「」の消失

蛙鳴未明

第1話 いきがつまる

が消えたことを、私だけが知っている。


※※※


「才能なんてない」なんて歌うのは、いつだって幸運に鈍感な人たちで、私には歌えるような喉もない。「声は出せるだろ」って叫べるのも、それはそれで才能で、「勇気を出せ」って言われても、勇気を出してどうなったか私は覚えているから、流れる歌詞を書き留めるのをやめて

「流行りの音楽なんてゴミ」

 って、写した歌詞の隣に書き込むの。

 味気ない間奏。

 別に、いじめも嫌がらせもない。クラスメイトはみんな、人並みに嫌な奴だけど、所詮人並みだから、ちんまりした私なんかに関わろうとするほど暇じゃないんだ……先生だってそんなんばっかだ。不満なんて……ただ、私は人並みらしき世界の真ん中で、ひとりで、なんもできなくて──でも私、反吐が出るほどの勉強はできたはずじゃない? なんもできないって言えば、なにかから逃げられる気がしてる?

いきなり、ついと、逃げ道が無くなる。あー、つまり私はただの

「怠惰」

 怠惰の「惰」の字を練習した痕が、ページの裏から浮き出てる。撫でれば撫でるほど、消えない。ダサい、こういうの。漢字を書けたからって、偉くなれる訳じゃないでしょ。ばかなくせしてさ。

まだ、音楽が鳴ってる。

 「そばにいるよ」って、妄想信者かな。お前らは等身大のヒーローらしく、私よりずっとずっと遠いところにいればいいのに。

いいのに。

 「でも」

 ラジカセを叩いて止めた。歌詞の乗ったページを破いてゴミ箱に投げた。拾い上げて、開いて、ぐしゃぐしゃにして、また投げ込んだ。ノートも大きく振りかぶる。大きく、大きく……

 そこには、吐き出せないこと全部が詰まってる。

 それは過呼吸の袋みたいで。

 今、息が、できない、いつもより。

 いつも、そうか。あー、あ。

 ぱさ、と情けない音を立てて床に落ちたノートを、震える手で拾い上げて、高校指定のスクールバッグの一番外のポケットに差し込んだ。すこしはみ出た背を、ジッパーで覆う。死体を隠す時ってこんな気分だと思う。

 学校が始まってからひと月経った。

 アイスでさえもセブンティーン……十六歳とすこしの私は、もう明日の顔が分からない。ひっそり持ち歩いてるコンパクト。開ける度に同じ顔……どんな顔で座っていればいいんだろうって、椅子の上でいつも考えてる。√2/2、助動詞の活用……なにを教えられたって、遠い世界に置き去りにされているような気分で。

 ……特別、なにかあったわけじゃない。嬉しいことも、やなことも……なにもなかった、それだけ。

 私にはなにもない、ただそれだけ。

 現在進行形で、そう──あ、作り方がぼんやりしてる、現在進行形。あんなに勉強したのにね。あの時は、なにか変わると信じてた?

 ひとりで、別になにも変わらなくていいやって諦めながら、まわりが勝手に変わってくれって願う私は、卑怯だろうか。少なくとも、そんなことないよを待つのは卑怯だと思う。

 「でも」──はあ、それを塗りつぶしながら──なにか、誰か、私が私でいる意味が欲しくて……でもまた、なにも言えないまま、日々が積み重なっていく。ノートをくしゃくしゃにできなくなっていく。

 

 そのひと月はまるで永遠みたいだった。

 

 ──だから、が消えたことを知った時、私は嬉しかった。

 それは間もなく過去に置き去られていったけど、確かにそう。

それ﹅﹅が消えたことを、私だけが知っている。」


 震える手で、ノートに書き付けた。


 

※※※

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