第9話 生まれる前の場所

 気付けば電車に乗っていた。窓の外は海底だった。どこまでも透明なあちこちで生き物が泳ぎ、揺れるウミユリが車窓を撫でて通り過ぎていく。


「ここはなに?」

「生まれる前の場所」


 向かいに座ったハルが言う。その目はいっそう蠱惑的に煌めく。

 海って、生命の根源なんだよ。全身が粟立って、私は目を伏せる。


「どうしてそんなところに?」

「私の考えを話すため。私の全てを解決するため──どうやってか、は聞かないで。私もあまり理解してないから」


 それでも尋ねそうになった私の前に、彼女は一枚の紙を突きつけた。クラス名簿だ。一番上と真ん中を、彼女は順にさす。言いたいことはすぐに分かった。欄がおかしいんだ。「藍染春」が大きく広がり、「棗」は小さく潰れている。まるで「藍染春」がそれより下の十数人を押し下げ、「棗」を潰そうとしているかのように。また欄が広がったように思う。「棗」の画素が粗くなる。


「落ち着いて聞いてね、ナツメちゃん。あなたは私に殺されそうになってます」


 目が合った。ハルの色が、私に貫入する。語りが、氾濫する。三音節の心音が、今度は聞こえなかった。


 

 つまりね、私はあなたになりかわって、世界へ浮かび上がろうとしている悪魔なんだ。


 これだけじゃ分からない。当然だよね。私はいつも、私の言葉だけで喋る。ごめんね。


 知るってどういうことだと思う? 知識って、どういうことだと思う? あるってなんだと思う? 存在は? 矢継ぎ早の質問は、私に答える暇を与えない。曖昧に融け合った色の中。ハルは、ハルのために問うている。やっと、答えられそう。


 あるっていうことと、知るっていうことは、表裏一体なんだよ。知るたびに私達は知識の網に手をかけて、世界に少しずつ浮かび上がっていく。世界は私達に手をかけられて、知識の網としてそのかたちを保つ。私達は、世界があるようにある、そのために、知ることを仕組まれた結節点。

なにがなに? 知恵熱を起こしそうだ。てか起こしてる。


 変わってるのは世界じゃなくて、私たちの方なんじゃないかって、前言ったでしょ。それが本当だったってことだよ。あなたは世界から零れ落ちつつある。網に括りつけていた知識の紐全部がほつれて、破れて、結び目のあなたはバラバラになりつつある。それじゃ世界はあるようにあれないから、生きられるように生きれないから、寄る辺ない知識が寄り集まって、あなたのかわりに結び目を作りつつある。それが私。藍染春。


 例えば?


 セーターを編んでいるところを考えて。毛糸が知識、セーターが世界で、編み目が私たち。もし編み目が一つほどけ始めたら、セーター全体が崩れないように、自然と新しい編み目が作られる──私はそういう、あなたの代わりの編み目なんだ。

私はあなたの空白に充填されつつある。私がなにかを知れば知るほど、あなたは私に吸い上げられていく。あなたがなにかを知ったと思っても、それは本質的にあなたから失われている。あなたが消失に気付く時、あなたは世界が身の内から、身の内が世界から引きずり出されたその感触に、気付いているにすぎないの。「」の欠片……速度が上がれば意識されもしない。あなたの消失は加速している。それはもう身体にまで及んでる。過去のない、生まれる前の亡霊みたいだった私はもう……小指をはじめ、あなたの歴史全部を私のものとして、それを現世へ置き去って、ここへ来ないといけなくなっている。


 つまり?


 端的に言って、私が生きている限り、あなたと一緒にはいられないってことだよ。


 今度は私でも分かるけど、分かりたくない。融け合った色から我に返ると、彼女は哀しげに笑っている。私の方を見ないで、片頬だけで笑っている。私は恐る恐る予想を口にする。


「どちらかが消えなきゃいけない……ってこと?」


 首を振られてほっとしたのは束の間だった。


「私がばらばらになって世界の空白を埋め戻すなら、あなたに私の奪ったものが返されて、私たちが生きる」


 そんなの、詭弁だ。


「つまりハルは消えるってことじゃん」

「消えないよ、元あった場所に帰るだけ」

「消えるんじゃん! 場所なんてものごと──きっとそうでしょ⁉」


 シートを叩いた。音も無くウミユリが揺らいだ。視界も揺れている。潤いをもって。


「やだよそんなの。ハルは消えちゃダメな人間なんだよ。友達もいるし、勉強できて──」

「そんなの関係ない。いくら、なにができたって、私はあなたを侵犯していて、それをあなたは嫌っていて──私は人間かも怪しいんだよ。同情なんか、しなくていい」

「なにそれ──同情なんか、する訳ないじゃん。ただ単に私の方が絶対──」

「でもさっき、一緒にいたいって言ったよね」

「一緒にいるってのはハルが消えるのと変わらないって!」

「変わるよ」

「証拠とかあんの⁉」

「それを探しに、これに乗っているんだよ」


 私は席から飛び出した。車掌室は。非常ボタンは。早くこれを止めないと──壁も窓ものっぺりとして、突起の一つもない。目が合った。他者が消えつつあることに、あなた気付いてた? 半狂乱で叫んだ。


「ハル、止めて! あんたならできるんでしょ?」

「止めないために二人で落ちたんだよ」


 息を荒げて、ハルを睨む。


「あんたはほんっとによく気の回る……!」

「私だって、やめたいと思うかもしれないからね」


 涼やかな口角は、そんなこと全く考えていなさそうで、私は思わず掴みかかろうとしたけど──突然がくんと身体が傾き、車両の端まで転がった。電車が火山を登っていた。座った方が良いよ、という親切な声音を払いのけ、私はポールに掴まった。


「どうして、こんなことになっちゃったんだろうね」


 あんたが言うことじゃ、ないでしょ。微笑みが震えてる。なんであんたの方が、窓に頬っぺた押し付けて、さめざめ泣かなきゃならないの。


「どうしてとか、ないでしょ」

「……そうだね。これは全部、たまたま……たまたま世界がほどけて、たまたまそれを知っちゃって……多分、たまたまそう仕組まれていた。でも、そんなのっておかしくない? たまたまで、人が消えていいわけ、ないんだよ」

「そうでもないと思うけど」

「……全部に理由がないならさ」

「なに?」


 ハルはそれきり口を開かずに、私と目も合わせずにゆっくりと、座席に寝そべった。音も無く涙が転がってゆく。その真珠のような不透明さばかりが気になって、でも、それを拾い上げられはしなかった。私はポールに縋って、自分を支えるので精一杯だった。


 

 「ヶ島」が終点だった。私達はカルデラの底まで降りていった。水溜りのような空白が、溶岩のように泡立っていた。ハルはみちみち集めた砂を両手いっぱい、空白に落とす。砂の塊が空白に触れるや、一気に内側からめくれて爆散する。砂の筋が何本も宙に伸び、もとあった場所のくぼみを音も無く埋めた。


「ね?」

「なにが?」


 ハルは笑った。鼓膜が破れそうなほどの笑いは、海の果てすら震わせた。夢見るように目瞬きし、肩を上下させながら、やっとのことでハルは言う。


「ほら、あるべきものはあるべきところへ帰るでしょ。あ~よかった。これで約束守れる。生きられるよ、私たち」


 抜け落ちたスカーフをちょっと裂いて、自分の人差し指に巻き付ける。震えて、何度も巻き直す。汗が垂れ、空白にあたって元に戻った。


「ねえ、なにするつもり」

「死ぬのって怖いよね」


 咄嗟に伸ばした手が、消えた。ちょっと我慢してね、返すから。微笑む彼女。私はやっと、この場に私の権利がないことに気が付いた。


「ダメだよ──」

「そんなに叫ばないでよ、もっと怖くなるから」


 彼女はもっと笑った。苦しそうだった。泣けば、いいのに。なんでもできる、はずなのに。なにもできない私みたいな顔をしていた。ふざけるな、ふざけるな、ハルのくせに──絶叫は彼女に奪われて泡沫に消える。


「私、ばらばらになりたくないけど、生きるのも怖いんだ。もしこの世界が椅子取りゲームなら──私のせいで誰かが弾き出されて消えてしまうくらいなら……そう思ったんだ。だから、ごめんね……」


 ハルはスカーフを巻いた指先を空白に浸けた。それは瞬く間に銃弾のかたちをとり、彼女の指の上で震える。


 私がその場にいる筈なのに。私が主人公であるはずなのに。私はただ奪われた声で叫びながら、もがこうにももがけずに立ちすくんでいるだけで──


 また、また、彼女の色に侵食される。声が置き換わっていく。


 全部に理由がないなら、私が理由になりたいって、思ったんだよ。


 私すくなくとも記憶の中ではさ、誰も押し退けず、押し退けられず、ただ立ってる人でありたいって思って生きてたんだ。でもそれはきっとあなたの感醸で──私はいつのまにか回ってて、押し退けるか、押し退けられるか、最終ラウンドで、怖くて……怖くてたまらないんだ。わがままに付き合わせちゃったかもしれないな。ああだっさいなこんな御託──でも聞いて、あなたの言葉を聞いて思ったの。あなたと一緒に居たいけど、あなたを苦しませたくないって。


 ひと呼吸、そのうちに、私は無限に遠ざかる。やめて、私から語りまで奪わないで。


 生きることは殺すことだって誰かが言った。もう、私もあなたも知らない誰かだよ。


 ごめんね、ごめんね。存在は有限なんだ。可能性は無限に切り分けられるけど、無限の可能性がある訳じゃない。起こることは、あることは、常にひとつ。知ることには責任がある。私は知ってしまったから……もう、責任を果たすしかないの。

あなたが見える。解体されていく。しららかな指を銃の形にしてこめかみに添える。最後の言葉を、選ばなきゃいけない。


 ナツメちゃん、私だけを憎んでね。


 また、ね。


 ほとばしったそれ﹅﹅はどこまでも赤くて、ありえないほど深かった。


 責任なんて、うそだ。


 飛び起きる。自分の部屋。誰もいない。磯の香りがする、ぐっしょりと重い毛布を跳ねのけ、リビングへ走る。割れたコップはそのままだった。電話は通じなかった。スカーフの破けたSサイズの制服が、窓辺にきちんと折り畳まれていた。海も、火山も、夢と思うには鮮やかすぎた。今ここに立っていることが、フローリングの冷たさが、肌に張り付いた包帯の感触が、足の裏の傷の痛みが、暴れる心臓の脈動が、こんなに鮮やかに感じられるのに、菫の香りも柑橘さえも、ひと吸いで消えていくのを……夢だと、思いたくて、立ち尽くす。

 鍵の開く音。なぜか、知ってる。背後の二つの部屋は、もう知らないなにかで溢れてる。思い出したくもない、数々のガラクタで。

「ただいま」

 聞きなれない、それでいて懐かしい声。そんなもの──今更聞きたくなんて、なかった。五本指で顔を覆う。小指の熱が重たくて、底なしの闇に光が走る。流れ星のようだった。

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