第24話 終わりの気配

 どれだけ笑い合い、甘えて、寄り添っていても、俺たちはお互いに「終わり」の気配を忘れたことはなかった。

 美咲の親権は、法律上、未だに母親にある。この部屋での穏やかな暮らしが、いつまでも続く保証はどこにもない。

 リビングで映画を観ている時も、ふいにインターホンが鳴れば、二人同時に顔を上げる。その一瞬、緊張が部屋の空気をピンと張り詰めさせる。美咲はわずかに唇を噛み、そっと俺の腕にしがみつく。

「大丈夫、宅配便だよ」

 そう言って微笑んで見せると、美咲もほっとしたように小さく頷いた。それでも俺の腕を離さず、しばらくじっとしていた。


 寝る前に、ベランダに出て夜風に当たりながら、二人並んで空を見上げる時間が好きだった。遠くの街灯りや、霞んだ星を眺めていると、美咲がポツリと呟く。

「……もし、お母さんが迎えに来たら、どうなるのかな」

 俺は返事に迷い、黙って彼女の髪をそっと撫でる。美咲はそれに少し身を寄せ、心細そうに続ける。

「また離れ離れになるの?」

「——今度こそ、俺は必ず美咲を守る。絶対に、もう一人にはしない」

 はっきりとそう言うと、美咲はホッとしたように微笑み、俺の手をギュッと握る。

 二人の影がベランダの床に重なって、静かな夜に溶けていった。


 そんな風に、お互いに今を大切にしようと、優しい言葉や触れ合いが増えていく。自然と心がすれ違ってしまわないように。互いの目が、別のところを向かないように。


 朝はいつも、美咲の明るい声から始まる。

「お父さん、おはよう!」

 美咲が布団をめくって俺の顔を覗き込む。俺は寝ぼけたまま、その無邪気な笑顔に「おはよう」と精一杯の愛情を込めて返す。ゆっくりと朝食をとり、一緒に川沿いを二人で歩き、パン屋で焼き立てのクロワッサンを買って、ベンチで分け合う。夕方のスーパーでは、「今日はどれにしようか」と美咲と一緒にアイス売り場をのぞき込む。帰り道、買ったアイスを一本ずつかじりながら、他愛のない話で笑い合う。

 どんな些細な時間も、俺たちには何より大切で、二人だけの宝物だった。


「ねぇお父さん、ずっとこのままだったらいいのに」

 美咲が腕にしがみついて、子供のような声で甘える。

「俺もそう思うよ」

 そう答えて、そっと美咲を胸に抱き寄せる。

 彼女の小さな体温と、柔らかな髪の香りが、胸の奥まで沁みてくる。


 この幸せな日々の端には、いつもわずかな切なさが混じっている。

 けれど、それがあるからこそ、俺たちは誰よりもお互いを思いやり、毎日の一瞬一瞬を心から大切にできた。

 夕暮れ時、家路に帰るその歩調も、どこかいつもよりゆっくりになる。できるだけ、この時間が長く続くようにと、心の中で何度も願いながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る