第3話 古刹にて

 父の運転で三〇分強ほど、志喜たちは古刹に到着した。駐車場から全体を仰ぎ見た。幼い頃に来た覚えがあるが、その記憶とはまるで違う雰囲気だった。門の両側には色の淡くなった仁王が立ち並び、そこを抜けると、急な石段が伸びていた。濡れた色を帯び、ゴツゴツと整合性のない段が続いていた。志喜の足先半分くらいしか載せられない石段を、一歩一歩足元に気を配りながら慎重に昇る。先を行く父や母からは、

「若いのにおっさんくさい歩き方だな」

 などと茶化された。そう言われても、不慣れな場所では気を張っていないと、苔のせいでいつ転ぶか知れない。

 ようやくにして昇り切ると、いかにも古めかしい、しかし荘重さを感じさせる観音堂があった。靴を履いたまま板張りの段を上がり、賽銭箱に小銭を入れる。父の話しに寄れば、実家と同じ宗派で、島内では名のあるこの寺に、志喜が受験勉強をして帰省できない間に参詣に訪れ、合格祈願をしたそうだ。だから、自身が来ていなかったとはいえ、その礼はしなければならない。高校入試の日、直前にやった問題集の設問に似た出題が解けたのは、もしかしたらその御利益かもしれないとさえ思えた。

 観音堂への謝辞を終え、父と母は石仏が並ぶ別の建屋へ足を向けた。志喜は観音堂の前にある三本の大きな杉の前に立って、その悠然とした佇まいに見とれていた。幹周りは三メートル、高さは一〇メートルを優に超えている。これさえも記憶にないのだ。これほど大きければ、幼い身には衝撃で覚えていそうなものだったが、ないものは仕方ない。むしろ、今だからこそ、居並ぶ自然に目が釘付けになるのかもしれない。

 志喜は枝並みから視線を外すと、上がって来た段下に一羽のウサギを見つけた。濃い灰色をしたそれがヒョコヒョコと動いている。小学校の小屋にはいたが、それほど注意深く見たことはないし、動物園に行ったとしても、それほど興味をそそられたことはなかった。だが、この日に限って妙に注目をそそられた。

「寺にウサギって、どんなミスマッチだよ」

 志喜は、静かに石段を下りて行った。近くで見てみようとしたのである。ウサギはしばらく動かなかったが、志喜が近づいて来ると石段の脇の林へ続く道へ動いた。

「アリスか、僕は」

 そんな冗談を誰も聞いていないのに、つぶやいた。

「本当にワンダーランドに行くんじゃないよな」

 そうは言っても志喜は、そのウサギを追いかけるのを止めなかった。林に入って数メートルでウサギは、一本の木の根本でじっとしていた。鼻をヒクヒクと動かしている。

「こう見ると面白いな」

 逃がさないように、音を立てないように、ゆっくりと一歩ずつ進んだ。ウサギは逃げない。ウサギの身の丈に合うわけではないが、身を屈めた。ウサギはぴょんと後退した。

「やっぱ怖いか。あ、そうだ」

 ポケットから小袋のチョコを一つ出し、落ち葉の上に置いた。

「おーい、志喜どこだぁ? そろそろ出るぞー」

 聞き慣れた父の呼ぶ声が林の外から聞こえた。立ち上がって距離を取るウサギに言った。

「ウサギにチョコがいいのかしれないけど、怖がらせたお詫びだ。じゃあね」

 駆けて林を出た。階段を下りながら、

「どうした、あんなところで」

「ウサギを見つけてさ、こっちに入って行ったから」

「放し飼いにしているからな、ここは」

「そうなんだ」

「でも、そんな奥まで行ってたら迷子になるぞ」

「何言ってんだよ、すぐそこにいたじゃないか」

「はあ? お前のずっと奥の方から出て来たぞ」

「父さんこそ何言ってんだよ」

 などと都筑家の男たちが言っている傍で

「アリスの不思議の国かしらね」

「止めてよ、母さん」

 母が自分と同じような思考をしていることに、志喜は小恥ずかしくなる思いがした。

 一羽のウサギが、そのやり取りを木陰に隠れながらじっと見ていた。志喜がそんな視線を、まるで気づかないままだった。

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