また、夜の縁で
@panofeed8112
第一手:幕開け
午後四時を少し過ぎた頃だった。放課後の教室に、陽が斜めに差し込んでいた。彼は教室の隅の席に座りながら、ノートに何かを写しているふりをして、窓際の彼女を見ていた。
静かに、本を読んでいる女の子。名前は知らない。でも彼女は、ほぼ毎日同じ時間にそこにいて、決まって窓側の席に座り、文庫本を手にしていた。風が吹くたび、ページがめくられ、彼女はふっと微笑む。その笑みに、理由なんて必要なかった。彼女が誰かに笑っているわけではない。それでも彼は、自分の胸の奥が温かくなるのを、毎日感じていた。
ある日、ふと、彼女が顔を上げた。そして、彼と目が合った。いつもならすぐに逸らすはずのその視線が、今日は……逸れなかった。彼女はまっすぐ、彼を見て、静かに唇を動かした。
「……助けて」
声は聞こえなかった。けれど確かに、そう言った。ページの間から、一枚の紙がふわりと舞い落ちる。それを拾おうと、彼は立ち上がった。しかしその瞬間、世界がひっくり返った。
床が、教室が、音もなく反転する。目の前の景色が、灰色に塗りつぶされる。彼の視界には、ただ彼女の唇の動きだけが、焼きついていた。
「助けて」
その紙を見て、彼女の方を向いた…いや、彼女のいた方を向いた。…彼女は、跡形もなく消えていた。だが、あれが夢である筈がない、現に胸の高鳴りも、目に焼きついた唇の動きも脳を離れない。
『助けて』。その三文字の言葉が何を意味しているのか、彼はよく理解していなかった。正確に言うと、意味はわかっていた。ただ、本質に近づけていなかったのだ。
外を見る。先ほどの優美な夕焼けは息をひそめ、突然電源が切れたテレビのように、窓には彼の顔しか映らない。手にあるはずの紙を見る。それはもう、そこにはなかった。
彼女はそもそもここにいなかったボカ?そう考えるほど、証拠という証拠が全て消えていた。ふと、彼はノートを見る。否、見てしまった。
そこには、見慣れた文字が踊っていた。文字通りの意味で。それは何かを形作ろうと集まっている。
「あ…ぁ…?」
混乱と恐怖が彼を支配する。何が作り上げられていたのか確認する間もなく彼が叫び、走り出す。
3階、2階、1階。降りるたびにどこかで躓き、それでも後ろを振り返らず、戻らず、そのまま昇降口のドアを上履きのまま開けた。 そこにあったのは…
いや、そこには何もなかった。完全なる漆黒。地面も、空気も、何も、見えない。
ふと、頬に何かが触れる感触を感じる。その方向を向くと、『何もない』から黒い腕が伸び、頬を撫でていた。
それを認識した瞬間、目の前から数多の黒い手が彼を引きずる。なすすべなく、彼が暗闇に引き摺られていく中、彼はいまさっき聞いた声を、もう一度聞いた。
「うそつき」
——
「-い—ん。お-、にいちゃん!こんなとこで寝てたら親御さん心配するぞ?」
ハッと目が覚める。どうやら寝ていたらしい。時計を確認すると時刻は6時半を過ぎており、親に大目玉を喰らうことは確定した。
「その様子…相当な悪夢を見てたようだな、にいちゃん。すごい唸ってたもんなぁ?」
愉快そうにケラケラと警備員のおじさんが笑う。なんだか少し恥ずかしく感じるな。
「ははは…そろそろ僕は帰ります。それでは」
そう言って、帰路に着くために足を踏み出す…そのはずだった。
足が動かない。見ると、先ほどの黒い手が足を掴んでいた。
「にいちゃん…覚めたと思ったか?」
絶叫と同時に、彼は足を全力で振り、逃走を開始した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます