味覚ゼロの元パティシエ、祖母のボロ甘味処を“妖怪カフェ”にしたら行列が止まらない件
☆ほしい
第1話
潮の香りがしない。
バスを降りて、寂れた海辺の町に降り立ったというのに、私の鼻は何も感じ取ってくれなかった。肺を満たすのは、ただの生ぬるい空気だけ。かつては繊細なバニラの香りや、焦がした砂糖の甘い匂いを嗅ぎ分けるのが自慢だったというのに。今となっては、それも遠い昔の話だ。
私の名前は澪。二十六歳。一月前まで、東京の有名パティスリーで、それなりに将来を期待されたパティシエだった。それが、どうしてこんな場所にいるのか。答えは簡単だ。私は、パティシエとして終わったから。
雨の日の夜だった。仕事を終えて、いつものように自転車でアパートへ向かう途中、角から猛スピードで出てきた車にはねられた。幸い、命に別状はなかったし、骨折も軽かった。問題は、頭を打ったことによる後遺症だった。
味覚と、嗅覚。
その二つが、私の世界から綺麗さっぱり消え失せた。
医師は「一時的なものかもしれない」と気休めを言ったけれど、一ヶ月経っても戻る気配はない。味がしない。匂いがしない。それは、パティシエにとって死刑宣告と同じだった。新作の試作も、既存の菓子の味見もできない。クリームの繊細な風味も、フルーツの瑞々しい香りも、私にはもう分からない。職場に居場所がなくなり、逃げるように退職届を出した。
夢も、積み上げてきたキャリアも、恋人も、全部失った。空っぽになった私に残されたのは、先日届いた一通の手紙だけ。ほとんど顔も覚えていない母方の祖母が亡くなり、海辺の町に残した小さな甘味処を相続した、という知らせだった。
「甘味処 黄昏」
バス停から坂道を下り、古びた商店が数軒並ぶ通りに出ると、その店はあった。潮風に晒されて白っぽくなった木製の看板。格子戸は埃をかぶり、ガラスにはひびが入っている。どう見ても、何年も営業しているようには見えなかった。鍵を開けて中に入ると、かびと埃が混じったような、そんな気がする空気が澱んでいた。もちろん、実際に匂いはしない。ただ、目に見える荒れ具合から、脳が勝手に過去の記憶を再生しているだけだ。
カウンター席が五つと、小さなテーブル席が二つ。奥にはこぢんまりとした厨房。棚には、年代物の茶器や菓子器が並んでいる。どれもこれも、分厚い埃のベールをかぶっていた。
「……片付けて、売るしかないか」
ため息と一緒に出た独り言は、しんとした店内に虚しく響いた。不動産屋に連絡して、この店と土地を売れば、少しは生活の足しになるだろう。そうと決まれば、善は急げだ。まずは掃除から。
腕まくりをして、厨房の隅にあった雑巾を手に取った。水道はまだ生きているようで、蛇口をひねると茶色い水が少し出た後、透明な水が流れ出した。それをバケツに汲んで、カウンターから拭き始める。
ごし、ごし。無心で手を動かしていると、少しだけ気が紛れた。何も考えなくていい作業は、今の私にはありがたい。
一通りカウンターを拭き終え、次に棚の上の茶器を下ろそうとした時だった。
棚の隅に、一つだけぽつんと置かれた茶筅(ちゃせん)が目に入った。竹でできた、抹茶を点てるための道具だ。これもまた埃まみれだったが、なぜか妙に気になった。手に取ってみると、使い込まれているのか、竹の色が深い飴色に変わっている。
「これも、捨てるのかな」
そう呟いて、元の場所に戻そうとした、その瞬間。
――こん、こん。
小さな音がした。
え? と思ってあたりを見回す。誰もいない。風の音だろうか。
いや、違う。音はもっと近くから聞こえる。
――こん、こん。
再び、同じ音。私は音の出どころを探して、視線を彷徨わせた。そして、信じられないものを見た。
さっき私が手に取った茶筅が、棚の上で、まるで生きているかのように軽く二度、跳ねたのだ。
「……え?」
幻覚? 疲れているんだ、きっと。私は自分の目を疑い、数回まばたきをした。
しかし、次の瞬間、私の疑念は確信に変わった。
その古びた茶筅は、ゆっくりと穂先をこちらに向けた。まるで、私をじっと観察しているかのように。そして、凛とした、けれどどこか年寄りじみた声が、店の静寂を破った。
『……ようやく来たか、小娘。待ちくたびれたわい』
私の手から、持っていた雑巾が滑り落ちた。声も出ないほどの驚愕の中、私はただ、喋る茶筅を見つめることしかできなかった。
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