貴女のその笑顔、それが私の心を滅茶苦茶にさせる

砂山 海

貴女のその笑顔、それが私の心を滅茶苦茶にさせる

 同僚にちょっと苦手な人がいる。川上伊空という同期入社の女性だ。

 苦手と言っても別に悪い要素は無い。悪口は言わないし、高圧的でもない。ズルをしたりおべっかを使ったり仕事が壊滅的にできないとか、そういう人じゃない。むしろ逆だ。仕事も出来るし、極めて真面目で大人しい。

 じゃあ何故苦手なのか。

 会話が無いのだ。

 一切口を開かないというわけじゃない。仕事上の話はするし、話しかければ相槌を打ったり返事をしたりする。でも、自分の話題を一切しない。そういう話を振られても、上手くはぐらかすのだ。いつも。

 最初はみんな気を遣って彼女に話しかけたりしていた。けれどいつもそんな感じなので次第に話しかける事が減り、一年経った今では業務以外では話さない。嫌っているというよりは、そういう人なんだなと私含め理解していると言った感じだろうか。

 きっとプライベートと会社を完全に切り離したい人なのだろう。まぁ、会社は仕事をしてお金を稼ぐ場所と割り切っている人は多いし、私だって何でもかんでも話しているわけじゃない。だからまぁ、そのもっと凄い版なのだろうと解釈しているのだが、それにしては腑に落ちない事がある。

 彼女、会社の飲み会には必ず参加するのだ。

 いやそれだって別に悪い事じゃない。むしろ毎月親睦会費として給料から引かれているのだから、参加しなければ損なのだ。だから元を取ろうと考えているのかもしれないし、飲み会だって仕事のうちだと思って参加しているのかもしれない。

 ただ、いつも参加しては隅っこで黙って飲み食いしている姿を見かけるだけ。話しかけても、曖昧に微笑むばかり。それだって自由なんだけど、折角参加するのなら楽しくお喋りして打ち解けて、親睦を深めていった方がいいのになと個人的には思う。

 ちなみにうちの会社、年四回は懇親目的と言って公式の飲み会がある。社長や幹部連中がそういう世代なので仕方ないと思っているけど、その分ちょっといい所で飲み食いできるのが嬉しかったりもする。それに私はお酒も好きだし、色んな人と交流するのも好きだから。

 前時代的だとかタイパコスパが悪いだとか色々言う同僚や先輩もそれなりに多い。でも私は普段行けない飲み屋や焼き肉屋なんかに行けるし、全種類食べ飲み放題なんてコースは給料が出たとしてもちょっとためらってしまう。だから結構楽しみなのだ。



「来月の懇親会は焼肉だからな。参加する人は今週中に教えてくれよ」

 朝礼で課長がそう言うと、おぉっと歓喜のざわめきが起こった。何故なら飲み放題含めて一人当たり八千円くらいの場所に連れて行ってもらえるからだ。だから友達とかと行く場所よりは結構良いので、素直に嬉しい。

 朝礼が終わると、早速課長の元へ参加を表明する人が集まった。参加はもちろんするけど、別に先着で良いものが当たるわけでもないから落ち着いた時にでも言おうと席に戻ろうとした時だった。

 あ……どうしよ。

 偶然川上さんと目が合ってしまった。何となくそのまま視線を切ってしまうのは感じ悪いかな、なんて思ってしまい私はとりあえず微笑むと彼女の方へ歩み寄る。

「川上さんも行くの?」

「うん、参加しようかな」

 地味な見た目と同じく、落ち着いた声のトーン。不潔な感じはしないし、むしろ髪の艶は良い方なのに、重たげな黒髪をストンと肩まで伸ばしているだけなので陰気に見える。前髪も目にかかるほどで、大きな丸眼鏡もそれに拍車をかけている気がして仕方ない。

「やっぱり。川上さん、毎回参加しているもんね。会社の飲み会って結構良い場所に連れて行ってくれるから、私地味に毎回楽しみなんだ」

「そうだよね。私もいつも楽しみにしているよ」

 あれ、今日はなんかいつもより会話してくれるな。

 そんなふとした嬉しさが適当な所で会話を切り上げようと思っていた私の心をくすぐり、自然と次の言葉を発していた。

「次は焼肉って課長言ってたでしょ。私さ、魚より肉派だから楽しみで。川上さんはどっちのが好き?」

「どっちも好きだけど、どちらかと言えば肉かな。前に会社で行った焼肉屋さんも美味しかったから、同じ所だとしても楽しみなんだよね」

 少し離れた場所では課長と先輩達がまだ雑談している。だから私ももう少しだけ川上さんと話してもいいかな、なんて時計の針を見ながら罪悪感を軽くしていた。

「あー、前のも美味しかったよね。しかも全種類食べ放題。上の人達って割とすぐに食べなくなっちゃうけど、前は私結構食べたよ。しかも高そうな肉ばかり」

「私も。なかなか霜降りカルビとか花咲きロースとか食べられないから」

 すると不意にちょっとだけ彼女が微笑んだ。それは照れ隠しだったのかもしれない。でも、滅多に見られないその笑顔ともいえぬ笑顔は驚きと共に、私の胸に強く刺さった。

 え……こんな顔するんだ。

 それが妙に印象的で、別に鉄仮面ではないと知っていたにもかかわらず不意に微笑んだ彼女の顔に私は胸の奥を鷲づかみにされたかのよう。甘く苦しく痺れ、普段そう思った事は無いけどとても可愛く見える。

 なに、これ……え、ヤバい。川上さんの笑顔、すごくいい。

 思わずニヤついてしまいそうになるのを何とか堪え、私は何でもないかのように話を続ける。

「そうだね、私もなかなかそういうのは自分じゃ食べられないかな。ところで川上さん、あまりお酒飲んでいるイメージ無いけど全く飲めない人? それともちょっと飲めたりするの?」

「私、会社の飲み会ではほとんど飲まないようにしているんだ。でもまぁ、人並みには飲めると思う」

 お酒が飲める。それを聞けただけで私のテンションが一段階上った。

「えー、そうなんだ。じゃあ今度一緒に飲もうよ」

「そうだね。あ、そろそろ」

 川上さんが課長たちの方へ目を向けたので私も向ければ、その周囲に集まっていた人達もほぼ解散しており、遅まきながら始業開始の雰囲気が漂い始めていた。思いがけず楽しく話せていたからもっと話したいと思っていたけど、さすがにタイムリミットだ。

「じゃあ、また」

 そう言うと私は自分の席に戻った。

 それにしても……。

 私はパソコンでメールをチェックしながら先程の会話を思い返していた。いつもなら素っ気ない感じで終わるのに、今日は思ったよりも楽しく話せた。何が彼女の琴線に触れてそうなったのかわからないけど、でも悪い気はしない。

 いやむしろ、ドキドキさせられてしまった。思いがけず楽しく会話が出来た気がするし、もっと話したいとすら思ってしまった。いつもよりほんのちょっとだけ柔らかかった彼女の表情に心動かされ、自然と仲良くなりたいと思ってしまった私がいる。

 でも悪い気分じゃない。次の飲み会、なんだかちょっといつもより楽しみかも。



 業務終了後、私達は以前話のあった会社の飲み会としてとある焼肉屋に集まっていた。

 繁華街の中心部にあるビルの六階、そこが会場。およそ五十人ほど参加しており、参加率は七割程度だと上司が言っていた。店内はほぼ貸し切りで、周りを見渡せば役職者はほとんど揃っている。

「ではみなさん、日頃お疲れ様です。今日は楽しく盛り上がって、また来週から頑張りましょう。それでは乾杯」

 社長の音頭で始まるや否や、各テーブルでみんなお酒を飲んだり肉を焼いたりし始めた。私達のテーブルは同じ部署の人間で固まっており、川上さんも当然一緒にいる。肉の焼ける音、食欲を刺激する匂い、そしてまだ肉が焼けていないからすきっ腹に響くアルコール。こういう雰囲気が私には楽しい。

 本来ならばこういう場で各テーブルに出向いてお酌をしつつ、アピールする方がいいのはわかっている。出世意欲のある三杉君は毎回そうしているが、私にはそこまでできない。普段食べ慣れない肉を食べず出世アピールするなんてごめんだ。

 だって課長を見ているとどうにも出世しようなんて気になれないからだ。役職手当は出るみたいだけど残業代はつかないみたいだし、責任も重い。仕事だって人一倍こなし、上からあれこれ言われ下の面倒を見て責任取って……おまけに有給休暇だってあまり取れていないみたいだから、魅力がない。あるわけない。

 それよりはほどほどの給料で気楽にやるのが一番だ。こういう考えは私の周りにも多いし、世の中も多分そう。頑張ったってそんなに報われないのなら、頑張る必要が無い。だから私は焼肉に集中する。

 そして川上さんとこれを機に仲良くなりたいのだが……。

「石森さん、ほら焼けたよ。食べるでしょ」

「ありがとー」

「今日はたくさん飲もうよ。前回の飲み会でも結構いい飲みっぷりだったからね、石森さん。今回は負けないぞー」

「いやいや、田中君お酒弱いくせに無理しないでよ」

 同僚の男子達の元気が凄い。普段はノリが良くて頼もしい人達なのだが、川上さんと話したい私にとって今日は割とウザい。でも私も私でそういうノリが嫌いではないし、つい合わせちゃうから向こうも盛り上がる。

 だけどそうしつつも、今日は川上さんにも気遣いしないと。だって今日は楽しもうねなんて言っていたのにロクに話しもしないままほったらかしにしていたら、どう思われるかわからない。失望されるかも。それはそれで嫌だ。

 今日は大変な夜になりそうだなぁ……。

 そんな私の杞憂は開始三十分で吹き飛んだ。お酒も入り肉も美味しく、すっかり私はハイテンション。同僚の男子と乾杯し、あおりあおられ。でもしょうがない。だって楽しいし仕方ないのだから。それに他のテーブルも大体こんな感じ。もうこの盛り上がりに参加できない方がよくないんじゃないかな。

「ちょっとトイレ」

「あ、俺も」

 田中君が立ち上がり、梶尾君が続く。

「仲良しかよ」

 同僚の男子が揃って席を外すと、私は軽口を叩いた喉を潤すようにレモンサワーを飲む。そしてお皿に残っていた上ハラミを焼こうとトングを持とうとしたところ、ふと隣にいる川上さんを思い出して慌てて振り向いた。

「あ、どうかな、食べてる?」

 川上さんはいつものように淡々とした様子で静かにうなずいた。

「食べてるよ」

「お酒は飲んでいる?」

「最初のレモンサワーくらいかな。こういう場であまり酔うのって苦手だから」

 その微笑みに私は何故か胸をえぐられた。

 別に言及されていないし、そんなトーンで言われたわけじゃないんだけど、何故だかほったらかしにされていたという怒りと哀しみを感じ取ったから。表情からも声の感じからも汲み取れない、不思議な感覚。でも私は鋭敏にそれを感じてしまい、彼女の方へ身体を向けた。

「ごめん川上さん、今から一緒に飲もうよ」

「え、でも私はほどほどでいいから。それにもう少ししたら田中君とかも戻ってくるだろうし。それに私はみんなのやり取りを聞いているだけで楽しいから」

 嘘ではないのかもしれない。でも約束していた罪悪感からか、それとももっと楽しんで欲しいという私のワガママからか心が全部彼女に向いてしまう。

「いいのいいの、あんなのは。男同士、楽しく肉焼いていたらすぐ忘れるから」

「うーん、でも私が石森さん取っちゃったらどう思われるかなぁ」

 やや不安げな川上さんは曖昧に微笑む。別に何も思われないと思うけど、いつも雑談とかしないからどうしたと注目されるのが嫌なのかもしれない。

「大丈夫だよ、心配しなくても。田中君達だって」

「うぃーっす、戻りました。肉焼けてますか? あっ、なになに石森さん、川上さんと話してるの? 川上さん、食べてるー?」

「あ、うん。食べてるよ」

 いい所だったのに騒がしい二人が返ってきたため、もう台無し。元気が良いんじゃなく、もうこうなったら面倒臭い酔っ払いだ。川上さんもどこか委縮してしまい、曖昧に笑うばかりになってしまっている。

「上ハラミ焼けてるから食べて食べて。どうせ食べ放題なんだから、どんどん焼いてくよ。ほらもっと田中君、お酒飲んで。トイレ行ってる間に私は一杯飲んだからね」

 もちろん嘘だ、一口しか飲んでいない。でも田中君は虚ろな目で驚いている。

「えーマジで? んじゃあ俺も飲み干さないと」

「無理はしないでよ」

 その言葉を半分も聞かないうちに田中君がグラスを大きく傾けて一気に飲む。そうしてあとちょっと残っている所で口を離すと、真っ赤な顔をしながらだらしなく笑った。

「大丈夫大丈夫、全然いけるから。あー、川上さん飲んでる? グラス減ってる、それ?」

「いや、私はほどほどでいいから」

 矛先を向けないようにしていたのに、川上さんに向いてしまった。これは面倒臭いなと思っていると、田中君の隣にいた梶尾君がその肩に手を回した。

「まぁまぁ田中、俺と飲もうよ。男同士、ガツンと飲んで絆深めようぜ」

「お、おぉー、そうだな。飲むかぁー」

 梶尾君が田中君の気を逸らすと、私に向けてニカッと笑った。悪い人ではないし頼りになる同僚ではあるものの、どうも私の事を好きみたいだと先輩からチラッと聞いた事がある。だから点数稼ぎなのかもしれないけど、今はとにかく助かった。

 ちなみに全くタイプではないので、残念ながら告白されたとしても結末は決まっている。

「川上さん大丈夫? ごめんねー」

「いや別に石森さんが謝らなくても。でも、ありがとう」

 柔らかな微笑みが向けられた途端、酔いのせいなのか私の心の奥底まで熱く突き刺さった。何だろう本当に、川上さんの笑顔を見ていると胸が切なく疼く。まるで恋でもしているかのような。

 いやまぁ、無いかさすがに。

 多分普段見慣れていないから珍しいものを見たと驚いているのだろう、私の心の奥が。大体女同士で恋とか、私には無い。そんなの考えた事も無い。それより二年くらいもう彼氏いない事の方が私としては問題だと思っている。

「仕事だと田中君しっかりしてるのに、酔ったらいつもあぁだからさ。大目に見てあげて」

「大丈夫、こういう場でいつもあぁなのは知っているから」

 あぁ、そうだった。川上さん、いつも飲み会には参加しているんだった。

「そっか。ところでお酒はともかく、食べてる? 今日のMVPを教えてよ」

「んー、どれも美味しいけどこのネギ塩上タンかな。私、タンが好きで」

「私も好き。でもさ、いっつも思うの。この乗っかってるネギ塩ってひっくり返したらこぼれて残らないでしょ。どうするのが正解なんだろうって」

「片側だけ焼くんだよ。ネギ塩乗っているのを上にしてそのまま焼いて、ある程度焼いたら折りたたんで食べるのがいいらしいよ」

「そうなの? じゃあちょっとやってみるから見てて欲しいな」

 私がネギ塩上タンを頼むと、少ししてから運ばれてきた。私はそれをトングでつかみ、言われた通りネギを上にしてそのまま焼く。肉の焼ける良い匂いと音。割とお腹がいっぱいになってきたけど、でもまだ入る。健康とかダイエットとかカロリーとか、そんなものは外食時に必要無い。普段やればいいだけ。

「そろそろいいんじゃないかな。気になるなら折りたたんだ後に、グッと押し付けて焼いてもいいと思うよ」

 言われたタイミングで私はトングで挟むと、もう少しだけ押し付けて焼いた。そうして手元のタレを入れるお皿の一角に作っておいたレモンの池にダイブさせると、ぐりぐりと押し付けてから口に運ぶ。

「んー、美味しい。ちゃんとネギ塩の味がする」

 若干生のシャキシャキした食感のネギに、片面だけ焼いたからか噛むほどに食感の違うタン。それがとても美味しくて、今まで食べていたネギ塩の乗ったタンは食べ方が間違っていたのだとすぐにわかった。

 私が目を輝かせながら川上さんを見れば、実に嬉しそうに笑っていた。

「ね、美味しいでしょ」

「うん、これはいい。初めて知ったよ、こんな食べ方。川上さんって物知りなんだねぇ」

「そんな事は無いよ。ただ私も前はそうやってネギこぼしていたから悔しくて、どうやったらいいのかって調べただけだから」

 その彼女の言葉に私は思わず小さく吹き出してしまった。川上さんが何の事かわからず困惑し始めたので、私は氷が解けて薄まったコークハイボールを傾けると笑顔を返す。

「いや、川上さんの口から悔しいとかって初めて聞けたから」

 ハッとした表情になったかと思うが早いか、川上さんは恥ずかしそうな顔をして私を見詰めてきた。

「ごめん、忘れて。あー、やっちゃったなぁ」

「やっちゃったって、何が?」

「何でも無いから」

 川上さん自身も上タンを教えた通りに焼くと、わずかに眉根を寄せながら食べた。彼女とここまで話したのは初めてだ。だからこそ、こういうやり取りも嬉しい。全部を理解していないし把握もしていない、でも反射的に会話が成立する。

 それがただただ嬉しかった。


 二時間の飲み会だけど、残り三十分の段階でもうみんな箸が止まっていた。年配の人達はもとより、私も最初から結構な勢いで飲み食いしていたためもうお腹いっぱい。田中君は酔い潰れてトイレとお友達になっているみたいだし、梶尾君は先輩達と話し込んでいる。他の人達もまったり過ごしており、どこかもう早く終わらないかなって雰囲気すら漂ってきていた。

 私も川上さんと他愛の無い会話で繋いできたけど、そろそろ話す事も無くなってきて無言の時間も増えてきた。ぼうっとしつつ、思い出したようにちびちびとお酒を飲んで場を繋いでいる感じだ。そろそろ時間にならないだろうか。

「さすがにお腹いっぱいだね。お肉美味しかった」

 独り言のような川上さんの言葉に私はゆっくり反応する。目を向け軽くうなずくと、彼女は何だか嬉しそうに微笑んできた。

「石森さんはお酒もういい感じ?」

「そうだねー」

「そっか」

 どこか残念そうに視線を落とす川上さん。でも彼女、まだレモンサワー二杯しか飲んでいない。なんか一緒に飲みたがっているような気もするけど、それなら自分ももう少し飲めばいいのに。どうせみんな、自分の世界に入っているんだから。

「でも、まぁもうちょっと飲みたいかなとは思っているよ。でもここではもういいんだ」

「二次会って事?」

「そうだね」

 けれどこのまま二次会に行くとなっても、川上さんは同じようにするだろう。私としては折角少し話せるようになったのだから、もう少しこうはっちゃけるとまではいかなくても、色々話して欲しいのだが。

「さてみなさん、宴もたけなわではございますが、そろそろお開きにしたいと思います」

 突然の社長の声にみんなの視線が集まる。気付けば二時間経っており、号令と共に各々店を出る。そうしていつものパターンだと店の外でまだ帰らない人達が集まり、二次会に行く流れとなっているのだが。

「ねぇ川上さん、ちょっとこっちに」

 私は一緒にお店を出た川上さんとみんなから離れるよう誘い出す。そうして集団から遠ざかって角を曲がると立ち止まった。川上さんは不思議そうな眼差しを私に向けてくるが、私はとても満足していた。

「ねぇ、二次会には行かないの?」

「行くよ。これから川上さんと二人で」

「え、いいの?」

 驚く川上さんがちょっと可愛い。酔っているからか世界が楽しく見えるせいで、川上さんもいつも以上に可愛らしく思える。何と言うか、小動物的な可愛さ。

「いいのいいの、どうせみんないる場所だったら話しにくいでしょ。だから違う場所で話そうよ」

「ありがとう、そうしてくれると嬉しいな」

 安堵した笑顔にまた胸が甘く苦しく切なくなる。その笑顔、どうしてか私の心に思い切り突き刺さるから。そんな笑顔を引き出せたのもそうだけど、やっぱり誘ってオッケーをもらえたのが嬉しい。

「はぁー、よかった。断られたらどうしようかって思ってたよ」

「え、何で?」

「いやだって今まで川上さんとあまり話した事無かったからさ、私と二人なんて嫌かなぁって思って」

 すると彼女は驚いて首を横に振る。何だかそのリアクションが普段の川上さんからあまり想像できなくて、また可愛いって思ってしまう。でも、何度だって心地良い。

「そんな事無いよ。私も石森さんと話せて楽しい一人なんだから」

 その言葉は嬉しいけど、そんなに会話した事が無いからピンとこない。でも場の空気を壊したくなかったので、私は曖昧に笑ってうなずいておいた。

 ともかく私達は足早にその場を離れ、駅近くの飲み屋が入っているビルに飛び込む。そこは以前友達と言った事がある飲み屋があり、狭い個室で仕切られている。二人きりで話すのならばおあつらえ向きだろう。

 ビルの三階までエレベーターで上がると、すぐ目の前に入口がある。和風の、でもおじさん向けではなく若い女の人向けの雰囲気の居酒屋。靴をシューズロッカーにそれぞれ入れると、店員さんにすぐ席へと案内される。

 どこも区切られており、ちらちら周囲を見渡してもどのくらい人が入っているのかわからない。案内された場所は掘りごたつの部屋で、三畳くらいの狭いスペース。向かい合うように座れば、当たり前だけど距離が近い。

「こういう場所はよく来るの?」

 少し周囲を見回すと川上さんがそう訊ねてきた。お互いの足が触れ合うような距離なので、先日友達と来た時にはそれほど気にならなかったけど、なんかちょっと恥ずかしいというか気まずくなってきた。

「前に友達と一回。でも、改めて思ったけど結構狭いよね。距離近いよね」

「そうだね。でも私はなんかこう、秘密基地と言うか内緒の部屋みたいで楽しいかも」

 無邪気に笑う彼女に私はまたドキッとする。何だろう、今まで近寄りがたいと思っていたけど、こんなに可愛く笑える人だとは思っていなかった。こんなに普通に笑えるのなら、会社であんな風にしなくてもいいのに。

 私は心乱れるのを悟られないよう、メニューを開いて何を飲もうかと話題を変えた。


「じゃあ、あらためて乾杯」

「はい、お疲れ様」

 私が梅酒ロック、彼女がハイボールで乾杯する。料理はさっきの焼肉屋で結構食べたので、簡単につまめるフライドポテトとチーズ盛り合わせ。それでも余しそうだけど、さすがに何も無いのは寂しい。

「今更なんだけど、私とで良かったの? 石森さんならあっちの方がたくさん話題もあるし、求められていたと思うけど」

「んー、でも今日は川上さんと話したい気分だったからさ。いいよ、あっちは。勝手に楽しくやってるだろうから、もう私がいない事なんて気にもしてないよ。それより」

 私は改めて彼女を見る。今までは一緒にいてもそんなに興味も無かったから注目していなかったけど、よく見れば目元が隠れそうな前髪を気にしなければ肩までの艶のある黒髪、眼鏡の奥に見える切れ長の瞳、若干ぽてっとした唇、そしてきめ細かい肌。

 よくよく見ると、綺麗な人だ。顔立ちも整っている。でももうちょっと……。

「ちょっと失礼」

「え、どうしたの?」

 私は少し身を乗り出し、川上さんの前髪に触れる。重たげな前髪を手櫛でささっと分け、もう少し目元を出すように変えてみた。すると思た通り、より輝いて見える。

「やっぱり。こうした方がずっと可愛いよ」

「えー、変じゃない?」

「いやいや、変じゃないよ。むしろすごく良い。ねぇ、何でいつも目元を隠すような感じにしているの?」

「それは、おでこ出すの恥ずかしいし。それに私、そんな風にしても似合わないから」

 何を言っているんだとばかりに私は大きく手を振る。

「そんな事無いってば。ねぇ見てみてよ」

 私は手早くスマホを取り出し、カメラモードで見せてみる。すると一瞬川上さんが戸惑ったものの、やがて角度を少しつけて見るようになった。

「変じゃない?」

「変じゃないよ。似合っているよ」

 私が笑顔でうなずけば、川上さんも嬉しそうに頬を緩めた。

「そっか。石森さんがそう言うのなら間違い無いんだろうね」

 あぁもう、その髪型で笑顔を見せられると破壊力が更に増してもう……。何だろうか本当に、まるで初恋をしたかのようなこの気分。人を好きになることはあっても、ここ数年はこんな気分になった事なんか無い。だから不思議なのだ。

 私達はお互いに笑い合いながらグラスを傾けると、ほんの数瞬見詰め合う。

「川上さんってプライベートの事とか普段話さないでしょ。だから今日はそれをちょっとでも知りたいなって思っているんだ。そうしたらもっと仲良くなれるんじゃないかなって思っててさ。会社で話したくないなら、ここだけの秘密で。どう?」

「えー、私の事なんて何も面白くないよ」

「それでも知りたいな。あ、嫌なら無理にとは言わないけど。せめて趣味とか」

 彼女は少しの間悩んだみたいだったが、それもわずか。私がグラスに口をつけて離す時にはもう意を決していたみたいだった。

「趣味ってほどのものじゃないけどスポーツ観戦、特に格闘技観戦とかは好きかな。ボクシングでも、総合でも何でも。あとはスマホでゲームを少しやったり、小説を読んだり、陶芸市があれば見に行くくらいかな」

「えー、結構幅広いんだね。思ってたのと違ってて、意外」

「逆にどんなイメージをしていたの?」

 いたずらっぽく笑う川上さんに私は胸の高鳴りを隠しつつ、同じように挑発的に微笑んで見せる。

「えー、なんか読書はイメージに合ってるけど、他はね。だって格闘技とか全然結びつかないし。なんならキルトとか裁縫したり、意識高い系の料理しているイメージかな」

「そういうのは苦手なんだよね。裁縫はそもそもできないし、料理も雑だから繊細なものは作れないんだ」

 照れ笑いをする川上さんもまた、可愛い。何だろう、こういう彼女の日常を一つ一つ知ると、胸が弾む。久々に私の好奇心、知識欲、それらが直接脳と接続して高電圧を送信されるような感じだ。

 つまりは痺れるほど嬉しい。

「私、会社では他の人に比べて大人しい方だろうから、そういうイメージがあるんだろうなって想像できているんだよね。何を陰で言われているのかもわかってる。でも、石森さんからそういう悪口は聞こえなかった。嫌な気持ちにならなかった。それだけでもうすごく嬉しかったんだ」

 輝くような笑顔でそう告白する川上さんに私は罪悪感を抱き、別の意味で胸が痛くなる。私だって彼女に対して、つい最近までそんなに良い印象は持っていなかった。でも、確かに誰かと話している時でもそういう事は言わなかった気がする。だっていつ誰が聞いているかわからないから。そうした言葉は必ず自分に返ってくるから。

 もちろん川上さんがどこまで私を信じているのか、それはわからない。でも私だって十分には優しくなかった。それを含めてそこまで言ってくれたのなら、さすがに今までの自分を反省しないとならないだろう。

「んー、でも川上さんは仕事の評価すごい高いからね。こう言ったらあれだけど、どんな私生活かわからなかったからってのがそうしたイメージになったってのは大きいのかも」

「それって必要なのかな? 私はただ、仕事しに来ているだけなのにさ」

 グラスに口をつけ、言葉を溜息交じりに漏らす川上さんは若干物憂げな瞳をしている。あぁ、そうなんだ。完全に割り切っているんだ。やっぱりそうだったんだ。

「必要かどうかはその職場によって変わるから何とも言えないけど、話しやすさとか一定の私生活が垣間見えるとかは人間味があるって事になるんだと思うんだよね。そうなると仕事を含めたコミュニケーションも取りやすくなるだろうし」

「まぁ、それはそうかもしれないけど」

「私は今、川上さんと話していて楽しいんだよね。知らない事を知れているから。そうした人となりを知れば、お互い補えると思うんだよね。もちろん全部できるに越した事は無いんだけど、適材適所がわかれば仕事だって効率良くなるし」

「なるほどね。そういうものなんだ」

 どこまで納得してくれたのかわからないけど、素直にうなずいてくれた。それだけでもう満足だった。私の考えを知ってもらえたし、私も川上さんの考えを知れた。これだけで大きな進歩だ。

 それが本当に嬉しくて、祝い酒とばかりに私はグラスに口をつける。もう一軒目で結構飲んで酔っ払っているのにまだ飲めるのはこの場が楽しいからだろう。でも、さすがに酔いが回ってきている。

「あのね、私こうして今、川上さんとお喋りできているの楽しいんだ。ちゃんと意見を交換できて、色んな面を知れてすごく楽しい」

 酔っていたけど、本心だった。多分、午前中なら恥ずかしくて絶対言えなかっただろう言葉。だけど今ならいい、今こそ言うべきだと思って口にすると、川上さんは照れたようにはにかんでいた。

「私も、すごく楽しい」

 その笑顔にまた胸が大きく高鳴った。


 それから他愛もない話をして過ごした。

 仕事の話、最近あった面白い出来事、飼っている猫の話……正直まだまだ話していたかったけど時間も時間なので帰る事にした。それに私自身、結構酔いが回ってきていて世界が揺らぎ始めてきたので、もうこれ以上は危ないと判断したのだ。

 店を出るとまだ少し蒸し暑い夜風が頬を撫でる。それでも幸せだった。二人きりで色々話せて、充実した時間。正直、あのままいつもの人達と二次会に行くよりもずっと楽しかったし実りがあった。

「今日はありがとう。楽しかったよ」

 酔いの高揚感、満足した時間を過ごせた充足感。そんな高らかな気分で私はビルの入口で川上さんと向き合って笑顔で感謝を述べる。お世辞抜きで会社に入ってから一番楽しかった飲み会だった。

 そんなニコニコ顔で見詰めると、川上さんも満面の笑みを返してくれる。

「私も。本当にありがとう」

 そう言って赤い顔をした彼女が私の右手を両手で包み込んだ。

「えっ」

 思わず驚いてしまうのも無理ないだろう。だって川上さん、そんなスキンシップなんかする人じゃないから。それにごく自然な動作で、酔っているのを差し引いても私は反応できずされるがまま。

 川上さんの手がしっとりと潤っていて柔らかく、あたたかい。包まれた手から彼女の脈動が伝わり、それがより一層興奮する。私はドギマギしながら繋がれた手から川上さんを見れば、彼女は顔を赤らめながらもいたずらっぽく笑っていた。

「酔っちゃったかも。それじゃあ、また来週ね。私、こっちだから」

「あ、うん。またね」

 パッと手を離し、ニコニコ笑いながら去って行く川上さん。私は軽く手を振って見送ると、すぐに彼女に背を向けて歩き出す。それはきっと変な顔になっている自分を見せたくなかったから。

 まだ終わらない夜の街の中、私はゆっくり歩きながら右手を見る。まだほのかに感触のあるそこを。

 繋いでくれたんだよね……。

 あの笑顔、ぬくもり、しっとりとした触感、その全てが私の脳を焦がす。心臓の鼓動を強め、酔いが加速度的に回る。でも、忘れられない。夢じゃない。この気持ちが恋かどうかはまだわからない。

 でも……良かった。

 理由なんかどうでもいい。きっと彼女も楽しかったからそうしたんだ、今はそんな理由付けでいい。それより一体何だろう、川上さんの笑顔に触れると胸が高鳴ってどうにかなりそうだ。私だけに見せる笑顔、それがあんなにも可愛いものだなんてずるい。

 そう、ずるいんだ。会社では誰にも興味が無さそうで、オシャレにも無頓着で、仕事しか興味ありませんよって顔をしているのに、時折見せるあの笑顔。他の誰もその事を言ってないから、きっと私にだけなのかもしれない。

 そんな特別感がより一層、アルコールで緩んだ私の頬を緩ませる。



 月曜日会社に行くまで、いや川上さんと顔を合わせるまで私はずっとドキドキしっぱなしだった。それはもう、自分でも困惑するくらいに。

 誰にも興味が無いと思っていた彼女があんなにも親しげに話してくれ、たくさん笑顔を見せてくれ、あまつさえ手も握ってきた。正直、よほどのタイプの男の人でも無い限り、こんなにドキドキする事なんか無いだろう。

 私、女の人を好きになっちゃったんだろうか。

 いやでも、そんな事は無い。多分そう。今まで素敵な同性のふとした仕草に、一瞬恋のような感情を抱いた事はあった。でもそれって他の人に聞いてもよくある事みたいだし、別に変な事じゃない。

 ただわからないのが、川上さんは正直そこまでの人じゃないというのがある。だって垢抜けていないし、野暮ったい。陰のオーラを出しているし、話しかけるなって感じもある。

 でも確かに綺麗な顔立ちをしているし、可愛い面もある。仕事も出来るし、頼り甲斐だってある。おまけにみんな知らないだろうけど、あの笑顔は素敵でたまらない。

 ……あれ、実は川上さんって素敵な女性の枠に入るのかな。

「おはよー、石森。二次会来なかったけど何かあったの?」

 ぼんやりと物思いにふけりながら始業の準備をしていると、不意に声をかけられた。梶尾君だ。私は気を取り直し、今まで通り明るい笑顔を見せる。

「いや別に何も無いよ。お腹いっぱいになって飲み過ぎたから、もういいかなって思って」

「なんだ、調子悪かったの? いつもなら来るのに」

「美味しいお肉食べ過ぎて、ちょっとね。それより田中君は大丈夫だったの?」

 あれこれ突っ込まれる前に話題を変えたかった私はふと思い出した事を伝えると、梶尾君が苦笑しながら壁際を指さした。

「あいつ、トイレで寝てたみたいで店に迷惑かなりかけたみたいなんだよね。朝一で課長と部長からすっげぇ怒られたみたいで、ほれ、あんな風になってる」

 視線を移すと魂が抜けたようになっている田中君がいた。可哀想とは思うけど、でもいつも飲み過ぎてやらかしているからいい薬だと思ってしまう。

「まぁ、いっつも泥酔するからたまにはいいんじゃないかな」

「わかる。羽目外し過ぎなんだよ、あいつ。絶対いつか怒られるって思ってたけど、まぁ仕方ないわな」

「うん、ちょっと反省して欲しいよね」

 そんな会話をしていると、入口のドアが開いたのに気付いた。入ってきたのは川上さん。私は梶尾君との会話が丁度良い区切りだと思ったので、笑顔で彼女に手を振った。

「おはよー、川上さん」

「おはよう」

 けれど川上さんは以前と同じ反応で小さく挨拶すると、軽く会釈してから自分の席に着いた。そうして何事も無かったかのように始業の準備をしているのを見ると、あの日本当に二次会で色々話し合ったのもそうだけど、手まで繋いでくれたのだって全ては幻だったのかと思ってしまう。

「なぁ、川上さんっていつも飲み会には来るけど、なんか壁を感じるよな」

 こそっと私にだけ聞こえるような声で梶尾君がそう言ってきたが、私はうなずかなかった。ただ、完全に否定もできないのでどう言えばいいのか困る。

「まぁそれぞれのペースってのがあるから、いいんじゃないかな」

「いやまぁ、別にいいんだけどさ」

 それきり興味を無くしたように梶尾君が大きく伸びをして、何気なく取り出したスマホを見始めた。私は川上さんをチラ見するけど、特に何の反応も無い。聞こえなかったのだろうか。それならそれでいいのだが。

 それにしても、と私はもう一度川上さんを見ようとしたけどあまりチラチラ見ると怪しまれそうなので止めた。だって男性陣、川上さんの良さに気付いていなさそうなのが心をモヤモヤさせる。

 それはこんなにも可愛くて素敵な人の魅力にどうして気付かないのかという怒りのようなものと、もしみんなこの魅力に気付いてしまったらあの笑顔が私にだけ向けられなくなてしまうんじゃないかという独占欲の二律背反。

 でも当の川上さんはまた前髪をだらっと下ろし、やや眼鏡にかかりそうになっている。正直、私だってあの笑顔や会話が無ければそうは思わないだろう。

 だけどあの日、握ってくれた手の感触や温かさは今も鮮明に覚えている。そしてそれを思い出すだけでも、胸が高鳴る。だから今日、川上さんに会ったら何かしら反応してくれるかなと思っていたのに、まだ何も無い。

 その事実に少し悲しくなってくるけど、気を取り直して仕事モードに切り替えた。


「あの、石森さんちょっといいかな」

 それは十時半頃だった。川上さんが近付いて私にそう声をかけてきたので、何か仕事に関する事なのだろうと私は素直にうなずいて彼女の方を見る。

「ちょっと付き合って欲しいんだ」

「わかった」

 事務的なその言い回しでも、私はちょっと嬉しくなっていた。と同時に、何だかいい年して思春期の頃みたいな浮つきを感じて苦笑する。

 そのまま事務所を出て共用の廊下に出るが、川上さんは何も言わない。一体何だろうかと思いつつ階段の方へ向かう。外まで出るのだろうか。そんな事を考えていると、踊り場で川上さんが立ち止まった。

「ごめんなさい、こんなとこまで付き合わせて。あの、土曜日楽しかったって改めて伝えたくて」

 少し周囲を気にしながら申し訳なさそうにそう伝える川上さんが何だかすごく可愛くて、また私の胸がキュンと高鳴りながら締まる。この甘い感覚、いつでも慣れないしいつでも楽しい。

 だから私は自然と笑顔になっていた。

「ううん、私も楽しかった。すごく色々話せて、勝手だけど仲良くなれたかなって」

「ありがとう」

 職場にほど近いからか若干ぎこちない笑顔も、供給されるだけでただただ嬉しい。

 でも、もう一段階上に行きたい。このままじゃなく、これからへと。

「えっとそれでさ、もし良かったらまた一緒に飲みたいなって思ってるんだ。できればプライベートで」

「本当に?」

 目を丸くする川上さんに私は力強くうなずく。

「うん。だってほら、会社の飲み会とか会社でだと川上さんやっぱり構えちゃうでしょ。だったら二人きりで楽しく話せた方がお互いにいいかなって思って。いや、私がまた一緒に楽しくなりたいだけなんだけどさ」

 言ってて恥ずかしくなってきて、照れ笑いを交えながらそう何とか伝えると川上さんも嬉しそうに笑ってくれた。本当に、どうしてこんな素敵な笑顔をみんな知らないんだろう。人生損している。いや、私が得しているだけか。ま、どうでもいいや。

「そう思ってくれる事が何より嬉しいよ。ありがとう、私もまた一緒に飲みたいな」

「やった、そう言ってくれると私も嬉しい。じゃあさ、連絡先交換しようよ。会社の番号はもちろん知ってるけど、そういうのじゃなく個人ので」

「わかった。私も石森さんと何か話したいと思っていたけどできなかったから、そう言ってくれるのは嬉しいな。会社だとやっぱりそういうのできないから、メッセージとかでもいいなら」

「もちろん歓迎だよ」

 私が個人用スマホを取り出すと、彼女も取り出す。赤茶色の手帳カバーのついたスマホ。イメージ通りで何だかそれがおもしろかったけど、顔に出さないようにしながら連絡帳を交換する。

 そうしてお互いの連絡帳に自分の名前などが入るのを確認すると、なんだかにやけてしまって気恥ずかしくて誤魔化すように川上さんを見れば、彼女もまた同じような表情をしてこちらを見ていた。それがまた面白くて、私達は声にしなくとも小さく笑い合った。

 決して周囲には響かないよう、秘密を共有しながら。


 何食わぬ顔で職場に戻っても、誰も何も言わなかった。

 それと言うのもうちの職場は同じビルに併設されているパチンコ屋の喫煙スペースで喫煙する人もいるし、ちょっと飲み物を買いに階下へ行ったり敷地を出てコンビニなどに行く人も多い。

 ましてや川上さんから私を誘ったのだから、きっと周囲には仕事の事で何かしら出て行ったという認識しか無いだろう。だからこっそり周囲を見回しても自分のタスクをこなすだけでみんな精一杯。電話したり、パソコンで入力したりなど。

 だから私も何食わぬ顔で席に着くと、仕事を始める。メールで飛んできた内容を顧客データと合わせてエクセルに入力し、その集約したデータを上司へと送る。難しい作業は一切無い。けれどキーボードをカタカタと打っていると仕事をしたような気になる。

 そんな折、私は業務確認するように時折スマホを取り出して画面を見る。けれどそれは会社用のスマホではなく、私のスマホ。そこに入っている『川上伊空』の名前を見る度に学生時代に授業中先生の目をかいぐぐって友達とやり取りした事をふと思い出す。

 そんなスリルとワクワクが確かにあった。

 それからお昼休憩、午後からの仕事といつもの日常が流れていった。川上さんも仕事に関する事は話すけど、たまの雑談には参加しないまま。私も無理に話を振って困らせてもと思って、あえて今まで通りに過ごす。

 動きがあったのは終業近くだった。その日の残務処理をしていると、不意にスマホが震えた。業者からのメールかなと思ってそっと確認すると、川上さんからだった。いつの間に送ってきたのだろう。今すぐにでも確認したかったけど、誰に見られるかわからないので私はそっとトイレに行き、個室の中で確認する。

『仕事終わりに一緒にご飯でもどうかな。場所は駅前通りの旭ビルにあるイタリアンバルのトリアッティというお店に現地集合で』

 さっそくのお誘いに私はつい頬が緩む。危なかった、こんなの自分の机で見ていたら怪しまれていたかもしれない。私はニヤニヤを止められないまま返信する。

『誘ってくれてありがとう。もちろん行くよ。現地集合、了解しました』

 スマホをしまうと私は心を落ち着かせてから仕事場に戻った。


 終業となると、川上さんはそそくさと支度を済ませて会社を出て行った。いつもこんな調子なので、特に誰も怪しまない。私もすぐに出たかったけど、そうすると会社を出てすぐに合流してしまうだろう。そうなると現地集合の意味がなくなってしまうから、少し遅れて会社を出たのだった。

 夕方六時過ぎ、まだ陽は高い。だからちょっと得した気分になる。まだまだ時間があるような気がするからだ。これが冬だと同じ時間でももう暗く、遅くまで仕事した気分になって一日仕事漬けのような感覚になるから心から疲れてしまう。

 だから私は暑い時期が好き。一日仕事が終わっても楽しい所に向かうので足取り軽く、自然と周囲や空を見てしまう。ビル街から見える空はやや濁っているようにも見えるけど、でも周囲の看板や街の装飾が彩り豊かに思えて楽しい。行き交う人々は仕事を終えて疲れたサラリーマン、まだ元気そうな学生、これから出勤だろう夜のお仕事の人達と色々垣間見えて活気がある。

 ふと前方に川上さんが見えたので、私は小走りで近付く。この辺は会社から少し離れているし、人の流れも少なくは無いので目立たないだろう。まぁ、もし見つかったとしても女子会だとか何とでも言える。

「川上さん」

 隣に並んでそう呼びかけると、やや驚きつつも嬉しそうに私の方を見てくれた。

「石森さん、お疲れ様。ごめんね、面倒臭い感じで」

 申し訳無さそうに小さく頭を下げる川上さんに私は笑顔で首を横に振る。

「ううん、気にしないでいいよ。川上さんが気楽に過ごせるなら、協力するからさ。それにほら、こういうのも何だか秘密じみて面白いよね」

「ありがとう」

 安心したような柔らかい笑顔が夕映えの陽とあいまって川上さんを彩る。その反則級の可愛らしさに私の胸がキュンを通り越して、頭の先から足先まで痺れさせた。力が入らず、膝が抜けてしまいそうな甘い痺れ。

「川上さん、笑顔の威力ハンパ無いよね」

「え? 笑顔? どう言う事?」

 思わず言ってしまった本音すら、彼女には無自覚なのか響かない。キョトンとした顔で小首を捻る仕草、それすら可愛い。本当に会社にいる時とのギャップがたまらない。

「あ、いや、可愛いなって事。会社ではそんな表情しないから、なおさらね」

「いやいや、そんな事無いよ。えー、でも急にそんな事言うから、なんか恥ずかしくなってきたじゃない」

 はにかみながら視線を下に落とすが、その表情から嫌な感じはしない。そんなウブな反応に私も何だか恥ずかしくなってしまい、二人して無言で目的の店まで歩いたのだった。


 ほどなくして到着したそのお店はビルの一階にあり、外側からだと中がやや薄暗く見えた。けれど入店すればそれなりに明るく、雰囲気もある。私達は奥側の席に案内されると飲み物と食事を何点か注文した。

「へぇ、すごいオシャレなとこだね。川上さん、よく来るの?」

「そうだね。ここは四回目かな。お酒も料理も美味しくて、気に入っているんだ」

 全体的にダーク系でまとめられており、大人な雰囲気がある。チラッと周囲を見てみると客層は私達より少し上の人が多い。メニューの方を見れば、先程も見たけど美味しそうな料理が写真付きで載っている。

「恋人同士で来ても良さげな場所だよね。カジュアルだけど落ち着いていて」

「そうだね。まぁ、私には縁がないだろうけど」

 苦笑する川上さんに私は否定の言葉をかけようとしたところ、丁度お酒が運ばれてきた。会話が中断され、私はとりあえず言葉を飲み込む。もうそういう流れではないような気がしたから。

 それよりも運ばれてきたクラフトビールが美味しそうで、そちらに目移りしていた。私達は微笑み合いながら乾杯すると、軽くグラスを傾ける。ビールは飲み会くらいでしか飲まないのだが、このビールは今まで飲んだどれよりもコクがあった。

「え、これ味濃いね。私好きかも」

「気に入ってくれたなら嬉しいな。私もビールは普段飲まないんだけど、ここのは美味しくて気に入っているんだよね」

 どこか緊張して肩肘張っていたけれど、こうしてアルコールを入れると少し和らいだ。私はもう一口飲むと、心に溜まった緊張を吐き出すように息を吐く。

 間も無く運ばれてきた野菜スティックもアンチョビソースにつけると美味しい。メインのピザが焼けるまでのつなぎだと思っていたのだが、これはこれで癖になる。

「この前飲んだばかりなのに来てくれてありがとう。すごく嬉しい」

 川上さんもお酒が入ったことによって大分表情が柔らかい。もうすっかり仕事モードではなく、あの日一緒に飲んだ顔になっている。

「ううん、私こそ。あの日、なんかすごく楽しくてずっとドキドキしてたんだ。で今日、連絡先交換したでしょ。あの時、早くても週末かなって思ってたから逆に嬉しくて」

「そう思ってくれていたのなら、嬉しい。私、お酒好きでさ。結構一人でも色々行ってたんだ。それまではそれで良かったんだけど、この前一緒に飲んだ時に誰かと飲む楽しさに気付いちゃって」

「それが私だったなら、光栄な事だよ」

 そうこうしているうちにマルゲリータピザが焼き上がり、他の料理も運ばれてくる。サーモンのカルパッチョ、生ハムのブルスケッタ、海老のトマトクリームパスタ。どれも絶品で、お酒に合う。だからついついいつも以上のペースで飲んでしまっていた。

 いや、飲まされていたのかもしれない。

 目の前の川上さんは飲み放題という事もあってか、私の倍以上のペースでグラスを空けていく。別に弱いお酒ばかりじゃない、その証拠に三杯目からは白ワインをずっと飲んでいる。そのハイペースに惑わされ、私はついつい一時間足らずで酔っ払ってきた。

「強いんだね、お酒。正直川上さんがこんなに飲める人だなんて思っていなかった」

「まぁ、それなりにはね」

 にこりと笑う川上さんは全然酔った風には見えない。対して私は肘で体を支えながら、世界が揺らぎ始めているのを感じていた。そう言えば会社の飲み会でも隅っこで飲んでいたけど、一切酔っ払った様子は無かった。多分、かなりセーブしていたのもあるけど相当強かったからなのだろう。

「私も弱い方じゃないと思っていたけど、すごいね」

「えー、でも石森さんもすごく飲める方だと思うけどね」

 今はその言葉がひどく虚しい。

「まぁでも、気分いいよ。お酒も料理も美味しいし、何よりこうして川上さんと話していると知らない事ばかりで楽しいから」

「まぁ私、会社だとほとんど話さないからね。逆に私、結構石森さんの事は知っているつもり。みんなの会話、結構聞いているからさ」

「えー、ずるい。興味無さそうにしているのに、ちゃんと聞いていたんだ。だったら会話に入ってくれてもいいのに」

「それはまぁ、何と言うか私、みんなの前で話すのは苦手だから」

 いたずらっぽく笑う川上さんはやっぱり可愛らしく、加えてアルコールのせいかちょっと艶っぽい気がする。私がじっと見ていると川上さんが不思議そうな眼で見詰め返してきたので、何かあれば酔いを言い訳にしようと彼女の前髪を手櫛でこの前のように分けた。

「ほらー、やっぱりこうした方が可愛い。前もしたのに、会社来たら前髪前のようになっているからさ」

「それはやっぱり、みんなの前で急にやるのは恥ずかしいから。それに、石森さんにしてもらわないと綺麗にできないし」

「うっわー……自覚あるのかないのかわからないけど、反則だよそれ。するいなぁ」

「え、え? 何の事?」

 前髪をよけたからか、目をぱちくりさせているのがよりハッキリわかってなお可愛い。川上さんっていちいちリアクションが可愛いんだよなぁ。

「川上さんって自分が思っている以上に可愛いんだよね。いやほんと、もったいないなぁ。こんなのみんな知ったら、虜になっちゃうよ。みんなに見せたらすぐ人気者になれるし、モテるのに」

「え、いやいや、何を言ってるの?」

「事実を言ってるの」

 ぐいっと景気づけにグラスを大きく傾けると、私は川上さんにぐっと顔を寄せた。

「だって顔は良いし、仕事も出来る。おまけにお酒も飲めるし、話していれば楽しいもん。こんなのモテないわけないよ」

「いやぁ、モテるとかはちょっと」

「いやモテるでしょ。こんなに可愛いのにモテないとか無いって、絶対」

 なんかやけに川上さんの顔が近い気がするけど、酔っているからそう思うのかもしれない。気のせいかもしれないけど、いい匂いがする。多分香水とかじゃなく彼女自身の匂いだろうけど、心地良い。

「どうでもいい人にモテたってしょうがないよ。どうせならこんな風に楽しく話せて美味しい食事とお酒を一緒に楽しめる人にモテたいな」

 ふと彼女の瞳が妖艶に光ったような気がした。でも気のせいなのかもしれない。酔っ払た私は彼女の話も半分しか理解できず、ただ私と一緒にいるのが楽しいんだというのが嬉しくて笑顔でうなずく。

「そうだねぇ、そんな関係だと付き合ってもいい感じだよね。背伸びしないでさ」

 人並み程度には恋愛経験を積んできたと思っているけど、未だにその距離感がわからない。なかなか素を見せられず、いつも背伸びしてばかりで結局疲れて嫌になる。たまに素を出せば幻滅される事もあるから、本当にそういうのが苦手。

「うん、そんな人に振り向かれたいなぁ」

 そう言いながら川上さんはそっと私の手を握る。その感覚にあの日を思い出し、ハッとなって彼女を見るとどこか泣きそうな、遠くを見るような眼をしていた。それがまた私の心を強く打ち響く。

 そしてそこにはどこかハッキリとした予感があった。

「あの、さ……」

 言いたい事、訊きたい事、確認したい事がたくさんある。でもそれは仲良くなって間もない人に確認していいものかどうかわからない。でも、知らないと先に進めないし曖昧なままでこれから飲むのも辛い。

 ふっと私の手を包む力が弱まった気がした。離れてしまう、何もかも。焦った私は困惑と混乱の中、漠然と浮かび上がった直感に全てを託す。

 だから私は自分の手でそれを握った。彼女の柔らかな手を。

「あのさ、これは独り言なんだけど……川上さんっていわゆるそっちの人なのかな? いわゆるその、女の人が好きっていうか、恋愛対象が女の人みたいな」

「私は」

 そこでハッとなった川上さんが一旦言葉を止め、一つ深呼吸をする。そして私と顔を近付けているにもかかわらず、視線は下を向いていた。

「……これは独り言なんだけど、そうだね。私はいわゆる同性愛者。そして私、入社して割とすぐに石森さんの事が好きになったの。それからずっと片思い」

 茶番だとわかっている。いい歳をした大人の言い訳。だって独り言ならば聞いていなかったことにできるから、その後もそれなりに続ける事が出来る。直接言及する事なく、自然とフェードアウトだってできる。

 でも彼女の告白はもうそれで誤魔化せるものじゃなかった。私は聞いているうちに胸が熱くなり、今までの恋愛の誰とも引けを取らないくらいにはドキドキしていた。

 私、好きなんだ。ちゃんと恋愛として川上さんの事、好きになっているのかもしれない。だって私、モテるだろうとか何だかんだ言っても、彼女の笑顔が他の誰に向かれるのを嫌がっている。私だけに向けて欲しいから。

 そんなのもう、認めないわけにはいかないじゃない。

 ぐっと強く手を握れば、川上さんが驚いたように私を見てきた。だから私はここぞとばかりに、彼女の目を見詰める。

「不思議なんだよね、私。そういうの興味も無かったし、自分には一生関係無いと思っていた。でもどうしてだろう、川上さんの笑顔にすごく惹かれる。独り占めしたいと思っている。あの日からずっと、今も」

 すると川上さんも私と目を合わせ、嬉しそうに笑った。

「私はずうっと石森さんの笑顔に惹かれ続けているよ」

 彼女の真っ赤な顔、それはきっとアルコールのせいだけじゃないのだろう。私は逆にアルコールと告白でもうわけがわからなくなってのぼせ上がり、次第に意識が遠のいていく。

 薄れ行く意識の中、幸せそうな彼女の顔がやがて驚き、心配そうに見えたのは気のせいだろうか……。

 ともあれ、これが私の不格好な恋愛の始まり。目覚めた時、青ざめたのは言うまでもないだろうけど。

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貴女のその笑顔、それが私の心を滅茶苦茶にさせる 砂山 海 @umi_sunayama

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