春の女神は夜明けに咲う(わらう)

ぴあの。

序章 それは春の陽に照らされて

 桜舞う麗らかな春。燦々と照る太陽と暖かい風を一身に浴びながら、男は一人、絶望していた。


 絵師として修行するために、家族の反対を押し切り絶縁してまで上京してきたものの、入門した画塾の師匠が急逝。兼ねてから男の才能に嫉妬していた跡取りの息子によって、男はあっさり破門されてしまったのだ。


 寝泊まりしていた屋敷からも追い出され、呆然と門前に立ち尽くしていた。


「俺には絵しかないのに――」


 そんな言葉を呟きながら、師匠から譲り受けていた画材道具を背負い、陽の照り返す道を歩き出した。


 大正デモクラシーの風潮が豪族の屋敷にも影を落とし、日本の生活は少しずつ華やぎを増していた。

 だが、昔ながらの家屋や風景がまだ色濃く残る町並みの中、男は心の行き場を見失い、ただ無心に歩を進めていくしかなかった。


「今更家には帰れないし……いや、まずはまた別の人の門下に入らせてもらうか――でもあの方の代わりだなんて今すぐには考えられない、はぁ……」


 志を絶たれてしまったことが男にとって何よりも動揺が大きく、歩きながらそのことばかり考えて大きなため息をついた。


 これからどうしようか、生きていけるのだろうか――。

 焦点も定まらぬまま俯いて歩いていると、追い討ちをかけるかのように、真正面から猛烈な春風が吹き抜けていった。


――どれだけ心が落ち込んでいても、風はこんなにも暖かくて……今の私には眩しすぎる季節だ。


 そんなことを考えながら、とぼとぼと風で舞った桜吹雪の中へと身を溶かしていくのだった。




 陽光と桜吹雪を浴び、そよ風を感じながら、ただひたすらに赴くままに歩き続ける。

 気づけば町外れにある、木々の生い茂る小高い丘の上まで辿り着いていた。


 人気のない場所であったが、草木の生い茂る匂いの中で町を一望することが出来るそこは、彼にとってえも言われぬ気持ちにさせる場所で、やがて静かに腰を下ろして町を眺めるのだった。


「太陽に導かれてここへ来たのか、はたまた町の連中を見下してやりたかったのか……」


 自分でも何故ここへ辿り着いたのか答えを出せずにいて、心は晴れているのか曇ったままなのかもわからないままひたすらにそこに居続けた。




 陽が傾き始めた頃、何の前触れもなく男はようやく我に返った。暖かい春とはいえ夜はまだ冷え込む。せめて寝泊まりする所を探さねば、と気づいたのだ。


 画塾に泣きついたとてあの息子が泊まらせてくれるとは思えないし、かといって宿を取る程の金もない。師匠から食と住は提供されていたが、給金はほぼなく、屋敷の手伝いだけで生活していたので手持ちが乏しいのである。


 男はすっくと立ち上がり、画材の入った袋を背負って辺りを見渡した。こんな人気のない丘では何も――と思いきや、町を見下ろすその場所の真後ろ、桜の木々の隙間からひっそり家屋の屋根が見えた。

 こんなに近くにあったのに、なぜ全く気づかなかったのだろう。人が住んでいるかはわからないが、今日だけでもこの家屋にご厄介になれれば――と屋敷へと足を伸ばすのだった。




 そこは、門こそないが作りのしっかりしたお屋敷で、思わず息を呑んだ。ここらの地主か、はたまた豪族の別荘だろうか?

 一見人気は感じないが、所々手入れされている様子が見てとれた。


「ごめんください」


 恐る恐る玄関の前で声をかける――が、返事はない。


「あの、ごめんください!」


 少し語気を強めてもう一度声をかけたが反応はなかった。もしかしたら不在なのかもしれない。それならそれで隠れて一晩だけ身を寄せさせてもらおうか――あまりの空腹と疲労に、一瞬、我を忘れてそんな考えが頭をよぎってしまった。――いけない、自分は一体何を考えているんだ。ふるふると首を振って向き直る。


 もしかしたら家の裏手で家事でもしているのかも、と思い立ってぐるりと裏へ回ってみることにした。

 家の側面の様子を見る限りやはり手入れがされているようで、脇には薪も少なからず蓄えられていた。やはり人が住んでいるのではないか、と期待を膨らませながら歩を進める。



 ――と、奥からちゃぷちゃぷと、洗濯でもしているかのような水の音が聞こえてきた。やはり人がいるんだ!男は内心嬉しくなり、思わず小走りでその音の元へと駆けて行った。


「あの、すみませんっ」


 気持ちが急いてしまい裏に到着する前から声をかけてしまったのだが、その光景を目にしてしまった瞬間、言葉を失った。


「きゃっ……!」


 消え入りそうな声を発したその人物は、水の張るタライの中で産まれたままの姿で洗体をしていた若い女子だったのである。


 木漏れ日を浴び、滴る水の光る眩しいほどの柔肌と――まさに長い髪を両手で上げた瞬間だったのだろう。不意に現れた、胸元の瑞々しい豊かな膨らみに、男は呼吸を忘れた。


「ああっ、申し訳ない……!」


 男は慌てて顔を手で覆って彼女に背を向ける。女も背を丸めながら腕で胸元を隠した。


「いえ、こちらこそお目汚し申し訳ありません!」


 男からすれば非があるのは自分なのに、逆に謝られてしまって呆気に取られてしまう。

 いや、それよりも今はとにかくすぐに立ち去ろう。消え入るような声で「失礼しました」と言いながらその場を後にしようとする。


「あの――どういったご用件でしょうか……?」


 それを引き止めるかのように女が恐る恐る口を開いた。てっきり追い返されると思っていた男だったが、むこうから尋ねられてしまった以上応えなくては、と背を向けたまま口を開く。


「その、自分今宿無しでして……途方に暮れながら歩いていた所に偶々このお屋敷に辿り着いたのです。それで、もしよろしければ一晩だけでも泊まらせていただけないかと尋ねた次第。もちろんその分、働かせていただきますのでっ」


 些か早口になってしまったが、尋ねられたことにはなんとか答えられたので、少々肩を下ろす。


「そうだったのですね。すみません、きっと玄関でもお声がけくださりましたよね。こうして裏にいるとなかなか気づけなくて」


 また、儚い声が風に紛れた。――どう考えても自分の行いの方こそ責められて然るべきなのに、男は居た堪れない気持ちになっていく。


「いや、さすがに図々しかったです……こんな失礼なことまでして。今言ったことは忘れてください」


 そう言って背を向けたままその場を去ろうとした――。


「お待ちになってください!」


 先ほどまでの儚げな声とは打って変わって少し強めの語気に、男は思わずびくっと振り向いてしまう。


「ああ、ダメですっ、こちらを向いては!」

「あっ、すみません、すみませんっ!」


 急な視線に女はさらに身体を丸めて裸体を隠し、男もしどろもどろにまた背を向けた。


「こんなはしたない姿のままで申し訳ないです。すぐに着物を着て参りますね」


 そう言うと、恐らく急いで立ち上がったのであろう、ざばっという音と共に、慌てたような足音が縁側を伝って屋敷の中へ消えていった。


 人がいた嬉しさ、その人物が裸体だった衝撃、申し訳なさ……何より何故自分が謝られてしまっているんだという困惑が混ざり合い、既に男の頭の中はぐちゃぐちゃになってしまった――。




「お待たせしました」


 しばらくしてようやく振り返ると、そこには長い髪を髪紐で簡単に結い、この屋敷の雰囲気にはあまりそぐわない質素な緑色の和装で身を包んでいる先程の女が、静々とそこに座っていた。


「とんでもないです。むしろすみません、こんな急な来訪で、しかも家の裏手から」

「確かにびっくりしましたがもう大丈夫です。こちらこそ、先程はお見苦しい姿で大変失礼いたしました」

「そんな、頭を上げてください!私の方こそ大変失礼いたしました」


 お互い何度も頭を下げ、謝罪が止まらない。

 また謝られてしまった……と男は居た堪れない気持ちを抱いたが、互いに頭を下げる流れで無意識に女の胸元がちらと視界に入ってきてしまう。

 恐らくかなり強くサラシを巻いているのだろう。そこは、先程見えた豊満なものからは想像できないほど腰の帯まで真っ平になっていた。

 そんなことを察するも、いやいや何を考えてるんだ、と首を横に振って途端に冷静になっていく。


「先程お話いただいた件ですが、見ての通りこの屋敷はこの広さで私しか住んでおりません。空いている部屋もたくさんありますのでどうぞご自由にお使いください」


 男はその言葉に呆気に取られてしまった。そんなにすんなり泊めてもらえるとも思っていなかったし、それよりももっと注視すべき点がある。


「ここにはあなたしか住んでいない、ということでしょうか?」

「左様でございます」

「いやいや、ちょっと待ってください。一応私は男です。てっきり私は他にも人がいると思っていたので、こんな若い女性が一人きりで住まう所に、無条件で押しかけるのはさすがに気が引けるというか――あなたも大丈夫なのですか、こんな見ず知らずの男を突然泊めてしまって?」


 女は、はて?と言った様子で首を傾げながらしばらく男の顔を見つめていたが、やがて目を見開いてかあっと顔を紅くさせた。


「す、すみません。確かに言われてみればそうですよね。男と女、ですもんね。私はなんてはしたないことを……」


 どうやら自分が言ったことに自覚が無かったらしい。紅くなった頬を手で隠すように覆いながら必死に弁明した。

 男は目を丸くしたが、軽く咳き込んで言葉を続けた。


「やはり私は失礼したほうがいいと思います。お騒がせしてすみませんでした」


 深々と頭を下げると、彼女も釣られて頭を下げる。


「そんな、とんでもないです。こちらこそ失礼致しました。なんのお構いも出来ず。とはいえ……」


 女が言葉を詰まらせながらふと顔を横に向けたので、男もその視線を追うようにそちらを向いてみると、いつの間にか陽は遠くの山へと沈みかけて、空も橙から少しずつ群青へ染まりつつあった。


 かあかあと鴉の鳴き声が響く中で、突然ぎゅるると奇妙な音が混じる。それは朝から何も食していない男の腹の虫の仕業で、咄嗟にお腹を抑えはしたが、既に遅かったらしい。しっかりと彼女の耳にもその音は届いてしまっていたようで、おずおずと口を開く。


「せめて、夕餉だけでもいかがでしょうか……?」

「――面目次第にございません」


 結局男は腹の虫に屈して彼女の提案を受けてしまうという、なんとも情けないことになってしまうのだった。

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