姉の悩み

数日後――都内のカフェにて。


平日の午後。

柔らかな木漏れ日が、窓際のテーブルに静かに降り注いでいた。

カップの縁から立ちのぼるカフェラテの湯気が、ゆらゆらと優雅に空気を漂っている。


坂井渚はスプーンを持つ手を止め、深いため息をひとつついた。


「はぁ〜……」


その向かいでストローをくわえていた津田茜が、すぐに首をかしげる。


「ちょっと渚、いきなりため息なんてどうしたの?」


カフェのBGMが遠くで流れる中、渚は指先でカップをくるくると回しながら口を開いた。


「うちの優斗がさ、また学校行ってなくて……。昨日も帰ってきたの深夜だったし、全然私の話なんか聞いちゃいないの」


彼女の声は、少し疲れていた。心の芯に、どうしようもないもどかしさが詰まっているようだった。


「そっか……あのちっちゃくて可愛かった優斗くんも、もう18歳だもんね。思春期の男子は難しいよ」


茜はストローをくるくると指で回しながら、柔らかく頷く。


「……最近ほんと分かんないの。目も合わせてくれないし、話しててもそっけなくて。なんかもう、私のこと嫌いになったのかなって」


そう言った渚は、カップを両手で包み込むように持ち、俯いた。

睫毛の影が長く落ちて、瞳がほんの少し潤んで見える。


「渚、自分を責めすぎ。ちゃんと頑張ってるの、見てて分かるよ。

あの優斗くんが、渚を嫌いになるわけないじゃん。お姉ちゃん一人しかいないんだからさ」


茜の声は、穏やかで力強かった。

渚の肩にそっと手を置いたわけではないのに、彼女の言葉には、確かに寄り添う温かさがあった。


「でも……どうしたらいいのか分かんない。怒ったり、心配したり、全部空回りしてる気がして」


「うん、分かるよ。でもね、優斗くんにも優斗くんなりの気持ちとか考えがあるんだと思う。大人になりかけの年頃だもん。見守るってのも、ひとつの愛情のカタチじゃない?」


渚は静かにまばたきをし、息を吸った。

心の中にあった絡まった感情の糸が、少しずつほどけていくような気がした。


「……そっか。もっと信じて、ちゃんと向き合ってみるよ。ありがと、茜」


「よし、そうこなくっちゃ!」


明るく言い切った茜が、すぐに表情をパッと変えて目を輝かせる。


「あ、そうだ!言い忘れてたけど、朗報があるのよ〜!」


「え?」


「ついに!MAILのライブチケット、2枚当たったー!」


「えっ!?ほんとに!?マジで!?すごっ!」


MAIL――20代の爽やか系5人組アイドルグループ。

渚がずっと応援し続けてきた、彼女にとっての“癒しの存在”。


「でしょ?ずっと応募してたんだから!もちろん一緒に行くよね?」


「行くに決まってる!うわぁ……ついに、生MAILに会えるなんて……♪」


仕事や家族の悩みに押しつぶされそうだった渚の表情が、ふわっと花が咲くように明るくなる。


窓から差し込む日差しが、その頬をほんのり照らしていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る