人生敗犬
@HillCypher
第1話 DELETE
物語はいつ始まったんだろう?
18年前か、それとも20歳の誕生日20日前からか。
とにかく、24歳になった俺は18歳の妹と出会った。血は繋がっているが、今まで会ったことのない妹が。
彼女はその日、何の前置きもなく俺のベッドルームに押し掛けてきた。
「あの……初めまして、お兄ちゃん」
最後の呼びかけが微妙に伸びていた。当然だろう。彼女だけでなく、俺だってすぐにはこの呼び名に慣れない。
ありがちなアニメみたいに、突然現れた美少女に動揺して質問攻めにする――そんな展開は起こらなかった。両親のやらかしたことに今更驚きもしていない。ただ一つ気になったのは、彼女が来た理由だ。
「とりあえず上がれ。お茶? ジュースもあるけど」
スーツケースを引き受けながらリビングへ招き入れる。血縁とはいえ初対面の家族に壁を感じないわけがない。
「お茶で結構です」
そっけない返事。荷物を置いた彼女はソファに背筋を伸ばして座り、スマホを操作している。台所のドアの隙間から、彼女の指が画面を高速で滑るのが見えた。友達と面白い話をしているんだろう。
「紅茶でいい?」
「はい……お願いします」
父親譲りの趣味だ。我が家の人間は紅茶党ばかりだ。「お粗末様」
「……ありがとう」
両手で受け取った湯飲みを唇に運ぶ仕草は礼儀正しすぎる。まだ緊張が解けていないようだ。
「で、急に来ることになった理由は? こんなに荷物も持って」
「高三で寮生活が嫌になって。お母さんに相談したら……」
「友達とトラブル?」
「違います……ただ、あの環境が耐えられなくて」
分かる気がする。俺も高三の時、冷え切った寮の空気や生気のないクラスメイトに押し潰されそうになった。あの重苦しい影から逃げ出すことだけを考えて、このアパートを借りたんだ。
大学を休学した後も、なぜかこの部屋に戻ってきた。慣れた場所に引きこもる方が楽だからだろう。母親の考えは分かる。生活面の世話をさせつつ、家賃の節約、そして俺の監視……一石三鳥だ。
「そうか。君の気持ちは理解できる」
「でも事前に連絡ぐらいくれてもよかったのに。散らかってるし、恥ずかしい限りだ」
「いえ……大丈夫です」
「まあ、ちょっと待ってて。主寝室を片付けるから」
「あ! いいえ、結構……」言葉の端々に緊張が滲む。普段から内向的な性格なのかもしれない。
「受験生なんだからしっかり休め」
「……わかりました。でも、手伝わせてください!」
断りたい気持ちを抑えた。少しでも役に立てた方が彼女も落ち着くだろう。
母親は三つの目的の他に、俺たちの交流を期待しているに違いない。
部屋の混沌ぶりに呆然とする俺。背後で必死に平静を装う彼女の目尻が微かに震えている。当然だ。母親は潔癖症で、子供のしつけにもうるさかったはず。それに比べてこの部屋の汚さは……。
「宇宙の本質ですね」
くだらない冗談を言おうとした瞬間、彼女が意味不明な発言をした。
「は?」
「『DELETE』で男女が初めて出会った時の台詞。宇宙の本質とはエントロピーの法則、秩序から無秩序へ向かうこの世界の真理――」
凍り付く。彼女が口にした『DELETE』は商業出版された小説ではない。ある小説投稿サイトで俺が連載していた作品だ。しかも原稿は全部焼却したはずなのに……。
「な……どうやって?」
「ふふん」
小悪魔のような笑み。この謎を解くには何か代償が必要らしい。
「『エントロピーの法則によれば、宇宙は常に無秩序へ向かう。だからこの散らかった部屋こそが宇宙の真理なんだ』」
主人公の台詞を一字一句再現され、思春期の黒歴史を掘り起こされる。
「やめてくれ……公開処刑かよ!」
「へえ、気に入ってるのかと思った」
「好きだったからこそ十年も前のものを引っ張り出すなって!」
照れくさいが、なぜか彼女との距離が縮んだ気がした。それに――。
この恥ずかしい冗談がきっかけで、初めて彼女の笑顔を見たのだから。
「今も書いてるの?」
「いや……ここ何年か筆を置いてる」
「どうして? 私好きだったのに」
「書けなくなったというか……ある事件があって」
「教えてくれますか?」
「また今度な。まずは君の生活基盤を整えないと」
書けないというより、書く意味を見失ったのだ。いつの間にか自分の描く物語を信じられなくなっていた。「こんな話現実にあるのか?」「こんな人物が存在するのか?」。
現実への失望が自己への疑念に転じ、幸せなものにまともに向き合えなくなっていた。あの日、動画サイトで偶然見つけたラブストーリー。恋人を亡くした主人公が「生まれ変わってもあなたに会いたい」というメッセージを受け、外の世界に出ていく――。
一年後、コンビニで出会った少女が遺品の指輪を身につけていた。その瞬間、俺は反射的に動画を消した。なぜか見続ける勇気がなかった。幸せな結末が信じられなかったからだ。
片付け終わり、簡易的なレイアウトを整える。仮住まいとはいえ、温かみがないと夜も眠れまい。
「ところで……お兄ちゃんはどこで寝るの? 客室がないみたいだけど」
「大丈夫。夜勤だから昼間は少ししか寝ないし、ソファで十分」
「それはダメ! 私が学校に行ってる間ベッドを使えば?」
「18歳の女の子と男が同衾するわけには……心配するな。元々ベッドは物置代わりだったんだ。このソファ、意外と寝心地いいぞ」
「……わかった」
ようやく納得してくれた。いつの間にか打ち解けたのか、それとも最初の内気さが演技だったのか。
「ねえ、お兄ちゃんの仕事って? 夜勤って……まさか!」
「おい、変な想像するな。バーのバーテンダーだ。昼間から酒飲む客いないだろ」
「あー、だからキッチンに変な瓶がたくさん……酒癖悪いのかと」
「仕事道具だっての」
「もういいわ。長距離バスでクタクタだから休むね」
「ああ、お休み」
ドアを閉め、暗闇に気付く。もうこんな時間か。
普段ならこの静寂も平気なのに、賑やかさを経験した後だと妙に不気味だ。隙間から漏れる光を頼りに照明スイッチを探す。明かりが灯ると同時に、重苦しい空気も消えた。
新しい体験だ。一人きりの時は灯りをつけても寂しさが残っていたのに。やはり人間が増えると変わるものなのか。
出勤まで少し時間がある。ソファで休もうとするが、体の奥に違和感。姿勢を変えても治らない。なぜだ?
……あ。
飯食うの忘れてた!
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