第十七話 織りの外へ

 黒銀の風が、夜の林を切り裂いた。

 しなやかでありながら猛々しく、獣のように地を駆ける異形の影。

 その中身は少女――ネヴィア。その外殻は、死したアリウスの共生体、レフィカルの繊維で形作られていた。


 空を裂いていた咆哮も、神殿の崩壊も、今はただ、後方の闇の彼方。

 織の波に乗るように、彼女たちは“意味”の縫い目から滑り出ていた。


 変異体は走る。

 けれどその動きは、徐々に乱れ始めていた。


 胸のあたりで、内側から赤い光が滲んでいく。

 ネヴィアの小さな体には、レフィカルの完全な共生体を維持するには限界があった。


 脚がもつれる。

 一歩の重みがずしりと全身に響く。


 枝に触れた指先から、微かに黒銀の繊維が滑り落ち、地に散った。


 そして、音もなく崩れ落ちる。


 ――変異体は地に倒れた。


 その身を覆っていた装甲のような繊維がほどける。

 糸がほどけて、少女の素肌が夜気にさらされた。


 残されたのは、荒い呼吸を繰り返すネヴィアの姿だけだった。


 レフィカルの声が、どこかため息混じりに響く。


「お前では維持できん。分かっていたさ。

 アリウスとは違う。だが……」


 少しだけ沈黙があった。


「……それでも、“音”はあった。名も、言葉も持たぬお前が、だ」


 ネヴィアの掌が、草の上に落ちた自らの髪を握る。

 微かに、そこに残っていた黒銀の繊維が、脈動した。


 鼓動のように。


 夜の森に、静かなる足音が重なる。


 一体は、背中の腫瘍を脈動させながら、草木を押し分け進んでいた。

 腫瘍の表面には無数の毛のような感知器官が生えており、吐き出される空気の変化、草の揺れ、地表の微細な温度勾配を読み取っていた。

 ――目も、耳も必要ない。ただ“環境の意味”を感じ取る感覚で、追跡は可能だった。


 もう一体は、肩から伸びた鞭状の繊維を地面に這わせながら進む。

 草の葉に残された微かな湿り気。折れた枝の向き。

 獣のように低く身を構え、鼻先を地に近づけるたび、細胞が揺れた。


 両者ともに、互いに干渉することなく、それぞれの“感覚”で獲物を追っていた。

 それは命令でもあり、本能でもあった。


 ある一点、微かな“繊維の痕”を感じ取った瞬間。

 腫瘍の刺客の腫れ物が弾けるように波打ち、唸り声のような音を発した。

 鞭の刺客はそれに反応するでもなく、空を裂くように跳躍した。


 獲物は一人。

 だが、捕食の仕方はそれぞれに異なる。


 神殿の崩壊した内奥。

 沈黙に満ちた瓦礫の中心――そこに、ひとつの死骸が横たわっていた。


 アリウス。


 黒銀の繊維は抜け落ち、鎧のような殻は砕けて散っていた。

 血と泥にまみれたその身体には、まだ微かな熱が残っていたが、心音はない。

 魂の気配も、もはや感じられない。


 そこへ、一つの影が音もなく現れた。

 黒い布に顔を隠し、足元からは微細な粒子を垂らす刺客――第三の刺客イデアリス。


 影はアリウスの元に近づき、まるで“書きかけの書物”を前にした学者のように、静かに片膝をついた。


 垂れた粒子が、死体の表面を撫でる。


 ……その瞬間だった。


 粒子が“はじかれた”。


 何の抵抗もないはずの皮膚――その上を、記録の粒子が拒絶され、滑る。

 まるで、“意味”が染み込まないかのように。


 影は動かない。

 ただその手を、空中に掲げる。


 掌から“織糸”が広がり始める。


 織――それは世界の記録。

 あらゆる命、あらゆる現象を編み込み、“意味”として残す王の網。


 だがその糸は、アリウスの遺体の上で、ぼろぼろと千切れていった。


 記録できない。

 言葉にできない。

 定義できない。


 それは、“織”の外にある存在だった。


 影はしばらく黙していたが、やがて静かに立ち上がった。


 そして何も言わず、その場を離れた。


 ――王に報告するべき記録は、なかった。


 風が、夜の湿り気を運んでいた。


 地面に倒れ込んでいたネヴィアが、ゆっくりとまぶたを開く。

 草の香りと、微かな血のにおい――身体の奥に、熱の残り火のようなものがあった。

 痛みではない。繊維の痕跡が、彼女の身体の内側に微かに響いていた。


 目を凝らすと、空が少しだけ薄くなっていた。

 夜の終わり。朝が、遠くで静かに始まっていた。


 レフィカルの声が、彼女の内に低く響く。


「……お前では、あの“姿”は保てない。

 織られていないお前の肉体では、強すぎる。だが――」


 そこまで言って、レフィカルは少しだけ言葉を切る。


「それでも、お前の中には“音”がある。

 名も、言葉も持たぬはずなのに、なぜ……これほど響いてくるんだ」


 ネヴィアは、指先を伸ばして朝露に濡れた草に触れる。

 その掌に、微かに黒銀の糸が残っていた。

 まるで、彼女の中に根を張ろうとするように。


 言葉にはならない。

 だが、そこには確かに“返事”があった。


 レフィカルが最後に呟く。


「……織られてなどいない。だが、だからこそ――」


 風が草をなで、光が空を裂く。


 少女は、名も声も持たぬまま、立ち上がった。

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