第2話 壱
春眠街外れ、壁付近。
軒を連ねるのはそよかぜで崩れそうなあばら家ばかり。
せき込む白髪の老婆がゆっくりとあばら家から現れ、井戸端で着物を水で洗っている。年増の肥えた女たちは誰も聞きやしないのに声を潜めて、何が面白いのか笑っている。
饐えた匂いが当たりを包み、歩けば土ぼこりが立つ。住民の目に光はない。その時、点灯時間になってもぬぐえない影に覆われたこの場所に不似合いな、軽快な足取りの女が歩いてきた。
長い水色の髪を後ろに一つでまとめ、絹のような滑らかな肌を光らせている。濃紺のワンピースをまとった体は女の生き生きとした体の凹凸を浮かび上がらせていた。
道端に座り込んだ餓鬼が、指をくわえながら女の姿を目で追う。よろよろとその後を追う餓鬼もいたが、長くは歩けずすぐに座り込んだ。
しばらく歩いた女は、崩れ落ちた家とも言えないぼろ屋の前に立ち止まった。
「ちょいとー」
女がぼろ屋の前で声を上げる。しかし返事はなく、物音ひとつしない。
「いるのはわかってンだよー」
そう言っても何の声もなく、女は中に足を踏み入れることにした。
どこかの夜鷹が客を取るために使っていたのだろうか。中には腐りかけた茣蓙と甕しかなかった。女は積み重なった埃を気にすることなく足を進める。
木が朽ちる甘い匂いが充満した部屋の片隅に、黒い塊が転がっていた。その塊に、女は近づく。
「ちょいと、そこの」
塊は動かない。女はその塊を揺さぶった。
「おーい」
返事はない。
女は塊を転がす勢いで揺さぶった。
「生きてるかーい」
「……やめてください」
塊は少女だった。
肩口で切りそろえられた黒髪はあちこちに飛び跳ね乱れている。明らかに寝起きの様だったが、長い前髪の間からのぞく目は、刃物のように鋭く女を見据えていた。
それを知ってか知らずか、女は猫をなだめるかのような笑みを浮かべた。
「ごめんねえ、でももう点灯時間からだいぶたってるからねえ。起きてもいいんじゃないのかイ」
「……あなた、誰です?」
いぶかしげに聞く少女に、女はにやっと笑った。
「メーリアって、呼んでおくれな」
「はあ」
「あんたは、なんて名だイ」
少女はさっと起き上がり身を丸めた。その姿は翼を休めているカラスのようでも、こちらを警戒しとびかかる寸前の獣にも見える。どちらにしろ、答える気はない様だ。メーリアはお手上げという風に両手を挙げて見せる。
「はいはい。こっちの手の内全部見せないと安心できないのかイ。わーかった」
メーリアは大きく開いた胸元から小さな包みを取り出すと、少女の目の前に置いた。さっと少女はその包みに視線を向ける。
「怪しいものじゃないよ」
「……」
「あたしはね、あんたを雇いたいのさ。これは前金で、達成した暁には、あんたの言い値を払うサ」
「……おいしい話ですが、私には何の能力もありません。ご期待には沿えないかと」
少女がそう言うと、メーリアはその長いまつげが触れそうなほどに顔を寄せた。
「四灯前、街の方で喧嘩が起こった。なんてことはない男同士の喧嘩だったが、刃物が出たんで大事になりそうだったが、そうはならなかった。男がいきなり倒れちまったンだ」
互いの息がかかる距離でも、少女はひるむことなくメーリアの黄色の瞳を見つめていた。
「男が勝手に倒れちまったと言われてるが、あたしは見たンだよ。ちっさなツブツブが、男にぶつかって爆発すンのを。それで男は伸びちまったンだ」
「それが、どうしました」
メーリアはにやっと口の端を吊り上げる。
「あんたがやったんだろう」
「……」
「あたしは見てたのサ。あんたがその袖口からツブツブを出すのが」
そこで少女はさっと目をふせる。
「知りませんね」
「まあまあ。それがあんたかどうか、ここではっきりさせようとは思わないよ」
メーリアは顔を離すと包みを少女の方へ差し出した。
「できるかは別で、まずあたしの話を聞いておくれ。それの代金がこれということにしよう」
どうだい、とメーリアが少女に目を向けると、少女はじっとりと包みに目をやっていた。
戸惑いではない。困惑でもない。これは、怠惰か。メーリアは少女の感情に見当をつける。少女はこの話を怪しんでいるのではない。この場から立ち上がるのを面倒に思っている。ただそれだけに見えた。
面白いねえ。
メーリアは小さく笑った。
「まあ、数日待つよ。だから」
そう言ったとき、獣のうなり声のようなものが響いた。メーリアは目を丸くすると、少女の腹に目を向けた。二人の間に生ぬるい沈黙が落ちる。
「……飯でも、おごるかイ」
少女はゆっくりとした動きで包みを手にすると、立ち上がった。
「行きましょう」
毅然としたその声に、メーリアは街中に響くほどの笑い声を上げた。
消灯時間前の街は行きかうものも少なく、風の吹く音だけが響く。メーリアは大通りではなく、建物の入り組んだ小道を進んだ。すると何かを煮炊きする匂いがどこからか漂い、女の軽やかな笑い声がかすかに聞こえた。おそらく遊郭の女たちの声だろう。点灯時間が彼女たちの安息の時間なのだ。
「よく食べるねえ」
小さな蕎麦屋で少女は五杯目のそばを平らげていた。
「もう一杯頼むかい?」
「いいえ、このそばぜんざいを三つ」
「あいあい、ちょいとお姉ちゃん」
メーリアは店のものを呼ぼうと右手を上げる。その動きさえ艶っぽいのだから、少女は感心してしまった。
「あんた、袖がそんなに長くて食べにくくないのかイ」
少女のまとう黒衣は袖が長く、箸を持つ手をすっぽりと覆っている。メーリアはいつそばに袖が付くかひやひやしていたが、少女は器用に袖をまとめながらそばをすすっていた。
「メーリアサン」
「メーリアでいいサね」
「私に何をさせる気なんです?」
メーリアは、ただ者ではない。
この街は欲が渦巻く街。ならず者も数え切れぬほどいる。メーリアのしぐさを見ると廓の女のようにも思えるが、こうも自由に動き回れる遊女がいるだろうか。
「あまり目立つことは、できませんよ」
「あんた、やっぱり無法者だね」
無法者。その言葉を聞いた瞬間、湯飲みに添えられていた少女の指がぴくりと動いた。
「最初はどこかの妓楼に売られそうになって逃げたのかと思ったが、あんたの様子を見て違うって確信したよ。あんた、手形なしでここに入ったね?」
「……」
手形。それはここ春眠街に女が出入りするために絶対に必要なものである。
春眠街に男は自由に出入りできるが、女はそうではない。街に入る女はこの街唯一の外とつながる大門で、手形と呼ばれる紙を門番から発行してもらう必要があるのだ。そして街から出る際は、それを門番に見せる必要がある。これは遊女の脱走を防ぐためであり、厳重に守られている規則だった。
その規則を破り、不正に街に入った者、その者たちは無法者と呼ばれている。
「手形がなきゃあ、ここから出られないよねえ」
「……」
「帰りの手形だけ発行するなんてこと、絶対に出来やしないからね。どうしたもんだか」
「脅さなければ引き受けられないようなことを、私に頼もうとしているのですか」
そう言う少女の口調は、全くの他人事のように虚ろだった。この少女はきっと、メーリアが少女のことを警邏に引き渡そうが、無法者であることを使って脅そうがどうだっていいのだろう。
底が知れないねエ、とメーリアは小さく笑う。
「大丈夫さ。ネズミでもできるお遊びさね」
メーリアが言ったそのとき、丁度ぜんざいが運ばれてきた。
この店の主人が生み出したというそばぜんざいは、白玉にそば粉を混ぜ込み、豊かな香りと黒蜜の甘さが売りの人気商品である。ぜんざいを口に入れた少女の顔がほころんだ。甘すぎない味付けは、匙を持つ手を止めさせてくれない。白玉のそばの香りは強くもなく弱くもなく上品に鼻を抜けて行った。
あっという間にぜんざいを平らげた少女は、ほっと息をついた。
「あンたの腹は楼閣の外につながってるのかねえ」
しげしげとメーリアは少女の体を眺めた。
「それで」
とん、と少女は空の湯飲みを置いた。
「ネズミでもできるお遊びの内容を聞きましょうか」
「ああ、そうだね」
メーリアは店の者に金を払うと立ち上がった。
「場所を変えようか」
メーリアは細い路地の、さらに奥深くへ進んでいく。同じ景色が延々と続く路地は、抜け出せない迷路のようだった。
路地を何度も曲がり、たどり着いたのは何かの建物の裏口だった。少女は建物を見上げるが、何の特徴もないこの建物が何かわからない。
促され入ると、そこには板張りの廊下がまっすぐに伸びており、香のような何かの匂いがふわりとかすかに漂っていた。
「こっちだ」
メーリアは裏口のすぐそばの扉を開け、少女を招く。扉はぎしぎしと音を立て、少女一人を苦労して中に入れた。
その部屋に入った瞬間、少女はわずかに眉をひそめた。
薄暗く狭い板張りの部屋には、横たわる一人の女の姿があった。
「亡くなっているのですか」
少女が問うと、メーリアは頷く。
「ああ」
全身を白布で覆われた女の、わずかに見える手は蠟のように赤みを失っていた。
「これを見てみな」
メーリアはその女のそばにしゃがみ込むと、少女に向かって手招きした。少女は女を挟んでメーリアの向かいにしゃがむ。メーリアは女を覆う白布をわずかにはだけ、女のまとう着物の帯をほどいて行く。表情を変えずにその様子を見ていた少女の目に、女の腹部がさらされた。
「……」
腹部を見た少女は眉を大きくひそめた。
「驚いたかい」
メーリアは静かに少女に問う。
「どうなっているんです?」
「見たまんまさ」
女の腹部は中身がないかのように厚みがなく、皮が所々引きつっていた。よく見れば糸で縫われているらしく、縫い目が縦横無尽に走っている。
「腹の中身を引きずり出されていてね、元通りに出来なかったんだ。それでこんな風になっているわけなんだが」
「縫った方はあまり腕が良くなかったらしいですね」
「まあまあ、そう言いなさんな」
メーリアはまた女に着物を着せ、白布を直した。
「この子は客と一緒に寝ていたんだが、朝になったら腹を引き裂かれて、臓物を引きずり出されていたんだ。客はそりゃあもう驚いて騒いでいたんだが、なんとかなだめて他にもらさないように言ってある。このことを知っているのは、ここの主と数人の雇人と、あたしとあんただけだ」
「……はあ」
「さて、ここからがお遊びの内容だ」
部屋にわだかまる闇の中に、メーリアの指が一本浮かび上がった。
「下手人を、捕えておくれ」
少女はメーリアをじっと見つめる。
「あの喧嘩を見た時、ピンっときたのサ。あンたならどうにかできるってネ」
少女は何も言わない。何もない黒い瞳でメーリアを見つめている。
「寝床を用意しよう。飯もつけるよ。どうだい?」
息の詰まるような沈黙が流れる。しかしメーリアはひるむことなく少女の目を見返す。
ふいに、少女が目をそらした。
「いいですよ」
メーリアの顔が、ぱっと喜びに染まる。
「本当かイ!」
「捕まえられるかどうかは、わかりませんよ。それでもいいですか」
「もちろんだよ」
部屋の小さな窓から光が消えて行く。もうすぐ消灯時間が訪れるのだ。
少女を裏口から送り出しながら、メーリアは気が付いたように言った。
「そう言えばあンた、名前はなんて言うんだイ」
少女は消灯時間の闇に、まとった黒衣を溶かしながら答える。
「
数日後。
春眠街の三大妓楼が一角、
楼閣 二百二十二階楼 虚鏡 @miots-unokagami
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