第9話 ホワイトノイズ

20XX年7月5日 18:10 JST (T₀ + 4時間59分)

榛名総合病院 特別観察病棟12階・集中治療室前

https://kakuyomu.jp/users/I_am_a_teapot/news/16818792438085517296




無影灯の青白い光が、ガラス越しに薄暗い廊下へこぼれている。

規則正しく波打つ心電図の電子音が、静寂の中でひときわ大きく響く。

ベッドサイドモニターには「SpO2 98%」「ECG 正常範囲」といった数字が整然と並ぶが、その中央――夏希の名前タグだけが、冷たいLCDの明滅の下で寂しげに揺れていた。


防護ガラスの向こう側、人工呼吸器のマスクに覆われた夏希は、白いシーツの上で眠り姫のように微動だにしない。

頬に貼られた脳波電極が、彼女がまだ「向こう側」と繋がっていることだけを証明している。


「……本当に、目を覚ますよね」

千春が震える声を押し殺して呟く。

手にしたクリーンルーム用ガウンの袖口が、指先を握りしめるたびにわずかに鳴った。


「医者は『深昏睡レベルIII』って言ってた。自発呼吸は保たれてるし、脳波も安定してる」

秋一がデジタルメモに視線を落としたまま、理路整然とした説明を口にする。

けれど、その声色には隠し切れない焦燥が滲んでいた。


冬華は廊下の壁に身体を預け、腕を組んだまま黙っている。

携帯端末に届く通知――政府危機管理センターからの緊急レポートは、数十秒ごとに更新され、赤いバッジが止まらない。


エレベーターホールから硬い革靴の足音が駆けてきた。スーツの上着を肩に掛けたままの男性が、息を整える間もなく廊下を走り抜ける――百瀬陽一、夏希の父親だ。


「百瀬さん!」

看護師が制止しかけるが、陽一は短く頭を下げただけで集中治療室の前まで歩み寄る。ガラス越しの娘の姿を確かめた瞬間、肩を落としかけるものの、すぐに背筋を正した。


和季たちはとっさに左右へ身を引き、進路を空ける。陽一は彼らに気づくと、努めて穏やかな声で言った。

「……夏希のご友人ですね。ありがとうございます、付き添ってくれて」


その顔には緊張が張り付いているが、取り乱す気配はない。彼は俺たち一人一人に目を合わせ、深く礼をした。


看護師が小走りで追いつき、「夏希さんのお父様ですね?」と確認する。

陽一は小さく頷き、手渡された病状説明の書類を受け取る。専門用語の羅列に目を走らせるあいだ、声はかすれていたが「まずは命が助かったと聞きました。本当にありがとうございます」と周囲に頭を下げた。


その背後で、白衣の男性が足早に近づく。夏希の主治医で神経外科の小野寺医師だ。

「百瀬さん、お話を」と静かに呼び掛ける。

二人はガラス壁から数歩離れた場所で小声の会話を交わした。


「CTとチップのログを確認しましたが、先天部位の変性は進行していません。今回の昏睡は、例の量子チップが外的侵入を検知した際のシャットダウン反射と考えられます」

小野寺医師の言葉に、陽一は深く頷く。

「つまり、娘の基礎疾患が直接の原因ではないと?」

「ええ。むしろチップが"守った"形です。ただし、長期的には脳幹部への負荷がかかり続ける恐れがあります。今後も慎重なモニタリングが必要です」

陽一は書類を胸に抱え、「ありがとうございます、先生」と息をついた。

廊下に淡い静寂が戻る。

それを聞いていた和季は、廊下の壁に背を預け、先ほど受けた説明を思い出す。


--- 17:00 JST (T₀ + 3時間49分) ---


長方形の会議卓を囲むように、スーツ姿の政府要人が十数名。

風間統括官、JPCERT/CCの佐藤代表、内閣情報調査室の西宮室長――そして防衛省先端技術局から派遣された技官たちが、それぞれの端末を叩き続けている。

耳障りなキーストロークの連打と、空調の低い唸りだけが室内を満たす。


壁面モニターには世界地図がプロットされ、真紅の点が指数関数的に拡大していく。

『PANDORA ACTIVITY INDEX』と題されたヒートマップの数値は、ここ10分だけで6%も跳ね上がっていた。


風間がリモコンを操作し、地図を指し示す。

「要点だけ話そう。正体不明のウイルス『パンドラ』が世界中のネットワークを壊し始めている。証明書を書き換え、機器同士に誤作動を起こさせる──そんな厄介な性質だ。そして、君たちの友達・夏希さんの補綴脳チップでも、まったく同じ痕跡が検出された」


佐藤が言葉を継ぐ。

「つまりパンドラは、人体内のデバイスにまで入り込める。」

「しかも背後には、このウイルスを作り出した黒幕がいるはずだ。そいつを突き止めない限り、根本的な解決にはならない」


西宮室長が顎に手を当てながら重く頷く。

「今回あのサーバーで検出された信号は、その黒幕へ繋がる重要な手がかりになる。だからこそ、君たちの協力が必要なんだ」


「それで、夏希は」

冬華が椅子から身を乗り出す。


「現時点で、脳神経系にウイルスの直接的侵入は見られない。むしろ、量子チップと脳回路の仲介層が『外部からの干渉』を検知した際に、自律的にシャットダウンした可能性が高い」

技官の一人がホログラフを操作し、夏希の脳波スペクトログラムを呼び出す。


「つまり、防衛反応で意識を遮断した?」


「仮説だが、その方が整合する」


風間が資料を閉じる。

「感染経路を探るには、君たちからの聞き取りが不可欠だ。あのサーバーが狙われた理由が、夏希さんの補綴脳チップや伊万里大臣の別宅という特殊な環境と無関係とは思えない。」


千春が唇を震わせる。

「私のせいだ……」


「私がみんなをあの別宅に連れて行ったから」


「違う。あそこを使わせたのは私の責任だ。あのサーバーも、私が管理していた。」

「国家のサイバー対策を担う立場でありながら、最初の感染源を許した――痛恨の極みだ」


「すまないが、今夜は遅くなる。交通機関もほぼ止まっている状況だ。全員、宿舎フロアに個室を用意してある。必要な物資も手配するからそちらで休んでくれ」


「すみません、それなら僕は一度あの邸宅に戻りたい。サーバーを徹底的に洗えば、まだ何か出てくるかもしれない」

「夏希を呼び戻すヒントだって見つかるかも」


「危険だろ。二次感染の恐れだってあるんじゃ――」


「いや、サーバー内はすでにうちの対策チームが全てチェック済みです」

「なのでそもそも何も見つからないと思いますが、普段通り使っていただくことは可能です」

「聞き取りの後であればいくらでもどうぞ」


--- 現在 18:15 JST (T₀ + 5時間4分) ---


陽一は医師と看護師に深く礼をし、書類を丁寧に折りたたむと俺たちの方へと向き直った。


「ここに来るまでに、政府の方から事情は伺いました。皆さんの迅速な対応があったからこそ、娘は今もここで呼吸している。本当に……ありがとう」


穏やかな言葉の裏で、頬のこわばりと指先の震えが父親の動揺を物語る。秋一が気まずそうに視線をそらしかけたが、陽一は微笑を作り、続ける。


「夏希は、みんなと過ごす時間が大好きなんだと思います。よく話してくれるんです――あなたたちのロボコンのことや、実験したり企画したりとか、楽しそうに」


「私は一度、自宅に戻って必要な物を取ってきます。……研究にかまけて家を空けがちで、恥ずかしい限りですが」


ローファーの足音が遠ざかり、廊下に深い余白が落ちる。


秋一が口を開く。「夏希、脳に疾患があるって……」


冬華が目を伏せたまま小さく頷く。「私も……知らなかった」


和季も低い声で続ける。「俺もだ」


またしばしの沈黙。皆俯いている。


「……帰る」


長椅子から立ち上がった和季は、乱れた前髪を手で払う。

「ここにいても、俺たちに出来ることはない」


千春は胸ポケットに指を添え、薄いプラスチックカードの感触を確かめるように俯いた。

銀色のストラップが覗き、彼女の震える指がそれを隠す。


「……『秘密基地』のカードキー、私が持ってます。でも――」

かすれた声が途切れ、唇が『私のせいで』と無音で動く。


和季は静かに手を差し出した。

「少しでも何かしてたいんだ。手を動かしてたいだけだよ」


数拍の沈黙。廊下の蛍光灯が低く唸る。

やがて、千春はカードキーを外し、和季の掌へ置く。

「本当に気をつけてくださいね」


和季は頷き、カードを受け取る。

「ありがとう」


和季は廊下を後にする。


秋一が長椅子にどっと座り項垂れる。

「俺たちに出来ることは……本当にないのか?」


「分かんないけど、和季も私たちも同じ気持ちなんだよ」

冬華は秋一の肩を軽く叩く。


18:18 JST (T₀ + 5時間7分)。

東京のネオンはまばゆく瞬いていた――だが、その光の海の下で、見えない闇が静かに世界を侵食し始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る