第十五話 織られぬ者
かすかに白んだ花弁が、風もない神殿の奥で揺れていた。
まるでそこだけ時間が止まっているように、冷たく、静かに。アリウスはその場に膝をつき、苔に覆われた壁面に目を凝らす。
刻まれていたのは、王家の系譜だった。けれど、一つだけ――最も上位にあるべき“長子”の名が、そこにはなかった。
その場所には、ただ一言だけが刻まれている。
〈悪魔〉
アリウスは知らず、拳を握っていた。
爪が掌に食い込むほどに。何がどうして、こんな記録になったのか。なぜ、名を刻まずに“悪魔”などと呼ばれているのか。
そして――なぜ、エネアはこの記録を、村に持ち帰ったのか。
「……どういうことだ。これは……“誰”なんだ……?」
呟いた声に、壁の奥から風が吹いたような錯覚が走る。
胸元から伸びた糸で形作られたレフィカルが、黒銀の瞳で記録を見つめていた。
「名前がない、ということは――名前を“与えられなかった”ということだ」
「与えられなかった?」
「あるいは、“奪われた”か。“織られた者”として、最初から数えられなかったのかもしれない」
レフィカルの声はいつになく静かだった。
視線は動かない。刻まれた“悪魔”の二文字を、まるでその向こうにある何かを透かして見ているようだった。
アリウスは少しのあいだ沈黙し、やがてぽつりと漏らす。
「……こんな記録を、なぜ……姉さんは、持ち帰ったんだ」
その問いに、レフィカルは答えなかった。
アリウスの視線が、崩れかけた石壁のさらに奥――苔に覆われた一枚の壁面へと引き寄せられる。
そこには、別の筆跡で綴られた断片的な記録が、剥き出しの石肌に彫られていた。
「長男が生まれし日、祝いの儀が行われた」
「しばらくして、乳母が頭を失い、死していた」
「長男には、“悪魔”が取り憑いていた」
「物を宙に浮かせ、形を歪め、遊びで人の頭を爆ぜさせた」
「我らはその悪魔を封じ、名を奪い、地下へと閉じ込めた」
「奴隷をもって世話をさせ、誰にもその名を呼ばせなかった」
「この“悪魔”を追い払う術を求める者のために、ここに記す」
読むたびに指先が震えた。
視線が活字をたどるたび、脳の奥で言葉がざらつくような感覚があった。
「……悪魔……? まさか……」
呟くように言いかけたそのとき、レフィカルが背後で息を吸う音を立てた。
「そうだ。それが“織られざる者”の記録。だが、今やそいつは、“王”として君臨している」
「……じゃあ、この“悪魔”って……」
「お前の村を焼いた兵たちは、誰の命を受けていた?」
レフィカルの問いに、アリウスは拳を握る。
あの夜、焼かれた村。剣を持った兵。エネアが斬られた光景――
そして、確かに聞いた。
「王の命により、この村は焔に処される。
民すべて──ここにて滅せよ」
「……王、なのか。
記録には名がないのに……今は“王”として、名を持って……」
レフィカルが壁面の“悪魔”の二文字を見つめながら、静かに言った。
「名を消された者が、名を手に入れ、
織られなかった者が、織る側に回る――。
それが、いまこの地を支配してる“王”、だ」
アリウスの喉がひりついた。
その名を口にした瞬間、空気の奥がわずかに軋んだような錯覚が走る。
「……」
「皮肉なもんだよ。“織られざる者”が、“織り手”になるとはな」
ふと、風もないはずの神殿の奥で、乾いた衣の擦れる音がした。
アリウスが振り返ると、ネヴィアが壁面の記録にそっと手を添えていた。
彼女の指先は、名もない“悪魔”の刻まれた一節の下――わずかに歪んだ線と、かすれた織り模様の断面に触れている。
その瞬間だった。
空気が震えたように感じた。
いや、違う。震えているのは、ネヴィアのほうだ。
「……!」
彼女の肩が小さく揺れ、膝が崩れるように床へ落ちた。
身体を支えようとしたアリウスが手を伸ばすと、ネヴィアの背から浮かび上がった黒銀の糸が、まるで逆流するかのように脈動していた。
脈ではなく、“拒絶”のように。
「ネヴィア……!」
抱き起こした少女の身体からは熱がない。
しかし、冷たいわけでもなかった。ただ、何かが――“神殿の記録そのもの”が、彼女を受けつけていないように思えた。
レフィカルが、アリウスの肩越しに静かに言った。
「……そういうことだな。
この神殿の記録は、“彼女”を織っていない。最初から、存在しないものとしている」
「……?」
「彼女には、“名がない”。記録に載るべき“語”を、最初から与えられなかったんだ」
アリウスはネヴィアの頬に手を添え、揺れる瞳を覗き込んだ。
彼女は震えながらも、うっすらとこちらを見つめ返していた。
何も語れないその目に、ただ“痛み”だけが宿っていた。
「名前が……ない?」
レフィカルの声が重なる。
「神が気まぐれに弄った結果、生まれ落ちた“記号にもならなかった個体”。
織られた民でもなく、異端の存在でもない。
記録にも、名にも、触れられず――
それでも、ここに在る」
アリウスは言葉を失ったまま、ネヴィアの背に自分の掌を重ねた。
触れた糸が、一瞬だけ安らいだように脈を鎮める。
ネヴィアが、ほんのわずかに微笑んだ。
王都――
広大な織り布が広がる空間の中、一本の黒糸がざらりと揺れた。
それは、記録の“異常反応”を示していた。
「……記録されていない?」
淡く呟いた声に応じるように、王の足元に跪く三体の影が首を垂れる。
生き残った刺客たち――そして、その中央に、静かに立つ“王”。
カダム。
その顔には、表情というものが存在していなかった。
ただ、記録の織り目を見つめるその眼差しだけが、どこか不愉快そうに曇っていた。
「“織られぬ者”か……」
その声に、織糸が微かに唸りを上げる。
次の命令が下るよりも先に、“記録されぬ名”が、世界を歪めはじめていた。
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