第六手:檻の中に咲いた花

夢の中、彼は立っていた。手には、リードが巻かれていた。


けれどその先にいる彼女は、もう“ナナ”ではなかった。白いワンピース、白い肌。けれど、何かが違う。瞳は優しすぎて怖くて、でも、


…それでも彼は、なぜか泣いていた。


彼女は言った。


「ここでは、私が『人間』で、君が『幽霊』なんだよ」


彼は意味がわからず首を傾げた。


「君が忘れようとしたの、すごく、すごく悲しかった」


「でも、思い出してくれた。あの時、最後に、私の名前を呼んでくれた」


「だから私は——この『檻』を、楽園に変えようって、決めたの」


彼女はしゃがみ、草の間から小さな白い花を摘んで、彼の胸に挿した。それは、彼の記憶に微かに残っていた。幼い頃、学校の花壇で彼女が育てていた花と同じものだった。


「これ、覚えてる?」


彼は、小さく頷いた。なぜか涙が出た。地獄の夢のはずなのに、泣きたいくらい、心が震えた。


「私が君に初めて恋したの、あの時なんだ……覚えてなくて、いい。でも、私の世界は君だったんだよ」


彼女は微笑んだ。


それは、本当にただの“少女”の笑顔だった。彼は、その手をそっと握った。リードではなく、自分の意思で。縛られていた手ではなく、彼自身の手で。そして、口を開いた。


「……君に……もう一度、名前を聞いていい?」


「うん」


「君の、本当の名前を、教えて」


彼女は、微笑んだまま言った。


「ナナじゃないよ。“ナナ”は、ただの番号。私の名前は——」


そこで目が覚めた。朝だった。スマホには、通知が一件。未登録の番号から、ただ一通のメッセージ。


『わたしの名前、思い出してくれてありがとう。

君があの日くれた、あの白い花。

わたし、ずっと大切にしてたんだよ。』




濡れていないシーツを見るのは、久しぶりだった。何かいいことが起こる気がする。そんな根拠のない自信すら、今の彼にとっては愛おしい。


スキップで階段を降りる。母親と父親は、もうすでに朝食の支度を終え、それぞれの支度をしている…が彼が視野に入った途端、その血相を変えた。


怒っているわけではない、何か、深刻そうな顔を浮かべている。だが今の彼は、そんなことにも気づかないくらいに浮かれていた。


「おはよう…そして、久しぶり。母さん、父さん」


「…これは、もう手遅れかもしれないねぇ」


「そうだな。最善は尽くしてみるが…」


「何言ってんだよ。一年くらい部屋から出てなかったからって、その言い草はないだろ!」


彼はそう怒鳴る。そしてやっと気づく。家族の深刻な表情に。不安を覚えた、もしかして、顔に何かついているのでは…何かの病気になった?それとも…ふと、机を見る。花瓶に挿さっている花は、先ほど見た白い花だった。


ゼラニウム、花言葉は確か、『尊敬』『育ちの良さ』。けれど、彼は白いゼラニウムだけの花言葉を知っている。それは


『あなたの愛を信じない』


「ん…?まだ、意識はある…!?」


母親が顔を近づけてそういった。刹那、その顔はマスクとヘルメットをつけたお兄さんの顔に変わった。


サイレンがうるさい。どうやら自分は担架に乗せられるらしいと、そう感じる。その二人組が何やら話しかけている…が何を言っているのかわからない。


「な…な…」


なんで、なんでと言いたかった。それは、頭文字を除いて空気として霧散し、そして誰にも届くことはない。残った力を振り絞って、少し下の方を見る。そこでは母親が、父親に介抱されながら号泣していた。


「ナナ…ナナ!お願い…お母さん、あなたがいなくなったら…どうしたらいいの...」


ナナ…そうだ、それは自分の名前だ。そう思い出す。そのまま、意識は微睡に消えていくと、そう思われた。


「…やっぱり、うそつき」


その声が、脳裏から響く。ああ、これは俺の罰なんだ。そう受け入れて、彼はそのまま目を閉じた

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