12.暗雲の気配 - side 雅哉

 *


『土曜日の件でちょっと相談したいことがあるから、今夜電話できる?』


 仕事が終わってメッセージを確認した時、深青から連絡が来ていた。

 「家帰って落ち着いたらまた言うから、その時でもいい?」と返すと、「全然いいよ」と彼女は言った。


 相談内容が何なのか全く思いつかなかったが、そこまで大したものではないだろうと勝手に思い込んでいた。

 だから。


『ごめん、やっぱり行き先、海から変えていいかな?』


 深青からの申し出に、思わず面食らってしまった。よりにもよってこのタイミングで行き先を海から変えたいと言ってきたからだった。


 昨日、山口と話した次の日の夜、俺は妙な夢を見た。




『深青』


 陽が傾きかけている海で、俺は深青に話しかけた。


『何?』


 海を見つめていた彼女は、俺の声かけでパッとこちらを向いた。振り向いた際は笑顔だった彼女の表情が、すっと曇っていく様が見えた。


『……どうしたの、そんな顔して』


 そう言ったのは深青だった。自分が今どんな表情をしているか、俺には分からない。でも、今から彼女に伝えなければいけないことがあることだけは分かっていた。

 これを言ってしまえば、もう彼女の笑顔は見られない。


『……俺、ずっと深青に言えなかったことがあったんだ』


『……言えなかったこと?』


『うん。……ずっと迷ってたんだけど、やっぱりどうしても言っておかなきゃって思って』


 ――俺、実は。


 そこまで口に出そうとしたその時、目の前の景色は静かにフェードアウトしていった。


 朝起きた時に覚えていたのはその場面と、恐らくまた夢の中へ入り込んだ時に見たのだろう、夕陽に染められた深青の顔がみるみる間に崩れていってしまった場面だった。

 その時、波が打ち寄せる音だけが痛いほどに響いていた覚えがある。

 そしてその記憶と共に、心から何かを抜き取られたかのような喪失感が体に刻まれていた。


 これはただの悪趣味な夢。そう思いたかった。

 でも……本当に、ただの夢か?


 俺がそう疑ってしまったのは、昨日の夢と同様に、妙な既視感を抱いていたからだった。


 こんなこと、実際には起きたこともないのに、どうしてこんなにも「知っている」気がする?


 そのミスマッチがどうにも気持ち悪くて、なぜか怖かった。




「……えっ?」


 その夢を思い出したせいで、俺はワンテンポ遅れた間抜けな返事しかできなかった。今朝の恐怖感が再び想起されて、顔が強張っていくのが自分でも分かった。

 しかし、彼女は俺のそんな様子を気にすることなく続きを口にする。


『急で申し訳ないんだけど、行きたいところがあるの』


「行きたいところって?」


『銀座の○○百貨店。そこに食べに行きたいお店があって』


「……ちょっと待ってよ」


 いつもと変わらない深青の態度に、俺は少し苛つき始めていた。


「記念日を迎えるから折角深青の好きな海に行こうって考えて計画立ててたのに、それを無碍にしてまで行きたい場所が銀座のお店ってどういうこと?

 そんなの海行った後の日にだっていつでも行けるじゃん。当日の二日前にわざわざ変更することか?」


 深青は若干気分屋な節がある。だが、大体は可愛い程度で済むようなことが多かったので、気にならないわけではなくとも許容範囲内だった。

 しかし、今回は流石に引っかかってしまった。仕事後の疲れに加え、夕べの夢のこともあって頭がごちゃごちゃしていたのもあったからだろうか。半ば八つ当たりのようにそう言ってしまった。


『本当にごめん。折角計画してくれてるのは分かってるし、それをなしにしてしまうのが失礼なことも重々承知してる。でも、どうしても土曜日にそのお店に行きたいの。お願い』


 しかし彼女は俺の八つ当たりにも動じず、毅然とした態度でそう言ってきたのだ。ここまで来ると、頑固な一面もある彼女は自分の意思を変えることはまずないだろう。


 だけど、本当にそのお店に行きたいだけか? 他に何か理由があるのか?

 そう思ったが、明日が記念日だというのに当日まで喧嘩はしたくない。俺が折れるしかなかった。


「……分かった、いいよ。予約できる?」


『ありがとう。電話する前に調べたら、運よく予約できる時間帯があったの。予約完了したら情報送るね』


「了解、よろしく」


 深青がすぐに予約をするということで、この通話はここで終わりとなった。スマホの画面を切って、はぁ、と息を吐く。

 通話中から腰かけていたベッドにそのまま上半身を預けた。


 ……何かがおかしい。


 以前にも深青の気分で何かを変更することは何度もあった。しかし、変更するなら基本的にはまず俺に「こうしたいんだけど、どう?」と相談するのが普通だった。

 事前にあそこまで意思を固めてから伝えてくることは一度もなかった。


 それに、俺の態度に対しても全く動じていなかった。普段なら、俺が怒ると感情を表に出すことが多かったはずなのに、今日はそれが一切見えなかった。

 まるで人が変わったかのような雰囲気だった。


 そこまでしてそのお店に行きたい理由は、と思ったが、ここでもう一つの可能性が浮上してきた。


 ――逆に、海に行きたくなくなった?


 その選択肢を考えた時、ふと頭に過ったのは昨日の夢だった。俺が何かを深青に伝えて、その後に深青が泣いていた。その場所は海だった。


 ……海。


「もしかして……」


 深青は「何かが海で起こる」と思って、行き先を変更してきた?

 彼女は俺が知らない何かを知っている……?


 そこまで考えて、首を振った。いや、そもそも夢のように海で何かを伝えるつもりなどなかったし、俺の夢の内容など深青が知る由もない。これは考えすぎだろう。

 山口から聞いた変な噂に感化されてしまったのかもしれない。


「今日は早めに寝るか……」


 疲れているせいで思考も変な方向に回っているのかもしれない。俺は重い腰を上げて寝る準備を始めることにした。


『お店、予約できたよ』


 そんな一文から始まる彼女の連絡に気付くこともないままで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る