は頷き、小さく息を吸う。
「分かってるよ。だからさ……」
その言いかけに、渚が小さく首をかしげる。
「え?」
優斗の視線が、まっすぐ渚を捉える。
「渚も、フランス……行きたかったら、行けばいいじゃん。前から夢だったんだろ?」
その言葉は、渚の胸にすっと入り込んだ。
あの日、自分が手放した夢。けれど、それは誰かに強制されたわけでも、責められたわけでもない。自分で選び、諦めたつもりだった。でも、どこかで今も心の奥に残っていた憧れ。
「優斗……うん、もう一回考えてみる。あっちの友達にも連絡してみようかな」
口にしてみると、それは思っていた以上に自然で、優しく、そして前向きな響きだった。
「……ああ」
短く、でも力強く頷く優斗。
渚はふっと笑みを浮かべ、弟の額に手を添えながら言った。
「でもまずは、このアホ坊主を一人前に育ててから、ね」
冗談交じりのその言葉に、優斗は照れくさそうに顔を背けた。
二人の間に、確かな未来の予感が芽生えていた。
夜更けの静けさが、部屋を包んでいた。
薬が効いたのか、優斗の熱は少し落ち着き、ベッドの中で穏やかな呼吸をしていた。
その隣、渚はそっと立ち上がると、本棚の奥から一冊の古びたアルバムを取り出した。色あせた表紙には、小さな手垢と角のめくれが時の流れを物語っている。
「これ、覚えてる?」
渚の声に、優斗が顔を向ける。枕元の灯りに照らされたアルバムを見て、微かに眉を上げた。
「あ……それ、昔のやつじゃん。母さんがよく見せてた」
ページを一枚めくると、そこには無邪気に笑う子どもたちの姿──幼い渚と優斗、そして優しく微笑む両親の写真が並んでいた。写真の端は少し擦れているが、それでもその笑顔は鮮明に残っていた。
「ほら、これ。運動会のやつ。優斗が転んで泣きながら走ったやつ」
渚が指さした一枚に、顔をしかめながらも優斗は小さく笑った。
「うわ、やめろよ……黒歴史じゃん……」
渚はくすっと笑いながら、思い出をたぐるように語る。
「でもね、そのあと私が手、引いて一緒に走ったでしょ? それ見て、お母さん泣いたの。『この子たちは大丈夫』って」
「……覚えてねぇよ、そんなの」
「私は覚えてる。……あのときから、私は優斗の味方だったんだよ。これからも、ずっとね」
しばらく、二人の間に言葉がなくなった。
アルバムのページを風がめくる音だけが、静かに響く。
やがて、優斗がぽつりとつぶやいた。
「渚……俺さ。いつかまた、渚が夢に向かって飛び出すなら……今度は、俺が手、引いてやるよ」
渚は驚いたように目を見開き、それからゆっくりと微笑んだ。
その瞳には、じんわりと涙がにじんでいる。
「……ありがとう。その言葉、ちゃんとアルバムに書いとこうかな」
「やめろよ、黒歴史増えるじゃん……」
二人は顔を見合わせて、ふっと笑った。
同じ空気の中で、同じ気持ちで。
それは久しぶりに交わされた、姉弟だけのぬくもりだった。
アルバムの最後のページ。
そこには小さなメモ紙が一枚、丁寧に挟まれていた。
“2025年 春 姉弟の約束”──それは、たった今できた、かけがえのない未来への記録だった。
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