第7話 きみの名前と存在感
「……深夜、色々考えるんだけど──」
夕焼けを飛ぶ烏は黒すぎた。そういえば、夕焼けの方が赤すぎるのだった。ハルの横顔に目を移す。切れた言葉が、再生する。唇の後追い。
「──最近思うんだ。変わってるのは世界じゃなくて、私たちの側なんじゃないかって」
なんとなく、立ち止まる。なにを言っているのか、分からない。
「……天動説、地動説的な?」
「うん」
うん、だけ? 精一杯の追いすがり。私が辞書の一番奥から引っ張り出した言葉たちは、きっと彼女の中では常識だった。期待外れの感触が、私に過去を気付かせる。運動会だ。こんなふうに追いすがろうとして……どうなったっけ。紅の中で眉をひそめて、彼女は尋ねた。
「ナツメちゃん、名前は?」
いまさら?
「ナツメ、だけど」
「それは上の名前? 下の名前?」
「上下って……どういうこと?」
名前に上も下もない。藍染春は藍染春で、
「そう思ってるの、ナツメちゃんだけだよ」
名前が消えてるんだよ、あなた──それは、つまり、どういう。
「昨日、ふと思い出したの。ナツメちゃんってどういう字だっけって。クラス名簿を見直したら、ナツメちゃんだけが一文字だった。何人かに聞いてみても、名前の上下を答えられない人はいなかった」
じわり、と理解がしみこむ。それはつまり、つまり私は私の消失に気付かずに、ハルだけがそれに気付いた、ということ? この世の終わりみたいにくらりとして、声が吐かれる。
「私、は、終わるの?」
「終わらせないよ」
頼もしく響いた。紅の中でも色を保った目を、彼女は私に差し向ける。
「消失したものとなんらかの重なりがあって、名前だけが消えた──つまり、ナツメちゃん自身には影響のない場合もあるよね」
「そうじゃない場合も?」
「ある。でもナツメちゃんは終わらせない。方法は考えてる。昨日もう一つ気付いたことがあって──考えが固まったら、あとで話すけど」
「なんで、そんなに、私を」
「知ることには責任があるって、私は思うから」
深い色の引力はなによりも私をとらえて離さない。普段はあんなに柔らかな目が、その
私が気付きたかった。私があなたにその目を向けて、声を響かせたかった。私は自分のことにも気付けずに、主人公に守られる凡庸な市民に成り下がったの? 教会の鐘が鳴っている。そちらへハルは目を向けて、とんがり屋根のなにもないてっぺんを指差した。
「あれもそう、消えてる。私たちにしか気付けないけど」
「私にしか」と言えばいいのに。だって私はもう二晩も、なんの空白も見つけてない。ハルの言葉の端々から香る信頼が重かった。もう私はハルを、ほとんど憎んでしまっている。逃げ出したかった。でも、無理だった。あの日の鼓動を覚えているから。花のような笑顔が私に向かないことが辛いから。誰かに見られていたいから。微かなプライドが、泣き出すことも許さずに、私の身体を支え、変なリズムで歩かせ続ける。交差点での別れ際、彼女は呟くように言った。
「消失は加速してる。消えたものが大きすぎて気をとられていたけど、多分消失の範囲はもっと広いよ。今も進行中なんだ」
また胸が苦しくなる。
家に帰って、ノートを開いた。私だけのものだったノートは、今や彼女の言葉に埋め尽くされている。それが幸福かどうか、私には分からない。不意にページを引き裂きたくなって、幾度かページに手をかけた。そのたびにハルの顔が浮かび、私の顔が浮かび、力を籠められない。汚染されている。彼女に侵されている。あの目──あの色──!
追い出す勇気はない。
追い出そうと思えない。
怖いから、それだけじゃない。あの日、鼓動を増した心臓の熱さを覚えてしまっているから。顔を覆って泣くわけでもなく、指の隙間からノートを見つめる。ページの上にはいつも私がいた。今はハルがそこにいる。今の私は、どこにいるんだろう。
テスト期間中、私はハルを避け続けた。テストが終わるとすぐ教室を出た。廊下に影を見つければ何メートル先でも隠れ、お弁当はトイレで食べた。予習も復習もできていないテストは、私の頭をいたずらに痛くして、つい保健室へ向かってしまった。角から不意に現れた彼女は、有無を言わさず私を踊り場へ引っ張っていく。私より小さいくせに、身を離そうとしても頑として手を離さない。その強引さに少し安心する私が嫌だった。いきなり彼女は私の袖をまくって、「コユビ」と言った。
「なんなの?」
「消えてるの。指が一本」
「消えてなんかないじゃん」
黙って彼女が広げた手を見て、私はゆっくり気付かされる。指切りした時、絡めた指の感触。
「昨日には消えてたのに、ナツメちゃん逃げ回るから──」
「四本指でも結構快適だけどね」
「そんなこと言わないで」
あまりに鋭い語気にひるんだ。ハルが怒るなんて知らなかった。そんなに険しい顔をすることも。知ったからってどうなる訳でもない。ただ、知らなかったことがまた、胸を
「これは大変なことなんだよ」
私にはなにが大変なのか理解できない。あの繋いだ指が虚空に消えて永遠化したなら、それはそれでいいと思える。正直に言うと、ハルはまた「そんなこと言わないでよ」と言った。
「これは兆しなの。悪い予感が当たりつつある──放っといたら、ナツメちゃんが消えちゃうかもしれないんだよ。なんとかしないと」
私が消えるってだけの話で、なんでこの子はこんなに怒ってるんだろう。むしろ消えたいくらいだ。なにもできない、どこにいるかも分からない、こんな私。
「別にいいじゃん、消えたって。ハルには沢山友達いるしさ。私なんか誰も──」
「よくないよっ!」
音が見えなくなる、泣き声のような残響の底で
「ナツメちゃんはいなくなっちゃダメだよ……」
震え声で微かに言った、その言葉はなに。
「……ごめん、大きな声出しちゃって」
ハルは潤んだ目で私を見て、か細い声で謝った。そうじゃない、そうじゃないのに訂正できない。なにもかもがハルらしくなかった。皮肉めいた口調が喉に引っかかって息を全部堰き止めてる。色が迫る。
私がなにを考えてきたか、知ってよなんて言えないけどさ──
「ナツメちゃんはさ、分かる? 最近、あなたの過去が私と同じだって、よく気付く」
か細い声が、また震える。涙に押し出されるように、ハルの目が私の内側に食い込んで、またぐるぐるとかき乱す。
分かるかな。知れば知るほど、その人が失われていく気持ち。
私の内側と、あなたの内側が、また融け合って分からなくなる。いつもより深い瞬間に、目が眩む。
ねえ、あなたはなに?
「……ごめん」
本当に小さな声が、予鈴に掃かれて消える。階段を駆け下りていくハルの足音が、リノリウムの感触をもって耳の中で響いた。さよならはなかった。
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