裏仕舞屋噺
望蒼(もうそう)
第一話 『名もなき仕舞い』
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江戸っ子は威勢がいい、なんてのは、裏表知らねぇ者の戯言でさぁ。
表が粋に笑えば、裏じゃ誰かが泣いてる。
泣き声を聞いても、誰も振り返らねぇ町──それが江戸の真ん中で。
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町外れの裏長屋、雨に濡れた土間の奥。
一人の娘が、膝を抱えて震えていた。
年は二十を少し過ぎた頃か。襟のほつれた綿入れ、か細い腕。
生まれも育ちもようござんせん
──小さな農家の末娘が、口減らしに奉公に出された……そんな筋の娘だろう。
「……あの人が、父も、母も……」
顔は腫れ、指先にはかすり傷。
声は細く、けれど確かに、何かを呑み込んだ者の声だった。
娘の前に座す、古道具屋の主──
煤けた火鉢に手をかざしながら、茶を一口。
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人の恨みってぇのは、放っときゃ腐る。
腐りゃあ毒になるが、それを“仕舞う”奴ぁ、そうそういねぇ。
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「まずは、温まりなせぇな。今夜は肌寒い」
娘は差し出された湯呑を両手で包む。
小さく礼を言い、火のゆらめきに涙を浮かべた。
「……訴えました。でも、相手は町年寄の縁続きで……奉行所も……」
その言葉に、久六の手が止まる。
茶碗を火鉢の縁に戻し、くつ、と小さく笑った。
「ほう……そういうお方で?」
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表じゃ“御高祖頭巾”でもかぶって歩いてるような連中が、
裏じゃ人を潰して笑ってやがる。
ま、そんな連中を仕舞うのが、あっしらの役目ってもんで。
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娘は懐から、布に包んだ何かを差し出す。
浅草紙に包まれた小判が、三枚。
「……帳尻を、合わせてください」
久六はそれをじっと見つめ、手には取らない。
そのまま、うっすらと笑って、火鉢に炭をひとつ、静かにくべた。
「──承りやした」
その時、長屋の雨音の向こうで、ふと風が揺れた。
誰かが戸口にいた……いや、もう姿はない。
気配だけが、ひとつ、消えていった。
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……さて、どの仕舞屋に帳尻を任せやしょうかね──
今宵の“仕舞い”は、静かに始まりやす。
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夜の帳が、江戸の町を静かに包む。
丑三つ時──人の気配が最も薄く、闇が深くなる刻。
町年寄の屋敷。
上段の間にて、一人の男が湯漬けを啜っていた。
その顔には、かつて奉公人を物のように扱った者の驕りが、未だ滲んでいる。
ふと、障子がかすかに揺れた。
だが風はない。
男は盃を置き、眉をひそめる。
「……誰かいるのか」
返事はない。
だが次の瞬間──
灯明が一つ、すっと揺らぎ、闇が床に落ちた。
その中に、ひとつ影が立つ。
裸足。濡羽色の着流し。
無言のまま、ゆっくりと抜かれる一振り。
その眼には光がなかった。ただ、手にした刀を、
「斬るに値するか」それだけを測る冷たさがあった。
男が立ち上がるよりも早く、仁兵衛の体がすっと傾く。
一歩、そして一閃。風すら起こらぬ速さ。
血の匂いは、風に乗ることなく、畳に沈んだ。
男は、何が起きたかも分からぬまま、崩れ落ちる。
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火事と喧嘩は江戸の華。
じゃあ、仕舞いは何かって?──さしずめ、影の裏打ちでさぁ。
この町にゃ、法じゃ裁けねぇ輩が山ほどいる。
けど、それでも誰かが泣いてたら……
あっしらは“帳尻”を合わせにいく。それだけのこと。
正義じゃねぇ。
救いでもねぇ。
恨みが積もったら、こっちも刃を研ぐってだけの話。
……さあて、今夜の仕舞いはこれにて。
明日もまた、何処かで誰かが泣いてやす──
その声が、裏まで届きゃあ、また誰かが動くって寸法で──ね。
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