次こそは……
白洲尚哉
第1話 次こそは……
最近、武彦が姿をまったく見せないらしい、と同期の祐太から聞いた。
僕、裕太、武彦は、同じ大学の釣りサークルのメンバーだ。武彦は僕たちの一つ下の後輩で、裕太が言うにはここ数週間、大学にまったく来ていないらしい。
「病気かなんかなのかな」
彼は体格に恵まれた、アクティブとアウトドアとバイタリティを体現するような子だ。彼が病気というのは、あまり想像できない。
「そう思って、下の子らが連絡したらしんだけど、電話にも出ないしLINEも未読らしい」
「家は?」
彼は地方から出てきた下宿生で、一人暮らしをしていたはずだ。
「家にも行ったらしいけど、インターホン鳴らしても反応なし。ポストには郵便が大量に溜まってたってさ」
「……まさか、失踪?」
「考えたくもないけど、それが一番現実的なんだよな」
釣りサークルの部室でそういう話をしていると、がちゃ、と部室のドアが開いた。
「お疲れ様でーす」
入って来たのは、一つ下の後輩、和也だ。武彦の同期で、学科も同じだ。
「なんの話してたんですか?」
「武彦の話だよ。ほら、消息不明らしいじゃん」
「ああ、武彦。確かに最近学校でも見ないですね」
「さすがに何週間も来てないとなると、そろそろ親に連絡入るんじゃないか」
「そうですね……あ、でも、この前武彦見かけましたよ」
その言葉に、僕と裕太は驚きの声を上げた。そして次の言葉は揃って、
「どこで?」「どこにいた?」
という質問だった。
「この前、渓流釣りに行こうと山に登ったんですけど……」
と前置きして、和也は話し出した。
和也が渓流釣りに行ったのは、三日ほど前のことだ。武彦が大学に来なくなって、二週間ほど経ったあたりだ。
和也が昇った山は大学から少し遠いところにある小高い山で、深くまで入ると、山女魚が釣れるとの噂だった。
その山に登ろうと釣り道具を背負って、遊歩道から山道に入ると、脇に川が流れるのが見える。雨が降ったあとだったから、水かさは増えていて少し濁っていたらしい。
川を左手に見ながら歩いていると、河原に下りられる石の階段がある。
和也はそこに下りて、河原を歩いて上流に向かった。
「上流に向かうときに、デカい淵があるんですよ。そこだけ澱んでて」
「うん」
「そこに武彦がいたんです」
武彦は、岩の上に座って釣り糸を垂れていたという。
「武彦……なのか?」
最初、和也はその人物が武彦とは思えなかったらしい。その顔も体も病的に痩せていて、日焼けした肌に似合わないほど頬がこけ、濃い隈が圧倒的に寝不足であることを物語っていた。
声をかけたが、彼は最初返事をしなかった。
「武彦、武彦」
と何度か声をかけて、やっとこっちを向いたとき、
武彦の釣り竿がびくん、びくんと震えた。
武彦は糸を巻いて竿を上げた。釣り針に魚はついていなかった。
「あぁ、クソッ……。ん、誰だ?」
「俺だよ。和也」
「なんだ……。チッ、釣れそうだったのに、話しかけんなよ」
その口調は、陽気な武彦とは正反対に位置するものだった。妙にイライラしていて、焦っているような雰囲気もあったという。
「そりゃ悪いことしたけど。武彦、最近学校来てないだろ」
武彦はぎろりとぎらぎらした目を和也に向けて、言った。
「だから、なんだ」
和也はその理由を訊いた。武彦は骨と皮だけの手で首筋をぽりぽり掻きながら、面倒くさそうに言った。
「コイ、狙ってるんだよ」
「コイ?」
「ああ、次こそは、絶対に釣ってやる」
武彦は釣り糸をふたたび垂らして、長いこと黙っていたが、しばらくして語り出した。ぽつりぽつりと、かつてのはきはきした印象を全て失ったぼそぼそ声で。
武彦は、この淵にいる大きなコイを狙っているらしい。
そのコイは一メートルを超える巨大なノゴイで、この淵のヌシのようなものと見られる。
武彦は二週間前、この淵でそれを釣り上げ、陸に上げようとしたときに針から外れ、逃がしたのだという。
「次こそは」
そのコイに武彦は惹きつけられ、次こそは、次こそは、と何度もこの淵に通っては釣り糸を垂らしていたという。
そのコイは、朝に見かけることもあれば真夜中に針にかかることもあり、神出鬼没だった。
「大学に行ってたら、やつを釣れない」
武彦はそれがまるで正しいことであるかのように言ったという。
「絶対に、絶対に釣ってやる」
武彦はそれだけ言って、水面の向こうのコイを見つめるように、ただ無言で淵を睨んでいたという。
「ってことは、いまもその淵に武彦はいるのか」
「……だと思います」
僕と裕太は顔を見合わせた。そして、頷き合った。
その日の晩、僕と裕太はライトを持ってその淵へと向かった。
夜の山道は思ったよりも騒々しくて、色々な音がした。風が木々を揺らして木の葉がざわめき、草むらの向こうで何かが動いた音がするといちいちびっくりしたが、なんとか淵にたどり着いた。
「あれか」
「そうだろうね」
暗闇に目が慣れてきたのか、ライトを照らさなくてもそこに人影があるのが分かった。
その人影は、釣り糸を垂らして微動だにしない。
「おい、武彦」
裕太が声をかけた。
しかしその人影は反応しない。
遠慮がちに、僕はライトを照らしてみた。その人影のほうに向けると、暗闇のなかに彼の顔が浮かび上がる。
ぞっとするほど、痩せて、生気を失った顔。二つついた目だけが、ぎらぎらと異様な光を放って、淵を凝視している。
「う……なんだ?」
「おい、俺だよ」
「ああ……なんですか。いま忙しいんですよ」
武彦は裕太のほうを一瞥してそう言うと、また淵のほうを向く。
と、そのときだった。
武彦の釣り竿がびくん、と跳ねた。
「かかった!」
武彦の目が一層輝き、ぎらつきを増す。
武彦は竿をしゃくると、リールをゆっくりと回し始める。よっぽど引きが強いのか、武彦の額には大粒の汗が浮かび、細くなった腕を目一杯強張らせて、糸を巻き上げている。
ぎりり、ぎりり、とリールが悲鳴を上げている。
それでも、武彦のほうが強かったらしい。
糸は着実に巻き上げられ、ぶんっと武彦が竿を上げると、糸の先には魚がかかっていた。
一メートルを優に超える、化け物のようなコイだ。
「やった! やった!」
武彦は釣りあげたコイを糸から外そうと、陸に置いた。
そのとき、コイが力強く跳ねた。
「あっ! 落ちる!」
コイが淵に落ちそうになるのを追って、武彦が岩から飛び込もうとする。
「待て!」
その刹那、裕太が駆け出して、岩に飛び乗った。すんでのところで武彦の足を掴んだ。
ばっしゃあん
大きな飛沫を上げてコイが淵に落ちて行く。
「コイが、コイがッ」
裕太はわめく武彦を引っ張り上げた。
武彦のわめき声、裕太の叱る声、そのなかに、一つ違う声があった。
「クヤシイ、クヤシイ……ツギコソハ……」
その声は暗闇が溶けこんだような、淵の向こうから聞こえた気がした。
その晩から五日が経過した。
武彦はとうとう、本当に消息不明となった。
あの淵には、釣り竿だけが残されていた。
あの淵の向こうの声の主は、とうとう達成したのかもしれない。
後日、武彦のものらしい靴が見つかった。
食べ残し、という表現が頭に浮かんで、僕はぞっとした。
その表現は、あまりに適切だった。適切すぎた。それだけに戦慄を覚えた。悪寒が止まらなかった。
あの淵に棲む何かは、次もまた、誰かを釣ろうとするのだろうか。
すべての真相は深い淵の底にある。でも、僕はそれを覗く気にはとうていなれそうにない。
次こそは…… 白洲尚哉 @funatuki
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