第11話 届かない声

  美咲がいなくなった後のリビングは、俺には致命的に空っぽに思えた。パソコンを開いても、画面を見る気にはなれない。仕事なんてしている場合じゃない——。気がつくと、家中を歩き回っていた。


 何度目かにバスルームを通りかかったとき、ふと足が止まった。脱衣所の隅に、小さなポーチが落ちているのに気づいた。控えめな花柄の布地——美咲の物だと、すぐに分かった。

 手に取ってみて、思わずファスナーをつまみかけたが、思い直してやめた。

 これは間違いなく美咲の忘れ物だ。大切な物なのかは分からないが……これを取りに、また戻ってきてくれるかもしれない——。そんな希望にすがるほど、俺からは余裕が失われていた。


 それから何度も、玄関とリビングを行き来しては、時計を見て、窓の外を覗いた。その日一日、心ここにあらずのまま、美咲の帰りを待ち続けた。けれど、夜になっても、玄関の扉は静かなままだった。その日は結局美咲が帰って来ることはなかった。


 翌日の昼になって、ようやくインターホンが鳴った。

 心臓が跳ね上がる。応答すると、カメラの向こうで美咲は意外そうな顔をしていた。平日の昼間に家にいるとは思っていなかったのかもしれない。エントランスのオートロックを解除する。しばらくして、今度は部屋のインターホンが鳴った。ドアを開けると、美咲が立っていた。泥で汚れた制服、乱れた髪、目の下には薄いクマ。靴は濡れており、足首まで泥が跳ねている。一晩、外で過ごしたことは一目で分かった。

 美咲はドアの前に立つなり、俺の顔を一瞥しただけで、低い声で言った。

「……私のポーチ、ここにありますか」

 その途端、何かがこみ上げて、俺は思わず声を荒げてしまった。

「どこにいたんだ! まさか、野宿なんてしてたのか? そんな危ないこと、二度とするな!」

 美咲は静かに俺を見上げる。その目には、感情の揺れがほとんどなかった。だが、どこか固い拒絶の色が浮かんでいる。

「私のポーチを、返してください」

 美咲はもう一度、同じ言葉を繰り返した。まるで知らない大人にものを頼むような声色だった。

「……リビングにある。とりあえず、入りなさい」

 そう言うと、俺は先にリビングに行く。背後で、美咲が靴を脱ぐ音が聞こえた。机にあるポーチを手に取り、振り返る。美咲がリビングのドアの前に立ち、ジッと俺の手元を見つめていた。

「中を見ましたか」

「見てない。見られちゃ困るものなのか?」

 彼女は答えなかった。

「学校にも行っていないんだろ? 毎日何をやってるんだ。他に頼れる人がいないなら、しばらくここにいていい。頼むから、ちゃんとしたご飯を食べて、ちゃんとした場所で眠ってくれ」

 そう、必死に訴えかけた。

 美咲はしばし黙って俺を見返し、それから静かに——しかしはっきりと告げる。

「……あなたなんかと暮らすなんて、絶対に嫌です」

 一瞬、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。しばらく何も言えず、ただ美咲の冷たい目を見返すしかなかった。


 俺は娘のポーチをそっと掌に包み込んだ。その重みが、今では確かな希望だった。

「これ……もちろん返すけど、条件がある。ちゃんとご飯を食べて、この部屋で眠るんだ」

 自分でも驚くほど、声が低く、硬くなっていた。脅しのように聞こえただろう。でも、もう二度と美咲を夜の街に放り出すわけにはいかなかった。それだけは譲れなかった。

 美咲は目を細め、怒りとも哀しみともつかない表情で俺を睨みつけた。 

「……あなたなんかに電話しなければよかった」

 その言葉は刺さった。思わず拳に力が入る。

 それでも——美咲の顔色は悪く、唇は乾いて白い。泥が付着した腕や足先、寝不足で赤くなった目元……全てが、この数日の苦しみを物語っていた。父親として、彼女に安全を与える。そのためなら憎まれたって構わない——。

「いいか——」

 俺が口を開いた、その時だった。


 ——ぐう。


 静まり返ったリビングに、小さな音が響いた。

 え? と思い、つい美咲をまじまじと見つめてしまった。

 美咲はお腹を押さえ、恥ずかしそうに顔をそらす。そして、その場にへたり込むように座り込んでしまった。力が抜けたみたいにうつむき、動かなくなった。

「……ちょっと待ってろ。ソファ、行けるか?」

 そっと手を伸ばすと、美咲は反射的に手を振り払う。一人でよろよろとソファへ向かい、ぐったりと身を沈めた。


  俺はキッチンへと向かう。冷蔵庫を開け、残っていた卵と、昨夜の焼き魚の切れ端、ワカメの味噌汁を取り出す。鍋を温め、卵を溶かす。解凍したご飯の香りと、味噌汁の湯気が静かな部屋を満たしていく。

 食事の支度をしながらも、視線の先のソファが気になって仕方がない。美咲は膝を抱えたまま、身動き一つしない。彼女の周囲では、沈黙が張り詰めていた。

 食事をテーブルに並べ、「ほら、食べなさい」とだけ声をかける。美咲はしばらく動かなかった。だが、やがてゆっくりと顔を上げ、無言で椅子に座る。その目はどこか虚ろで、それでも黙って箸を取った。

 一口、また一口と、ご飯を口に運ぶ。噛みしめるたび、彼女の顔にほんの少しだけ力が戻るのが分かる。その姿を、俺はただ黙って見つめていた。胸の奥がどうしようもなく痛くなり、湯呑みのお茶を何度もすすっては、言葉を探していた。外では久しぶりに太陽が顔を出し、カーテンの奥から温かな光で部屋を照らした。


「美咲——」

 俺はそっと呼びかける。だが、美咲は顔を伏せたまま、無言でご飯を食べている。「何があったのか、話してくれないか」

 美咲は何も答えなかった。ただ、黙々とご飯を口に運ぶだけだった。気まずい沈黙が部屋を満たしていく。俺はもどかしさと寂しさに耐えきれず、口を開いた。

「体、大丈夫か? 夜はどこで寝てたんだ。ちゃんと話してくれ。何か困ってることがあるなら、お父さんに——」

 その瞬間、美咲の手がぴたりと止まった。

 箸をテーブルに叩きつけるように置き、顔を上げる。

「……うるさい!」

 悲鳴のような声だった。顔を真っ赤にして、涙が今にも溢れそうな瞳で、まっすぐに俺を睨みつけてくる。

「いまさら父親のフリなんてしないで!」

 美咲の目は真っ赤に潤んで、けれどもその奥に、どうしようもなく強い怒りが燃えていた。「あなたが……全部、あなたが悪いんです」

 涙で声を震わせながら、美咲は続ける。

「あなたが、あなたがお母さんに酷いことしたから、お母さんは毎晩泣いてた。家にいるのが怖かったし、私もずっと不安だった。なのに、あなたは女の人と遊んでばかりで……お母さんがどれだけ苦しんでたか、何も知らないくせに!」

「何を言って……え? 美咲——」

 思わず身を乗り出したが、美咲はさらに強く頭をを振った。

「全部知ってるんですから! 養育費も払わずに逃げてるんでしょ! 全部お母さんに押し付けて! だから、お母さんはあんな男と……あの人だって、本当はお母さんも私も好きじゃなかったけど、あなたよりマシだって言ってた……! 私もお母さんも、あなたのこと絶対許しません!」

 俺はかすれた声をどうにか絞り出した。

「そんな……馬鹿なこと……。違う……。俺は、ずっと——」

「もういい! これ以上話したくない!」

 美咲は、もう俺の声を聞こうとしなかった。


 俺はただ、呆然と娘の姿を見つめていた。

 どうしてこんなにも嫌われているのか、どうしてこんなにも遠い存在になってしまったのか——ようやく分かった。

 美咲は、母親の口から俺の悪口を何度も何度も聞かされて育って来たのだ。まるで洗脳されたみたいに、俺を憎み、心の扉を固く閉ざした。胸が締めつけられるような痛みと、どうしようもない無力感がこみ上げてくる。何よりも大切だと思っていた娘が、まるで他人のようにしか見えなかった。


 何を言っても、今の美咲には届かない——。

 そう悟った瞬間、心のどこかで何かがぽきりと折れた。

 俺は一つ息を吐き、あえて冷たく、静かな声で言った。

「……俺のことをどう思おうが勝手だ。信じたくないなら、好きにすればいい。だが、お前にはこの家にいてもらう」

 美咲は顔をしかめ、露骨に拒絶を示す。

「嫌です。こんな家にいるくらいなら——」

「黙って聞きなさい」

 その一言に、美咲はびくりと肩を揺らした。

「お前のお母さんと、しばらく預かるって約束した。信じられないなら確認してくれてもいい。だから——いいか。勝手に出て行くな。どこで何をしても構わない。でも、必ずここに帰って来るんだ。それだけは守ってくれ」

 そう言って、俺はポーチを差し出した。美咲はほとんど奪うようにそれを手に取り、悔しそうに唇を噛んだまま、しばらく黙り込んだ。俺を睨みつけるその目の奥には、怒りや悲しみ、そして憎悪。全ての負の感情が張りつめていた。

 やがて彼女は、諦めたように小さくため息をつき、ソファへと歩いて行く。座り込み、膝を抱え、ぎゅっと自分を抱きしめたまま動かなくなる。顔は見えないが、細い肩が時折、小さく震えていた。俺はただ、リビングの隅からその背中を見つめるしかなかった。


 胸の奥が、ゆっくりと痛みに変わっていく。大事に思っているものほど、何故だかいつも手の届かない場所へ行ってしまう。本当は、今すぐにでも抱きしめてやりたい。頭を撫でて、「大丈夫だ」と言ってやりたい。だけど、あの子の心は俺からはあまりに遠く、どんなに手を伸ばしても届かない場所にある。

 沈黙が、部屋中に降り積もった。


 夜が更け、リビングの明かりを落とすと、部屋は一気に静けさを増した。ソファには美咲が毛布にくるまり、膝を抱えたまま小さくなっている。うっすらと差し込む廊下の光に照らされて、彼女の頬や髪がほのかに浮かび上がる。静かな寝息が、かすかに部屋の空気を揺らしていた。


 俺は自室に戻り、ベッドに横になった。だが、天井の暗い影を眺めながら、何度も寝返りを打つ。まぶたを閉じるたび、昔の記憶が鮮やかによみがえる。


 ——まだ幼かった美咲を、何度も背中を撫でてあやした夜。

 小さな手で服を掴み、離れまいと泣きじゃくっていたあの温もり。

 今では、俺の腕も、声も、あの子には届かない。


 たった数メートル先のリビングにいるのに、美咲の心は、はるか彼方に遠ざかってしまった。

 それでも——せめて今夜だけは、家にいてくれている。同じ屋根の下で夜を越してくれる。それだけで、充分じゃないか。何度もそう自分に言い聞かせながら、ようやく薄い眠りに落ちた。

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