第6話 喪失

 ある日曜日のことだった。

 その日は、どうしても午前中だけ出社しなければならず、珍しく家を空けた。美咲は小さな手を一生懸命に振って、「行ってらっしゃい」と玄関で見送ってくれた。

 昼過ぎに仕事は終わった。俺は歩くのももどかしくなり、タクシーを拾った。エレベーターの中でも、廊下でも、なぜか落ち着かなかった。早く、美咲の「おかえり!」という声が聞きたかった。


 玄関のドアを開けると、部屋は異様なほど静まり返っていた。見知った我が家が、やけに広く、知らない場所のように感じられた。この感じには覚えがあった。

「美咲?」

 呼びかけても、返事はない。

 リビングにも、寝室にも、バスルームにも、どこにも姿が無かった。

 ランドセルも、教科書も、床に転がっていたお気に入りのぬいぐるみも、全てが跡形もなく消えていた。


 胸が締め付けられた。

 靴箱の隅に置いていた、美咲の小さなサンダルまでなくなっていた。キッチンのテーブルの上には、朝食を食べた後の皿だけが、ぽつんと残されていた。美咲のいた痕跡は全てが消えていた。まるで最初から、この家に美咲なんて存在していなかったみたいに。


 その時、ポケットの中で携帯が震えた。

 画面には元妻の名前があった。

 開いてみると、短いメッセージが一通だけ届いていた。


「美咲は私が育てる。連絡はいりません」


 それだけだった。

 頭が真っ白になった。

 慌てて電話をかけるが、呼び出し音だけが空しく響くだけだった。何度かけても、留守番電話にも繋がらない。


 どうしようもなく手が震えた。しばらく床に座り込み、動けなかった。

 美咲がいない。

 どこにもいない。

 俺だけが、ぽつんとこの部屋に置き去りにされていた。

 静まり返った部屋の中でで、何度も名前を呼んだ。

「美咲……」

 返事はどこからも返って来なかった。



 親権は当然のように母親に渡った。

 納得なんて、できるはずがなかった。

 俺はすぐに弁護士を探し、法律相談の予約を取った。都心のオフィスビルの一室で、スーツ姿の中年の弁護士が応対してくれた。

「父親でも親権を取れる例はあるんですよね?」

 必死でそう食い下がったが、弁護士は困ったように眉をひそめ、カルテのような書類を繰りながら言った。

「……結論から言えば、非常にハードルは高いです。家庭裁判所は“継続性の原則”を重視します。つまり、離婚前から誰が日常的に子どもを育ててきたか。ここが基準になります」

「でも、妻はしょっちゅう家を空けていました。娘を一人にしたことだって何度も……」

「証拠はありますか?」

 答えに詰まった。

 写真も、ボイスレコーダーも、日記も残していなかった。ソファで怯えていた美咲の姿も、冷蔵庫が空っぽで夕食を作れなかった日も、全部、言葉でしか伝えられない。

 弁護士は申し訳なさそうに眉を下げながら、それでも現実を告げた。

「日本の家庭裁判所は、“母親優先”という慣習が根強く残っています。ネグレクトや暴力など、客観的に深刻な育児放棄が明らかでない限り、親権は母親に残るケースがほとんどです」

「でも……私は娘のために仕事を辞めて、在宅の仕事を選んで、毎日一緒に過ごして……それでも、母親のほうが有利なんですか?」

「……お気持ちは痛いほどわかります。でも……現実は、そうなんです」

 その声は、温かくあろうとしていたが、やはりどこか他人事のようだった。


 それでも俺は納得できなかった。

 家庭裁判所に出向き、申立書を提出し、調査員との面談を受けた。だが、そこでも対応は変わらなかった。

「現状、母親の生活環境は安定しており、また、親権を変更するには、子どもの生活に重大な悪影響があると認められる事情が必要です」

 無機質な白い会議室。調査員と判事は、机の向こうから書類をめくり、時折こちらに視線を投げるだけだった。

「子どもの心理的安定を最優先に考えると、今の生活を大きく変えるのは望ましくありません。母親との同居が、現在の福祉に最も資すると判断されます」

「でも、娘は私と一緒に……!」

「申し訳ありません。お気持ちは理解できますが……“現時点では”それを覆す材料がありません」

 静かで、しかし圧倒的な「正論」だった。


 どれだけ声を上げても。

 どれだけ頭を下げても。

「子どものためには、母親が必要です」

 そう繰り返される言葉は、まるで判決のようだった。


 廊下に出ると、午後の光が高い窓から差し込んでいた。

 その光の向こう側で、俺の願いはどこまでも遠く、小さくなっていくようだった。


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