春に舞う
ミクラ レイコ
春に舞う
桜がアスファルトの道に白い絨毯を作る季節。
「どうぞ」と声が聞こえて裕香が中に入ると、部屋の奥に座っていた初老の男性が顔を上げる。
釣り目がちの目で裕香を見るその男性は、物理化学教室の教授、
「早川先生、頼まれていた資料をお持ちしました」
「ああ、ありがとう。そこに置いておいて」
教授は、部屋の入り口近くにある小さな机に視線を向ける。裕香は、頷いて資料を机に置いた。
「……そう言えば、君、論文進んでるの? 難しいテーマだよね。君は僕の手伝いをよくしてくれるけど、自分の研究を一番に考えてね」
そう言う教授は、現在五十五歳。白髪交じりの髪を綺麗に整え、眼鏡を掛けている。彼の瞳に、長い黒髪を緩く束ねた裕香の姿が映った。
「大丈夫です。今月中には実験に目途がつきそうなので。……それより、先生の方こそ大丈夫ですか? 来週は歓迎会ですよ」
それを聞いて、教授はぎくりとして表情を変えた。
「……やっぱり、今年もアレをしないといけないのか……」
「助手の田中さんも、准教授の
裕香は、苦笑して応えた。
「……はあ……。もういい、行きなさい」
「はい。……あの、私が言うのもなんですけど、先生の踊り、私も楽しみにしています」
そう言って、裕香は部屋を後にした。
研究棟の廊下を歩きながら、裕香は三年前の事を思い出していた。
◆ ◆ ◆
あれは三年前、裕香が大学四年になったばかりの頃。
裕香は以前から興味のあった研究をする為に、早川教授のゼミを選択していた。そして、新学期を迎えた数日後には、大学の近くの公園で歓迎会という名の花見が催された。 午後の日差しが降り注ぐ公園は、家族連れやカップル等で賑わっている。
「長峰ちゃーん、飲んでるー? 会費制なんだから、飲まないと損だよー」
大学院生の男の先輩が裕香に絡んでくる。裕香はもう酒が飲める年齢だが、あまり酒に強くないので、出来れば酒は飲みたくなかった。
「あの……すみません。私、お酒に弱いので……」
ぎこちない笑顔で裕香が断るが、先輩は引き下がらない。
「えー、ちょっとくらい良いじゃーん。ほら、注いであげるから」
そう言って、先輩は裕香のコップに缶ビールを注ごうとする。困ったなあ。裕香が苦笑しながらどうしようかと考えていると、不意に早川教授が口を開いた。
「
豊島と呼ばれた先輩は、唇を尖らせて文句を言う。
「えー、確かに桜も綺麗ですけど、すぐ飽きるじゃないっすかー。それとも、教授が何か面白い事してくれますー?」
教授は、いつも無表情で釣り目がちな為、厳格な印象を与える。そんな教授に向かってそんな口を利くなんて、先輩はかなり酔っぱらっているのだろう。
しかし、教授は先輩に怒る事なく、考え込んでしまった。そして、数秒の後、頷いて言う。
「……分かった。僕の母親は日本舞踊を習っていて、僕も少しの間だが習わされた。面白いかどうかは分からないが、踊ってみようじゃないか」
そう言うと、教授は敷いていたブルーシートから出て行き、何やら踊り始めた。日本舞踊の動きをしているようだが、動きがぎこちなさ過ぎる。しかも、女性用の振り付けらしく、教授がその振り付けで踊ると滑稽だ。
そんな教授の姿を見て、豊島先輩を始め、ゼミのメンバーが揃って大笑いする。そんな皆の様子を見て、裕香はハッとなった。
そうだ。教授は、自分が中々お酒の誘いを断れなかったから、こんな風に笑い者になっているんだ。後で謝罪とお礼を言わないと。
お花見がお開きとなる頃、裕香は教授の元に行き、頭を下げて謝罪と礼を言った。教授は、手をヒラヒラさせて応える。
「気にしなくていい。恥ずかしかったけど、僕も楽しんで踊れたから」
そして、教授は裕香に背中を向け、スタスタとその場を後にした。その姿を見た裕香は、思いがけずときめいてしまう。
心臓の鼓動が速くなり、顔は熱くなった。
当時裕香は二十一歳。早川教授は五十二歳。
三十一歳差の恋なんてあり得ないと思っていた裕香に訪れた春だった。
◆ ◆ ◆
そして現在。裕香は研究棟の廊下を歩きながら思った。教授は独身と聞いているけれど、自分に恋をしてくれる事は無いだろう。でも、教授が恥ずかしい思いをしながらも踊ってくれたあの日を、自分はきっと忘れない。
廊下の窓から外を眺めると、桜の花びらがひらりと舞った。
春に舞う ミクラ レイコ @mikurareiko
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