第七手:あなたがいない世界で、私がいる世界で

数年後、廃校が決まったその学校に、一人の女子生徒が立っていた。


彼女の名は、サユリ。小さな頃から不思議な夢を見ていた。名前も知らない白い少年と、白い花。そしてその花が、燃えるように真紅に染まる瞬間。


彼女は、自分の部屋に飾っていた古い日記をめくる。その最後のページには、震える字でこう記されていた。


「私は『ナナ』だった。
でも、私じゃなかった。
彼の『ナナ』になりたかっただけ。
けれど、それは叶わなかった。」


「だから、私の中で、彼は今も生きている。
名前も、顔も知らない、
それでも、私がずっと夢で会ってきた『君』へ。」


「ねえ、私はまだ、あなたの愛を信じていい?」


ページの隅に、小さな白いゼラニウムの押し花が貼ってあった。


その日、サユリは校舎裏に行った。昔から『泣く石』と呼ばれていた、白い落書きの前に。


けれど今日、その場所にはなかった。落書きは、跡形もなく消えていた。


代わりに、そこに咲いていたのは——一輪の白いゼラニウム。


風が吹く。夢の中と、同じ匂いがした。


「……ナナ、って、誰なんだろうね?」


サユリは笑った。でも、涙がこぼれていた。


きっと彼女の知らない誰かが、誰かを、本気で想っていた証。


恋はもう終わった。でもその残り香は、誰かの心に根を張る。


それは、誰にも届かない、けれど確かに“咲いていた”という、誰かの愛の痕跡。




ふと、声がしたように感じた。そちらを見ると、パーカーを着た、背の高い男の子が見える。


けれどそれは、いつものこと。彼女は知っている。彼は、いつもここで立ち尽くしていた。この場所が通学路から見える彼女だからこそ、知っていること。


けれど、今日は何かが違った。いつもならすぐに逸らすはずのその視線が、今日は逸れなかった。彼はまっすぐ、彼女を見て、静かに唇を動かした。


「……助けて」


声は聞こえなかった。けれど確かに、そう言った。


その瞬間、世界がひっくり返った。グラウンドが、校舎が、音もなく反転する。目の前の景色が、灰色に塗りつぶされる。


パニックになった、そのまま彼女は逃げ出そうと駆け出した。けれど、つまづいて転んでしまった。幸先が悪い、なんて考えている暇はない。周りはもう幕を下ろしたかのように真っ黒なのだ。


彼女は足をあげる…上がらない。そこにあったのは、黒い黒い腕。校舎の裏、文字通り何もない場所から複数のそれが伸びていく。悲鳴を出す暇もなく、彼女はそのまま飲み込まれた。その瞬間、彼女は確かに聞いた。彼の声、そう確信する。なぜなら、今さっき聞いた声と、全く同じなのだから


「うそつき」


——


「-い。お—ち-ん。お-なさい。おい、お嬢ちゃん!こんなところで何やってるの。風邪引くでしょ、あとそろそろ帰らないと親御さんが心配するぞ?」


ハッと目が覚める。どうやら気絶していたらしい。時計を確認すると時刻は6時半を過ぎており、親に説教とお尻ぺんぺんされることが確定した。家に帰る気にならない。そう彼女は思う。


「その様子…相当な悪夢を見てたようだな、お嬢ちゃん。すごい唸ってたもんなぁ?」


デリカシーがなさそうにゲラゲラと警備員のおじさんが笑う。なんだか少し恥ずかしく感じる…


「あははは…そろそろ私は帰りますよ。それでは、良い夢を」


そう言って、帰路に着くために足を踏み出す…当たり前の、その行動ができない。足が動かない。


見ると、先ほどの黒い手が足を掴んでいる。


「お嬢ちゃん…覚めたと思ったか?」


——


絶叫を聴きながら、警備員のおじさん…の皮を被った何かは満足そうに唸り、帽子を深く被る。


「いやぁ、いい鳴きっぷりだ。そろそろ、真っ白になった『サユリ』くんとも会うことだろう…愉快愉快。クックック…」


そう言いながら彼は虚空の中に消えていく。犠牲者の感情を増幅させて、新しい犠牲者を出すための道具として使っていることも、それを養分として彼自身が増幅することも、そのどれもおじさんしか知らない。


「ナナくん、君はいい子だった…だから、私が使ってあげるんだよ」


いつの間にか手に持っていた花…ナナがそれを見たらその花はムスカリだと、花言葉は『明るい未来』だと丁寧に答えていただろう…愛おしい彼女との思い出の花、そんな細かいことも記憶する。


元来彼はそういう男だ、おじさんはそう考える。


あの夢の中で、あの花が思い出の花じゃないと、そう気づけたなら、運命は変わっていたのかもしれない。そのまま彼は、その花の首をへし折った。


——


七不思議もいつかは消える。ただ、それが完全に消え失せることなど、きっとないのだろう。


それはネット掲示板からはじまった。夜中の廃校にいる白い女の子。ずっと見ていた彼女に話しかけるための実況スレッド。


そのスレ主が発狂し失踪してから、現場向かったものはこう言った。


そこにいたのは少女ではない。眼鏡をかけた細い青年だ、と。


日本では有名な都市伝説。とある廃校、そこに忍び込んで白くなった人と会うと、甘い甘い夢が見られるという。ただ、成功報告はどこを探しても見つからない。

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また、夜の縁で @panofeed8112

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