竜と俺

さくや

プロローグ

 生き物は、遺伝子の乗り物である。


リチャード・ドーキンスの言葉だ。


「おら、早くどけって」


 放課後、中学生男子の群れが、うずくまっている俺の背中をぐいぐいと靴の先端で押し込んでいる。


骨に直撃していて、とても痛い。


俺の影の下には、子猫を庇っている母猫がいる。


かなり警戒しているのか、さっきからずっと威嚇大勢だ。


人間は生存本能の入れ物に過ぎず、行動というシステムは、遺伝子という司令塔によって自分という皮が操られているだけである。


残酷さも、嫌悪感も、倦怠感も、慈悲深さも、愛おしさも、優しさも。


所詮子孫を繁殖させるために、遺伝子という存在が我々に跨っているだけなのだ。


今俺が猫を庇っているのも、例外ではない。


「子猫を撫でようとしただけじゃん。そこまですることある?頭おかしいんじゃないの?」


そんなことを言いながら、背後からは中学生一人が何度も俺の背中を蹴り、残り二人の中学生はそれを見ながらくすくすと笑っている。


このままこいつらが諦めるまで粘ろう。


夕暮れになっても、夜が明けても、決してこの場から動いてはならない。


子猫が俺を見上げながら微かな鳴き声を上げる。


「大丈夫だよ、お腹がすくかもだけど、もうちょっとだけ待っててね」


 猫は人間の言葉が理解できない。


俺は何をしてるんだろう。


全くばかばかしい。


「ちょっと、何やってるの!!!」


 遠くから女の子の声が聞こえてくる。


中学生の群れは法律的処置を恐れたのか、声が聞こえた途端一目散に去っていった。


完全に足音が消えたのを確認してから、僕は体をゆっくりと起こす。


子猫と母猫は、解放された途端振り向きもせず、肉球でてくてくと地面を蹴りながら住処に帰っていった。


「もう、きょうちゃん制服ボロボロだよ、なんでこんなことしたの?」


声の正体は、幼馴染の那月(なつき)だった。


 彼女は膝を曲げて、脚の力が抜けきっている俺に目線を合わせて俺を叱ろうとしていた。


「だって、母猫がすごく嫌がってた。でもあいつら、それでも子猫に触ろうとして」


 那月は深くため息をついた。


「間違った行動とは思わないけど、お願いだからきょうちゃん自身も大事にしてよ」


 俺息継ぎをしてから、小さくごめんと呟いた。


「お家まで一人で歩ける?おんぶ要る?」


「要るわけないでしょ」


俺の反応を見て、彼女は何が面白いのか分らんがクスクスと笑う。


「帰ろっか!」


彼女は後ろを向いて、脚を弾ませながら帰り道に向かっていた。


そして何かを思い出したかのように振り返る。


「言い忘れたけど、私、きょうちゃんのそう言うところ、結構好きだよ」


そういった後、彼女は僕の方を向いてにこっと笑った。


突然の言葉に脳の処理が遅れる。


そして再び動き出したときは、感情が熱々にオーバーヒートして、生きてきた中で最も大きい声で、はぁ!?!?という言葉が漏れ、耳が瞬時に熱くなった。


空が橙色に染まり、彼女は髪をなびかせながら再び歩き出す。


僕の初恋の始まりだった。














 













「きょうちゃん!」


モヤのかかった女性の声が聞こえる。


目の前には果てしなく暗闇が続き、所々に光の粒子のようなものが浮いている。


「きょうちゃん!」


少ししてから、これが瞼による暗闇だってことに気付く。


俺はゆっくりと目を開けた。


見慣れた真っ白な天井が目の前に広がり、柑橘系の香りが鼻の周りをなぞる。


もう朝か。


俺は右を向く。


那月が小さくて白い手で、俺の体を揺らしていた。


俺は干からびた真っ黒な目で無理やり笑顔を作り、持ち前の枯れ声で彼女に朝一の声をかけた。


「おはよう、今日も可愛いね」


言った直後に後悔が押し寄せてくる。


喉からポニーを吐き出した気分だ。


そんなことを思ったが、それを聞いた彼女が満面の笑みを浮かべると、後悔は再び押し流された。


「いつもより起きるの遅いし、声もがらがらだよ。最近ちゃんと眠れてる?」


「俺が元気だったことなんて一度でもあったか」


 俺は布団を払って洗面台に向かった。


もう二週間くらい髭を剃っていないせいか、顔の清潔感が損なわれている。


昔から身長は高かったが、今や百八十五センチを超し、高校の時ついた筋肉はまだ抜け落ちていないところも相まって、俺の見た目は、もはやただのでかいおっさんになってしまっていた。


とても十九歳には見えない。


髭のじゃりじゃりした感覚を少し楽しんでから、伸びた髪を結んだ。


下手くそなハーフアップが完成した。


洗面台を出るや否や那月が口を開いた。


「きょうちゃん髭伸びすぎて野球部の髪型引っ付けてるみたいだよ。髪もそろそろ切ったら?」


 最悪な喩えだが、余りにも的確なためなのにも言い返せない。


「美容院は苦手だ。ちょくちょく話しかけてくるし、気が散る」


 最も、俺が話すのが下手くそなだけだが。


「俺着替えるから、先出てていいよ」


 那月は元気よく返事をして、玄関前に向かった。


時計に目をやる。


大学の講義開始までまだ五十分残っている。


俺は黒いTシャツと黒のグラデーションデニムを身に着けて玄関に足を運んだ。




講義室につくと、中はいつも通りの人数が、いつも通り騒いでいて、いつも通り講義が始まった。


平和な日常の兆しを感じる。


俺は頬杖をついて、講義の内容を片耳で聞き、もう片方の耳で聞き流していた。


那月は楽しそうな顔をしながら薄いピンクのネイルで、俺の太ももをつついている。


痛いからやめろ。




講義が終わると、那月と俺は行きつけのファーストフード店に向かっていた。


日差しが丁度よく、熱くもなく寒くもない、とてもいい天気だった。


「あれ!?那月!」


 後ろからチャラチャラした女性の声が聞こえる。


ああ、嫌な予感がしてきた。


「はるちゃん!?こんなところで何してるの!」


 やっぱりだ、声の正体は那月の幼馴染の春野だった。


那月が楽しく話すのに俺は全く不快感は感じない。


でも、近くで女性同士のコミュニティが出来上がってしまったとき、陰キャは基本隅に追いやられ、身動きが取れなくなってしまうのだ。


「後ろの人はお父さん?」


 俺の肩がびくっと動く。


那月が頑張って笑いをこらえているのが目に入った。


「きょうちゃんだよ、大きくなったでしょ~」


「え!?京介!?なんかめっちゃ老けてない?」


 春野が嘲りを混じりつつ言葉を吐いた。


「あ、そ、そうっすね」


 畜生、那月以外の人と話すのが久しぶりすぎてまとも口が開かん。


那月が右肩の真下でクスクスと笑っている。


ああ、誰か、俺を助けてくれ。


天を仰いだ。




「それじゃ、行ってくる。いい子にしてるんだぞ、那月」


「うん!きょうちゃんも気を付けてね、愛してるよ」


 俺は彼女に笑顔を向けて玄関を閉めた。


俺は彼女に一つ嘘をついた。


今日から三日間、俺を育ててくれたばあちゃんの様子を見に、実家に帰る日である。


でも、その三日間と那月の誕生日が被ってしまったのだ。


よって、那月には、誕生日は一緒にいられないと伝えてしまった。


でもばあちゃんは那月と昔から仲がいいので、私の世話する暇あったら、那月ちゃんの誕生日一緒に祝ってあげんかいって怒鳴られた。


ので、帰るのが一日早くなり、那月の誕生日には一緒にいられるが、ちょっとした気まぐれで、今年は那月にサプライズをすることにした。


驚いた顔が楽しみだぜ、へへ。




「おばあちゃん、ただいま」


 ばあちゃんが驚かないよう、玄関をそっと閉じた。


「京介!帰ってきたか!」


「あいっかわらず、ばあちゃんは元気だな」


「おうよ、お前みたいな無気力な奴と一緒にするんじゃないわい」


 ばあちゃんが元気なところを見ると、毎回安心する。


ばあちゃんも、父ちゃん母ちゃんみたいに、急に俺のそばからいなくなるんじゃないか怖くて、時々眠れなくなる日がある。


だからばあちゃんが元気な姿を見て、元気をもらえた。




「那月ちゃんは元気かい?」


 実家の懐かしい匂いと空気にとともに、ばあちゃんと俺は夕食をとっている。


料理は俺がするって言ったのに、ばあちゃんは意地でも料理を作りたがり、仕方なくばあちゃんに夕食の用意をさせてもらった。


「元気だよ、うざいくらい」


「そうかい、ならよかった」


 気まずい空気が流れ、俺はそれを誤魔化すためにひたすらジャガイモを咀嚼する。


味には全く集中できなかった。


「那月ちゃんは、ばあちゃんが大変な時も、ずっと助けてくれて、きょうちゃんの世話もしてやったからなぁ」


 ばあちゃんの目じりが緩んでいるのが見えた。


「せやから、もし泣かせたらしばくで」


 気のせいだったようだ。


ばあちゃんが笑い出す。


「きょうちゃんは自分が困ってるときでも、いっつも他の人のことばっか考えてたのに、那月ちゃんにだけ冷たくて心配だよ」


「一応愛してるって毎日言ってるよ...」


 俺は語尾を掻き消しながら言った。


ばあちゃんが驚いたのか瞼を大きく開く。


「ほんとに!?それなら心配ないな!ばあちゃんも一安心だわ!」


俺達は再び箸を動かした。




「このケーキを一つお願いします」


 那月の誕生日になった。


ケーキは那月が一番好きなケーキである、生クリームがたっぷり乗ったケーキを買っていく。


外はかなり曇っていて、帰る途中に雨が降らないか少し不安になる気色を帯びていた。


誕生日プレゼントは、三ヶ月死ぬ気でバイトして買った高級ブランドのヘアアイロンである。


準備は万端なはずなのに、なんだか少し怖い。


急に入っていったりしたら、びっくりしないかな?


やっぱり先に電話した方がいいかな?


いや、それだとサプライズにならないか。


そんなことを思いながら歩いていると、いつの間にか玄関の前についた。


サプライズの仕方がよくわからなかったので、静かーに玄関を開いて、那月がいつも寝っ転がってるであろう白い布団に覆われたベッドの方に目を向けると、上半身を脱いでいる男に、那月が押し倒されていた。


俺の脳が視覚情報の処理に追いつかない。


那月の慌てている声が、曇って聞こえる。


少しして気づく、僕は浮気をされたのだ。


激しい虚無感と怒りが心を占める。


意識や理性が入る余地なんてない程、深く。


とるべき行動がわからなかった俺は、取り合えずドアを思いっきり閉め、荷物を玄関前に置き、逃げ出すように遠くに向かって走った。


目的地は決めていない。


でも、逃げ出したかった、誰一人として僕を知らない場所に向かって。


そんな僕をさらに悲しみの奥底に突き落とすように、強い雨が頭上から降り注ぎ始めた。




疲れ果てて今にも倒れそうな足取りで彷徨っているいると、公園のベンチを見つけた。


身体を休ませたかった俺は、見るや否やベンチに腰掛ける。


俺はやっと心の処理が追いつき、泣き出した。


赤ん坊にように、醜く。


生き物は遺伝子の乗り物である。


生き物の起こす行動は、所詮繁殖を栄えさせるためのツールに過ぎないのだ。


那月が俺を愛したのも、僕より理想の遺伝子を持った男にこっそりと股を開いたのも。


残酷で無情だ。


こんな世界、もう嫌だ。


トラックが霧を彷徨う野獣のように目を光らせてこっちに向かってくる。


俺はそれを見るや否や車道に身を投げ、自死する事を選んだ。










 













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