第56話 部屋で

 志喜は目を覚ますと、見慣れた天井があった。祖父の家、自分に当てられた部屋である。布団に寝かされている。反射的に飛び起き、辺りを見回す。時計は夕方を指していた。倒れ寝かされた時に、顔を覗き込んでいたチコはいない。正座をし様子を窺ってくれていたあおゆきはいない。

「あれ……」

 志喜はつぶやいた。

「記憶……消えてない」

 そう。チコの祖父の言う通りに記憶消去の術が施行されていたら、チコやあおゆきがこんな時に傍にいるなんてことを思うはずもなかった。

「どうして? サービスってわけじゃないか」

 志喜はふと思った。チコの幻術がどこまでかかっていたのかということを。チコの術で家族は、遠縁であるとかあおゆきを無理なく受け入れたりした。けれど、それが解けてしまった後はそれまでのことが無くなっている。重ねた時間だけではない、そこで交わされた言葉や思いや笑顔や。そのことさえも家族には覚えのないことだった。では、あれらは一体なんだったのだろうか。

 いや、そもそも、もしかしたら、生まれてから今までが実は幻で、チコは本当の現実を見せてくれていたのかもしれない。

 そんなことさえ志喜は思った。

「勝手だよ、チコもあおゆきさんも」

 と言った志喜は、はっとした。憑くのも離れるのも相手の勝手と主張するならば、それにいてくれと、離れないでいてくれと主張するのも同じくらいに勝手なことだということに。

「治してくれるって言ったじゃないか」

 震える声だった。志喜は右肩を握った。じんわりとした鈍い痛みが骨の髄から広がるようだった。いくつもの滴が瞳から畳を押し付ける手の甲に落ちた。

 カラスの鳴き声が空しく遠くで響いていた。


 志喜は離島の前、もう一度古刹を訪れた。

 けれど、そこには観光客しかおらず、あおゆきもチコも、それどころか、うさぎ一羽にさえ出くわすことはなかった。

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