第14話 錬金術師の沈黙

その夜、工房は深い静けさに包まれていた。だが、ネマの部屋だけは小さな灯りがまだ消えず、静かなめくり音が途切れがちに続いていた。


彼女が探していたのは、両親のもう一つの研究――どんな怪我も病も治すとされる万能薬、エリクサーについての記述だった。


完成されることはついになかったが、両親に金色の輪が現れてから、両親が研究の軸足をエリクサーに移していたことは知っていた。


「……お願い、どこかに……」


祈るように呟きながら、ネマは両親のノートをめくっていた。


読んでいたのは、両親が残した研究ノートの最後の数章。最後に研究していたのだから、最後に書き記しているのが自然だろう――そう考えたネマの直観は当たった。


「……あった」


賢者の石のページのほんの数ページ後に、その薬の記述はあった。意味深な詩が書かれているのも同じだ。


ラベンダーは青 ラベンダーは緑

僕が王様なら 君は女王


鎮痛作用があるラベンダーは、おそらくベースとなるポーションの種類を表している。青と緑といった色は、それぞれ特定の元素――この場合は水元素と風元素に対応することが多い。王様と女王は、いつか母に聞かせてもらった物語に出てきた素材だろう。


しかし、詩の続きを読んだ瞬間、ネマの中の時間が止まった。


誰が言ったの? 誰が言ったの?

僕の心が 言ったんだよ


最後に加える素材は「心」――見覚えのある単語に、ネマは冷や汗が吹き出した。ページを繰る手が震える。ほんの数ページ前、賢者の石のページを開くと、何回も読み返した詩が飛び込んでくる。


あの市場へ行くんだね。

セイボリーセージ、ローズマリー、タイム。

美しい娘に伝えておくれ。

心から愛した人。


ネマの紙を持つ手が、ゆっくりと震え始めた。。「心」に対応する素材は、ネマが数ヶ月に渡る試行錯誤の末にたどり着いたものだった。希少な素材を多く使っていて、もう一つ作るには、最低でもひと月はかかる。


先に治療薬を作らなければ、とネマは考えた。生きてさえいれば、きっとチャンスはある。


「――でも、王様と女王って、どの」


両親から聞かせてもらった物語が、手がかりになっていることは間違いない。しかし、王様と女王は多くの物語に登場する。候補となる素材はいくつかに絞られるが、一つの組み合わせを試すためには、一つの「心」の素材が必要だ。全ての可能性を試す時間は、ネマには残されていなかった。


治療薬を作れば、生き残れる可能性はある。でも失敗したら――何も残らないのではないか。身の丈を超えた夢を追いかけ、虚しくこの世を去った錬金術師夫婦。そんな二人の名誉を取り返すと、あの日誓ったのではなかったか。


兄のことも、心残りだった。自分が失敗したら、兄はどんな目に遭わされるのだろう。賢者の石のための素材を、全く別の目的で使ったと分かれば、きっと賠償は免れない。そして、この家にそんな蓄えはない。……犯罪者として、裁かれることもあるかもしれない。


灯を消して布団を被った後も、ネマは全く眠れなかった。両親のこと、街の人たちのこと――そして兄のこと。空が白み、朝日が差しこんだとき、ネマの心は一つに定まっていた。


――賢者の石を作る。


両親の研究を完成させ、王からの依頼も果たし、二人の名誉と、兄の将来を守るのだ。



ついに必要な素材を集め、賢者の石を調合する日がやってきた。


工房の夜は静かだった。


風はなく、星も見えない夜。世界が呼吸を止めているような、深く張りつめた沈黙が漂っていた。


調合部屋の中心には、古びた魔法陣が書き込まれた錬金台が鎮座していた。それは両親が使っていた高価な魔道具で、魔力で素材を宙に浮かし、狙い通りの温度と圧力をかけられる代物だった。


用意した素材のひとつひとつは、数ヶ月にわたる試行錯誤の果てに選び抜かれたものだ。父と母が辿り着き、しかし越えられなかった最後の一歩。今その続きを、ネマが踏み出そうとしていた。


カイルは隅で固唾を呑みながら見守っていた。


ろうそくの明かりに照らされたネマの横顔は、まるで誰か別人のように静かで、強い光を宿していた。


「始めるね」


ネマは一言だけそう言うと、両手をそっと台座の上に置いた。


その瞬間、空気が変わった。


調合台に刻まれた魔法陣が、低く震えるような音と共に鈍く輝き始める。


ネマはか細い声で、レシピに載っていた詩を口ずさみ始めた。


「あの『市場』に行くんだね。『セイボリーセージ』、『ローズマリー』、『タイム』」


それぞれの単語に対応する素材を陣に入れる度、中の液体は色を変える。


「『美しい娘』に伝えておくれ」


ネマの詩には、どこか寂しさを感じさせる響きがあった。最後の一節を口ずさむ前、ネマはカイルをちらりと見た。金色に囚われた蒼い眼差しは、雨上がりの空のように静かで、安らぎすら感じられた。


一瞬の沈黙の後、ネマは目を伏せ、魔法陣を見下ろすと、静かに詩を続けた。


「『心』から愛した人」


最後に差し出されたのは、小さな真紅の結晶。掌に乗るほどの欠片が、まるで脈打つように光を放ち、魔法陣の中心へと吸い込まれていく。


白い光が弾けた。


カイルは思わず目を覆った。眩しさの向こうで、何かが軋む音がした。


光が収まり、音が止む。


空気が、再び静かになった。


カイルがおそるおそる目を開けると、魔法陣の中心に何かが浮かんでいた。淡い紅色の光を帯びた、真球の結晶体。


「……成功、したのか……?」

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