第8話
陽菜さんは私が差し出したノートをすぐには受け取らなかった。
彼女の視線は鋭い刃物のようにノートの表紙に突き刺さっている。
疑いと拒絶と、そしてほんの少しの好奇心。
「くだらない」
彼女は吐き捨てるように言った。
「どこかで聞きかじったメロディを、それっぽく並べただけでしょ」
その言葉には自分に言い聞かせるような響きがあった。
信じたくない。信じてしまえば自分の心がどうなってしまうかわからない。
そんな恐怖が彼女を頑なにさせているように見えた。
「違います」
私はただ首を横に振ることしかできなかった。
「読んでください。お願いです」
私は深く頭を下げた。
他に私の誠意を示す方法はなかった。
私の必死な姿に陽菜さんの心が少しだけ揺れたのかもしれない。
彼女はしばらくためらった後、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
そして私の手からひったくるようにしてノートを受け取った。
その指先が微かに震えているのを私は見逃さなかった。
パラリと陽菜さんがページをめくる。
そこに現れたのは彼女が決して知るはずのないメロディだった。
私が『月影レコード』で聴き、書き留めた蓮さんが死ぬ直前まで作っていた曲の断片。
次の瞬間、陽菜さんの顔から血の気が引いていくのがわかった。
彼女の目が楽譜に書かれた音符の一つ一つを、信じられない速さで追いかけていく。
彼女は天才的な音楽家だ。
だからこそ瞬時に理解してしまったのだ。
このメロディが紛れもなく蓮のものであること。
そしてこれが自分がライブの最後に歌った曲への、あまりにも悲しい「返歌」であることを。
「……どうして」
陽菜さんの唇からか細い声が漏れた。
「あなたがこれを……」
彼女の声は震えていた。
先ほどまでの敵意は完全に消え失せ、純粋な混乱と驚きだけが残っている。
私は真実を話すわけにはいかなかった。
「彼が残したんです」
私は曖昧に答えるしかなかった。
「私に託して……」
その言葉が引き金になった。
陽菜さんは楽譜のノートを強く胸に抱きしめ、その場に崩れ落ちそうになった。
私は慌てて駆け寄り彼女の華奢な肩を支える。
彼女の体は小刻みに震えていた。
私たちはどちらからともなく近くの小さな公園へと歩き出した。
古びたベンチに二人で腰を下ろす。
陽菜さんはしばらく何も話さなかった。
ただ膝の上に置いた楽譜を、壊れ物を扱うように何度も撫でている。
街灯の頼りない光が彼女の濡れた頬を照らしていた。
やがて彼女はぽつりぽつりと語り始めた。
蓮さんとの思い出を。
彼女の口から語られる蓮さんは、私が田所さんから聞いた姿とは少し違っていた。
才能に溢れ自信家で、いつも人の輪の中心にいたこと。
そのくせ本当は誰よりも脆くて、寂しがり屋だったこと。
彼女が彼を一方的に捨てたのではなく彼の才能の輝きがあまりに強すぎて、隣にいる自分の存在が消えてしまいそうで逃げ出してしまったこと。
「彼を傷つけたとずっと思っていた」
陽菜さんの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「でも違ったの。私の方がずっと怖かったのよ。彼の隣にいたら自分が自分でなくなってしまう。歌えなくなってしまうって、本気でそう思ったの」
それは彼女の魂からの告白だった。
ライブで聴いた彼女の歌そのものだった。
私はただ黙って彼女の話を聞いていた。
どんな言葉をかければいいのかわからなかったからだ。
けれどそれでいいような気もした。
彼女が必要としているのは慰めや同情ではない。ただその苦しい胸の内を吐き出す場所なのだ。
私が彼女の話に耳を傾けている間、頭の中では蓮さんのピアノが静かに、しかし優しく鳴っていた。
それはまるで陽菜さんの告白を、うんうんと頷きながら聞いているかのようだった。
彼の魂はずっと彼女の言葉を待ち続けていたのかもしれない。
どれくらいの時間が経っただろうか。
陽菜さんはしゃくりあげながらも、自分の心をすべて吐き出したようだった。
彼女は乱暴に涙を拭うと決意を秘めた目で私に向き直った。
「わかったわ」
その声にはもう迷いはなかった。
「手伝う。……いいえ、手伝わせてください」
「蓮の最後の曲、私とあなたで完成させましょう」
彼女はそう言って私の手を強く握った。
その手はまだ少し冷たかったが確かな力がこもっていた。
二人の間に初めて確かな絆が生まれた瞬間だった。
私は彼女の手を強く握り返す。
けれど私の心は喜びと同時に、どうしようもない悲しみに締め付けられていた。
知っていたからだ。
この曲の最後の音が紡がれる時、それは蓮さんとの永遠の別れを意味することを。
音を見つけそして愛する人を手放さなければならない、切ない恋の物語。
その物語の登場人物が二人になった。
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