封筒の中の気持ち
夕方──。
キッチンから漂う香ばしい匂いと、鼻歌まじりの楽しげな声。
坂井渚はフライパンを振りながら、軽やかにリズムを刻んでいた。
「ふんふふーん♪〜」
その背後から、足音も立てずに現れたのは、弟の優斗だった。
気配を感じ取ったのか、渚が振り返る前に、低い声が背後から飛ぶ。
「……何鼻歌なんか歌ってんだよ」
「なっ!別にいいでしょ、ちょっとくらい!」
渚はバツが悪そうに頬を赤らめ、少し声を張った。
優斗は真顔のまま、じっと姉を見つめる。
「なんか良いことでもあったのか?」
「茜がね、MAILのライブチケット当ててくれたの!一緒に行くの!」
目を輝かせながらそう言った渚に、優斗はあきれたように目を細める。
「あー…前にそのアイドル好きだって言ってたな。テレビの前で叫んでたし」
「なっ…見てたの? べ、別にいいでしょ!」
「はっ、いい歳してはしゃぎすぎだっつの」
姉弟らしい軽口を交わす一方、渚はテーブルの上に置かれた白い封筒に目を留めた。
「ん? 何これ……封筒?」
「……あ、やべ!返せっ」
慌てて手を伸ばす優斗より早く、渚が封筒を手に取る。
「……これ、お金? ちょっと、あんたバイトしてるの?」
「……っ! そうだよ!悪いかよ」
「何でそんなことしてるのよ。最近、学校サボったり帰りが遅かったの、それが理由?」
問い詰めるような渚の声に、優斗はわずかに顔を背ける。
「……別にいいだろ。遊ぶ金くらい自分で稼ぎたいだけだ」
「……あんたねぇ……。バイトなんてすぐやめなさい。学校にもちゃんと行ってないのに両立なんて無理に決まってるでしょ」
「……俺、学校やめようと思ってる」
「は!? 何言ってんの?」
「もう続ける気ねぇよ。辞めて働く。家も出る」
「そんなの、認めるわけないでしょ! いい加減にしなさいよ!」
怒りと戸惑いが渦巻く中、優斗の声が渦を裂くようにぶつかる。
「俺の人生だろ! 姉貴には関係ねぇ!」
その言葉を聞いた瞬間、渚の手が反射的に動いた。
――パシン。
静かな空気の中、乾いた音が鳴り響く。
優斗の頬に渚の手が届いていた。
一瞬、空気が凍りつく。
優斗は言葉を失い、目を伏せる。
「……ぐっ」
そのまま、何も言わず玄関の方へ向かい、乱暴にドアを開けて――家を飛び出していった。
残された渚は、ただその背中を見つめるしかなかった。
握りしめた封筒が、今も彼の気持ちを宿したまま手の中にあった。
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