キリンの首
酢豆腐
キリンの首
高台にある団地だった。
建てられたのは昭和の終わり頃。その時分ほどではないが、今でも多くの家族が暮らしている。
棟と棟のあいだに小さな公園が点在し、裏手には小学校があった。
団地の南側、公園に隣接する位置に、鉄製の物置小屋が立っていた。
幅は大人が3~4人並べばいっぱいで、奥行きもそれほどない。清掃用具や脚立などを入れていたようだが、今ではろくに使われていないようだ。
入口のスライド扉は鉄製で、赤錆にまみれていた。中央の取手には、古びた南京錠がかかっている。
ある夏、団地内でひとつの噂が広がった。
「あの物置に、キリンの首がある」というのだ。
言い出しっぺは小学生の低学年だとされていたが、誰かがはっきりと証言したわけではない。
ただ、子どもたちのあいだで、その話は妙にリアルなかたちで語られた。
「見たの。こっち向いてた」「すごく長かった。窓からにゅーって出てた」「ぬれてた」「目が、動いたよ」――
団地に長く住んでいる男性がいた。この話を教えてくれた人物だ。
50代の独身、穏やかな人で、とりわけ子どもには優しく、気さくに挨拶するたちだった。団地の子どもたちも彼にはよく話しかけてくる。
その人が、たまたま小さな女の子から「キリンの首」の件を聞いた。
「倉庫にキリンの首があるんだって」と。
何かの冗談だと思って、曖昧に笑い飛ばした。
が、気まぐれに、ある日曜の昼過ぎ、ひとりでその物置を見に行ってみた。
子どもたちの言う「窓」は、左側面にある、換気口を兼ねた明り取りのことだった。四角く切られた開口部にアクリル板がはめ込まれており、外側には金属の格子が取り付けてある。
子どもの背丈では届かない高さだったが、公園のブロック塀に登れば、手をかけて覗き込むことができる。
彼もかかとを上げて、その「窓」を覗き込んでみた。歪んだ格子の隙間、ひどく汚れたアクリル板を通して、かろうじて庫内が見えた。
中は薄暗く、枯葉やほこりで汚れていた。やはり、長い間、誰も立ち入っていないようだ。棚のようなものがあり、古いバケツやモップが転がっている。
当たり前だが、キリンなどいるはずもない。それにあたる形状の物も、見当らなかった。
ただ、なぜか視線を動かすたびに、ほんのわずかに中が揺れて見えた。
空気が動いているような、あるいは自分の目の焦点がおかしくなったような。
それでも彼は「くだらない」と笑って塀を降り、その場を離れた。
その日から数日後、妙な感覚に気づくようになる。
夜道を歩いていると、背中に視線を感じるのだ。
肩越しにふと振り返っても、誰もいない。団地の外灯の光が落ちるコンクリートの道に、自分の影がひとつ伸びているだけ。
それでも、どういうわけか「見下ろされている」気配だけは消えなかった。
ある夜、仕事帰りの遅い時間、エレベーターを待っているときだ。ふと、脇にある階段の踊り場を見上げた。照明が一部切れていて、暗がりに何かが――黒く、細長い影が、壁際に浮かんでいるように見えた。
だがまばたきの間に、それはもう消えていた。
日が経つにつれ、そうした感覚は徐々に馴染んでいった。
ふいに気配を感じても、もう驚かなくなった。彼は、その違和感を特に誰にも話さなかった。言葉にすれば、何かが始まってしまうような気がしたのだ。
9月に入って、子どもたちは学校へ戻った。
不思議なことに、「キリンの首」の話はぴたりとやんだ。
あれだけ騒いでいたのに、誰も話題にしなくなった。
ただ、一度だけ。
秋の終わり、団地内の小さな掲示板の前で、彼は近所の小学生とすれ違った。
その子は彼の顔を見上げて、唐突に言った。
「キリンね、もうずっと、首しかないんだって。かわいそう」
その声には、確かに哀しみのようなものが含まれていた。
でもこちらがなにかを言う前に、その子は別の方へ走っていった。
その晩、彼はベランダに出て、風に揺れる洗濯物の奥に目をやった。
向かいの棟の屋上に、なにか――とても長いものが、すっと姿を滑らせていくのを見た気がした。
それが首だったのか、なにかの影だったのかは、わからない。
ただ、その夜以来、ふとしたときに、目の前の空間を見上げる癖がついた。地上でも、天上でもなく、4〜5メートルほどの宙空に、目が引き寄せられる。今のところ、その癖はなおっていない。
あの物置のことは、それきり誰も話さない。
扉は今も、赤錆にまみれたままだ。
キリンの首 酢豆腐 @Su_udon_bu
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